表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

第10話「私の場所」

「——レナート」


シルヴィアが名前を呼び返した。


声は静かだった。宿の女将としての応対の声ではなかった。ただ名前だけが、朝の食堂に落ちた。


レナートは宿の入口に立っていた。荷袋を肩にかけ、外套を腕に掛けて。扉は半分開いている。朝の光が斜めに差し込み、銀の鈴がその光を弾いていた。


シルヴィアはカウンターの内側に立っていた。帳簿の傍。いつもの場所。


二人の間に、食堂の距離があった。テーブル四つ分。窓辺の空席。カウンター。銀の鈴。


レナートの喉が動いた。


言葉が、そこまで来ていた。


俺は——。


口を開きかけた。


マルコが、静かに一歩前に出た。


宿の外から。扉の脇に立っていたマルコが、音もなくレナートの横に並び、視線だけを向けた。


その目は穏やかだった。だが明確だった。


ここではなく、正式な形で。


声には出さなかった。目だけで伝えた。六年の付き合いが、それを可能にしていた。


レナートの顎が引き締まった。歯を食いしばったのが、一瞬だけ見えた。


マルコの判断は正しい。それはわかっていた。


宿屋の入口で、唐突に身分を明かすことが何を意味するか。シルヴィアに何の準備もない状況で、王子という肩書きを突きつけることになる。この場所で築いた全てを——名前だけで呼び合い、閉店後の食堂で茶を飲み、互いの過去を断片だけ交わした、あの距離を——壊すことになる。


レナートは一度、目を閉じた。


開けた。


マルコの制止は受け入れた。だが、自分自身の言葉まで止められたわけではない。


「俺は——まだ、あなたに伝えていないことがある」


声が、食堂に落ちた。


シルヴィアの目がわずかに動いた。瞬きが一つ。


「それを伝えに、必ず戻る。だから——」


言葉が途切れた。


喉の奥で、二つの言葉がぶつかっていた。「待っていてくれ」と言いたかった。だがそれは、あの人の生き方を否定する言葉だ。誰かのために場所を空けて待つ——シルヴィアが捨てた生き方そのものだ。


だから、別の言葉を選んだ。


「待っていてくれ、とは言わない」


シルヴィアの呼吸が止まった。胸が動かなくなった。目が、レナートに固定された。


「ただ、この宿を続けていてくれ。俺が帰る場所を、なくさないでくれ」


食堂の空気が変わった。


帰る場所。


その言葉が、シルヴィアの中に落ちた。深く。重く。


レナートの目は真っ直ぐだった。無表情ではなかった。感情が制御を超えて、目の奥に滲んでいた。


シルヴィアは答えなかった。


長い沈黙だった。


ランプはまだ点いていない。朝の光だけが食堂を照らしている。銀の鈴が微かに揺れている。風はないのに。


シルヴィアは何も言わず、カウンターを出た。


厨房に入った。


レナートは動かなかった。扉の前に立ったまま、シルヴィアが消えた厨房の入口を見ていた。


数秒。


シルヴィアが戻ってきた。


手に、布で包んだ小さな包みを持っていた。


レナートの前に立った。カウンター越しではなく、食堂のテーブルの間を抜けて、扉の前まで。


包みを差し出した。


「道中、お腹が空くでしょう」


声は平坦だった。いつもの声。客を送り出す宿の女将の声。


だが、包みを持つ手が震えていなかった。昨夜、銀の鈴を磨いたときの震えはなかった。


意志で止めていた。


レナートは包みを受け取った。


指先が、シルヴィアの指に触れた。


包みを渡す手と、受け取る手。その間に。


どちらも引かなかった。


一秒。二秒。三秒。


焼き菓子の匂いが、布越しに漂った。バターと蜂蜜の、素朴な甘い匂い。レナートが好んでいた焼き菓子。


四秒。五秒。


レナートの指が、ゆっくりと離れた。


包みを荷袋にしまった。


「ありがとう」


声が掠れていた。


シルヴィアは何も言わなかった。一歩下がり、レナートに道を空けた。


レナートは扉を開けた。


からん、と銀の鈴が鳴った。


朝の光の中に、レナートの背中が出ていく。マルコが半歩後ろについて歩く。街道に向かう二人の姿が、朝靄の中で小さくなっていく。


扉が閉まった。


鈴の音が消えた。


シルヴィアは扉の前に立ったまま動かなかった。


右手を見た。さっきレナートの指が触れた手。温もりがまだ残っている。


握り込まなかった。


開いたまま、見つめた。


そして小さく、本当に小さく、笑った。


唇の端が上がり、頬がわずかに緩む。音のない笑み。目が潤んでいるようにも見えたが、涙は落ちなかった。


待つのではない。


私はここで、私の場所を守る。


あなたが帰ってくるなら——鈴は鳴る。



レヴィアンス王国、ハイゼンベルト伯爵家。


グレンは父の書斎に呼び出されていた。


伯爵は机の向こうに座り、息子を見据えていた。白髪が増えた顔に、疲労の色が濃い。


机の上には書類が積まれていた。取引先からの書簡。社交関連の報告書。幹事交代の通知書の写し。


「座れ」


短い声だった。


グレンは向かいの椅子に腰を下ろした。


伯爵は書類には目をやらず、グレンだけを見ていた。


「ヴァイスベルク家との縁を切った代償が、これか」


グレンの指が、膝の上で握りしめられた。


「父上、これは——」


「黙って聞け」


声は怒鳴り声ではなかった。低く、静かで、だからこそ重かった。


「社交の段取りが崩れ、三家が親睦会を辞退し、幹事を他家に奪われ、取引先からは信用の回復を待つと言われている。全てお前がシルヴィア嬢を手放した後に起きたことだ」


グレンは口を開きかけた。


「シルヴィアが勝手に——」


「勝手に出て行ったか?」


伯爵の声が、グレンの言葉を断ち切った。


「お前が夜会の席で、婚約者の前で何を言ったか。私は知っている」


沈黙が落ちた。


グレンの顔から、血の気が引いた。


「あの夜、お前は自分の婚約者に向かって『妹ほど可愛くない』と言った。侯爵家の令嬢に。三年間、この家の社交をたった一人で支えてくれた女性に」


伯爵は机に両手をついた。


「出て行ったのではない。追い出したのだ、お前が」


グレンは反論しなかった。


できなかった。


言葉がなかった。言い返すための理屈が、一つも見つからなかった。


伯爵は椅子の背にもたれた。


「始末はお前がつけろ。私が尻を拭う回数は、もう残っていないと思え」


グレンは立ち上がった。


「……失礼します」


声は小さかった。


書斎を出た。廊下を歩く足取りに、以前の軽さはなかった。


書斎の中で、伯爵は一人、目を閉じた。


机の上の書類の一番下に、古い書簡が一通あった。ヴァイスベルク侯爵家からの、婚約解消届への署名同意書の写し。


数ヶ月前の日付が、紙の上で静かに色褪せ始めていた。



クレーネ。銀鈴亭。朝。


シルヴィアは宿の扉を開けた。


朝の空気が入ってくる。湿った土の匂いと、遠くから聞こえる荷馬車の音。街道には旅人の姿がちらほら見える。


扉の金具に掛けた銀の鈴を、布巾で磨いた。


いつもの朝の動作。毎日やっていること。


鈴は小さく光った。


食堂に戻る。テーブルを拭き、皿を並べ、ランプの芯を確かめる。帳簿を開き、今日の仕入れを確認する。


全部、一人でやる。


一人で回す宿。一人で作る食事。一人で閉める帳簿。


それは変わらない。


窓辺の席が、空いている。


椅子はきちんと戻されている。最後の朝食の後、レナートが立ち上がったときのまま。


シルヴィアはその席を見た。


目を逸らさなかった。


空席を、空席のまま見つめた。


そこに悲しみはなかった。寂しさはあった。だがそれは、胸を潰す類のものではなかった。


あの人はここにいた。


ここの料理を食べ、ここの椅子に座り、ここの空気を吸って、「ここにいると、探さなくていい気がする」と言った。


そして「帰る場所をなくさないでくれ」と言って去った。


待つのではない。


誰かの隣で、じっと座って、帰りを数える日々に戻るつもりはない。


私はここで、私の仕事をする。仕入れに行き、仕込みをし、客を迎え、帳簿をつけ、鈴を磨く。


自分の場所を、自分の手で守る。


それを続けた先に、あの鈴がまた鳴る日が来るなら。


それは待ったのではない。私がここにいることを、選び続けた結果だ。


からん、と銀の鈴が鳴った。


最初の客が入ってくる。街道を歩いてきたらしい旅人が、食堂を見回して「一泊、頼めるかい」と言った。


シルヴィアはカウンターの内側に立ち、宿帳を開いた。


「いらっしゃいませ。お食事はつけますか」


声は、いつも通りだった。この場所で何度も繰り返してきた、宿の女将の声だった。


ここが、私の場所だ。


誰かの隣で与えられた席ではなく、自分で作った場所。


朝の光の中で、銀の鈴が揺れている。


(完)


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


もし楽しんでもらえたなら★★★★★ボタンをぜひ押していただけると嬉しいです!

ブックマークやリアクションなどもとても活力になっています!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
楽しかったです。 最後のシーン、朝って書いてて、少なくとも夕方どころか昼にもなっていなさそうなのに、旅人がやって来て1泊頼むのは、違和感がありました。 旅をしているなら、日中は移動して距離を稼ぎたいの…
とても素敵なお話でした シルヴィアとレナートの、言葉に出さないけど少しずつ心が繋がっていく感じがすごく良かったです ぜひ!ぜひ!続編や第二部の連載を…!なにとぞ! ふたりのその後がとても見たいです!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ