第10話「私の場所」
「——レナート」
シルヴィアが名前を呼び返した。
声は静かだった。宿の女将としての応対の声ではなかった。ただ名前だけが、朝の食堂に落ちた。
レナートは宿の入口に立っていた。荷袋を肩にかけ、外套を腕に掛けて。扉は半分開いている。朝の光が斜めに差し込み、銀の鈴がその光を弾いていた。
シルヴィアはカウンターの内側に立っていた。帳簿の傍。いつもの場所。
二人の間に、食堂の距離があった。テーブル四つ分。窓辺の空席。カウンター。銀の鈴。
レナートの喉が動いた。
言葉が、そこまで来ていた。
俺は——。
口を開きかけた。
マルコが、静かに一歩前に出た。
宿の外から。扉の脇に立っていたマルコが、音もなくレナートの横に並び、視線だけを向けた。
その目は穏やかだった。だが明確だった。
ここではなく、正式な形で。
声には出さなかった。目だけで伝えた。六年の付き合いが、それを可能にしていた。
レナートの顎が引き締まった。歯を食いしばったのが、一瞬だけ見えた。
マルコの判断は正しい。それはわかっていた。
宿屋の入口で、唐突に身分を明かすことが何を意味するか。シルヴィアに何の準備もない状況で、王子という肩書きを突きつけることになる。この場所で築いた全てを——名前だけで呼び合い、閉店後の食堂で茶を飲み、互いの過去を断片だけ交わした、あの距離を——壊すことになる。
レナートは一度、目を閉じた。
開けた。
マルコの制止は受け入れた。だが、自分自身の言葉まで止められたわけではない。
「俺は——まだ、あなたに伝えていないことがある」
声が、食堂に落ちた。
シルヴィアの目がわずかに動いた。瞬きが一つ。
「それを伝えに、必ず戻る。だから——」
言葉が途切れた。
喉の奥で、二つの言葉がぶつかっていた。「待っていてくれ」と言いたかった。だがそれは、あの人の生き方を否定する言葉だ。誰かのために場所を空けて待つ——シルヴィアが捨てた生き方そのものだ。
だから、別の言葉を選んだ。
「待っていてくれ、とは言わない」
シルヴィアの呼吸が止まった。胸が動かなくなった。目が、レナートに固定された。
「ただ、この宿を続けていてくれ。俺が帰る場所を、なくさないでくれ」
食堂の空気が変わった。
帰る場所。
その言葉が、シルヴィアの中に落ちた。深く。重く。
レナートの目は真っ直ぐだった。無表情ではなかった。感情が制御を超えて、目の奥に滲んでいた。
シルヴィアは答えなかった。
長い沈黙だった。
ランプはまだ点いていない。朝の光だけが食堂を照らしている。銀の鈴が微かに揺れている。風はないのに。
シルヴィアは何も言わず、カウンターを出た。
厨房に入った。
レナートは動かなかった。扉の前に立ったまま、シルヴィアが消えた厨房の入口を見ていた。
数秒。
シルヴィアが戻ってきた。
手に、布で包んだ小さな包みを持っていた。
レナートの前に立った。カウンター越しではなく、食堂のテーブルの間を抜けて、扉の前まで。
包みを差し出した。
「道中、お腹が空くでしょう」
声は平坦だった。いつもの声。客を送り出す宿の女将の声。
だが、包みを持つ手が震えていなかった。昨夜、銀の鈴を磨いたときの震えはなかった。
意志で止めていた。
レナートは包みを受け取った。
指先が、シルヴィアの指に触れた。
包みを渡す手と、受け取る手。その間に。
どちらも引かなかった。
一秒。二秒。三秒。
焼き菓子の匂いが、布越しに漂った。バターと蜂蜜の、素朴な甘い匂い。レナートが好んでいた焼き菓子。
四秒。五秒。
レナートの指が、ゆっくりと離れた。
包みを荷袋にしまった。
「ありがとう」
声が掠れていた。
シルヴィアは何も言わなかった。一歩下がり、レナートに道を空けた。
レナートは扉を開けた。
からん、と銀の鈴が鳴った。
朝の光の中に、レナートの背中が出ていく。マルコが半歩後ろについて歩く。街道に向かう二人の姿が、朝靄の中で小さくなっていく。
扉が閉まった。
鈴の音が消えた。
シルヴィアは扉の前に立ったまま動かなかった。
右手を見た。さっきレナートの指が触れた手。温もりがまだ残っている。
握り込まなかった。
開いたまま、見つめた。
そして小さく、本当に小さく、笑った。
唇の端が上がり、頬がわずかに緩む。音のない笑み。目が潤んでいるようにも見えたが、涙は落ちなかった。
待つのではない。
私はここで、私の場所を守る。
あなたが帰ってくるなら——鈴は鳴る。
◇
レヴィアンス王国、ハイゼンベルト伯爵家。
グレンは父の書斎に呼び出されていた。
伯爵は机の向こうに座り、息子を見据えていた。白髪が増えた顔に、疲労の色が濃い。
机の上には書類が積まれていた。取引先からの書簡。社交関連の報告書。幹事交代の通知書の写し。
「座れ」
短い声だった。
グレンは向かいの椅子に腰を下ろした。
伯爵は書類には目をやらず、グレンだけを見ていた。
「ヴァイスベルク家との縁を切った代償が、これか」
グレンの指が、膝の上で握りしめられた。
「父上、これは——」
「黙って聞け」
声は怒鳴り声ではなかった。低く、静かで、だからこそ重かった。
「社交の段取りが崩れ、三家が親睦会を辞退し、幹事を他家に奪われ、取引先からは信用の回復を待つと言われている。全てお前がシルヴィア嬢を手放した後に起きたことだ」
グレンは口を開きかけた。
「シルヴィアが勝手に——」
「勝手に出て行ったか?」
伯爵の声が、グレンの言葉を断ち切った。
「お前が夜会の席で、婚約者の前で何を言ったか。私は知っている」
沈黙が落ちた。
グレンの顔から、血の気が引いた。
「あの夜、お前は自分の婚約者に向かって『妹ほど可愛くない』と言った。侯爵家の令嬢に。三年間、この家の社交をたった一人で支えてくれた女性に」
伯爵は机に両手をついた。
「出て行ったのではない。追い出したのだ、お前が」
グレンは反論しなかった。
できなかった。
言葉がなかった。言い返すための理屈が、一つも見つからなかった。
伯爵は椅子の背にもたれた。
「始末はお前がつけろ。私が尻を拭う回数は、もう残っていないと思え」
グレンは立ち上がった。
「……失礼します」
声は小さかった。
書斎を出た。廊下を歩く足取りに、以前の軽さはなかった。
書斎の中で、伯爵は一人、目を閉じた。
机の上の書類の一番下に、古い書簡が一通あった。ヴァイスベルク侯爵家からの、婚約解消届への署名同意書の写し。
数ヶ月前の日付が、紙の上で静かに色褪せ始めていた。
◇
クレーネ。銀鈴亭。朝。
シルヴィアは宿の扉を開けた。
朝の空気が入ってくる。湿った土の匂いと、遠くから聞こえる荷馬車の音。街道には旅人の姿がちらほら見える。
扉の金具に掛けた銀の鈴を、布巾で磨いた。
いつもの朝の動作。毎日やっていること。
鈴は小さく光った。
食堂に戻る。テーブルを拭き、皿を並べ、ランプの芯を確かめる。帳簿を開き、今日の仕入れを確認する。
全部、一人でやる。
一人で回す宿。一人で作る食事。一人で閉める帳簿。
それは変わらない。
窓辺の席が、空いている。
椅子はきちんと戻されている。最後の朝食の後、レナートが立ち上がったときのまま。
シルヴィアはその席を見た。
目を逸らさなかった。
空席を、空席のまま見つめた。
そこに悲しみはなかった。寂しさはあった。だがそれは、胸を潰す類のものではなかった。
あの人はここにいた。
ここの料理を食べ、ここの椅子に座り、ここの空気を吸って、「ここにいると、探さなくていい気がする」と言った。
そして「帰る場所をなくさないでくれ」と言って去った。
待つのではない。
誰かの隣で、じっと座って、帰りを数える日々に戻るつもりはない。
私はここで、私の仕事をする。仕入れに行き、仕込みをし、客を迎え、帳簿をつけ、鈴を磨く。
自分の場所を、自分の手で守る。
それを続けた先に、あの鈴がまた鳴る日が来るなら。
それは待ったのではない。私がここにいることを、選び続けた結果だ。
からん、と銀の鈴が鳴った。
最初の客が入ってくる。街道を歩いてきたらしい旅人が、食堂を見回して「一泊、頼めるかい」と言った。
シルヴィアはカウンターの内側に立ち、宿帳を開いた。
「いらっしゃいませ。お食事はつけますか」
声は、いつも通りだった。この場所で何度も繰り返してきた、宿の女将の声だった。
ここが、私の場所だ。
誰かの隣で与えられた席ではなく、自分で作った場所。
朝の光の中で、銀の鈴が揺れている。
(完)
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