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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅


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第8話「二つの沈黙」

シルヴィアは茶を淹れた。


棚の奥に置いていた、少しだけ上等な茶葉。普段は客に出さない。仕入れ値が合わないからだ。けれど今夜は、それを選んだ。


理由は自分でもわからない。わからないまま、湯を注いだ。


閉店後の食堂。ランプの灯りが一つ。窓辺の席にレナートがいる。


昨夜の問いかけ——「なぜこの町で、一人で宿を」。


その答えを、まだ返していなかった。


茶を二つ、テーブルに置いた。レナートの前と、その向かいに。


シルヴィアは向かいの椅子を引き、座った。


カウンターの内側ではなく、テーブルを挟んで向かい合う。客と女将の距離ではない。それを選んだのは自分だった。


レナートは茶杯に視線を落とし、それからシルヴィアを見た。


待っている目だった。急かさない。問い詰めない。ただ、聞く用意がある、というだけの目。


シルヴィアは茶杯を両手で包んだ。陶器の温度が指先に伝わる。


「以前は、別の国にいました」


声は静かだった。


帳簿の数字を読み上げるときと、あまり変わらない温度。けれど言葉を選ぶ間が、いつもより長かった。


「隣にいた人がいました。三年、一緒にいました」


茶杯の縁を、親指がなぞった。


「いなくなった——というより、最初から私の場所ではなかったと、気づいたんです」


レナートは黙って聞いていた。茶杯に手を伸ばさず、姿勢も変えず。


「だから自分の場所を作ろうと思いました。誰かの隣ではなく、自分の足で立てる場所を」


それだけだった。


名前は出さなかった。婚約という言葉も、侯爵家という言葉も。グレンのことも、リゼットのことも。何一つ具体的には語らなかった。


全てを晒す必要はない。


伝えたいことだけを、伝えたい分だけ。それが自分で選んだ範囲だった。


沈黙が落ちた。


長い沈黙だった。だが重くはなかった。シルヴィアの言葉が食堂の空気に染み込んでいくような、そういう静けさだった。


レナートが口を開いた。


「俺も——自分の場所を探している」


声が低かった。いつもより、さらに。


「生まれた場所には、俺の席はあった。だがそれが、俺のためのものかどうかはわからなかった」


茶杯に手を伸ばした。持ち上げたが、口にはつけなかった。


「肩書きがなくなったとき、自分に何が残るのか。それを知りたくて、旅に出た」


レナートの目が、茶杯の水面を見ていた。


「答えは、まだ出ていない」


それだけだった。


身分は明かさなかった。王子という言葉も、遊歴という言葉も出なかった。完全な嘘ではない。だが、全てでもない。不完全な真実。


シルヴィアはそれを受け取った。


問い返さなかった。「肩書き」が何を意味するのか、聞かなかった。自分も語らなかった部分がある。相手にも、語らない部分がある。それでいい。


二人の間にあるのは、互いの事情の全てではなかった。


ただ——「場所を探している」という一点だけが、重なっていた。


シルヴィアは茶を一口飲んだ。少し冷めていた。


「あなたの探している場所は、見つかりそうですか」


問いは、自然に出た。


レナートは答えなかった。


代わりに、視線が動いた。


食堂の壁。カウンター。棚に並んだ皿。入口の銀の鈴。天井の梁。そしてシルヴィアの手元——茶杯を包む指。


ゆっくりと、食堂全体を見渡すように。


この場所を、確かめるように。


そして目を伏せた。


「……わからない」


間があった。


「だが、ここにいると、探さなくていい気がする」


シルヴィアの呼吸が止まった。


胸の奥で何かが詰まった。喉が塞がった。肺に空気が入らなかった。それは一秒にも満たない時間だったが、体の中では長かった。


返事はしなかった。


できなかった。


何を言えばいいのかわからなかった。「ありがとう」は違う。「そうですか」も違う。どの言葉を選んでも、今この瞬間に食堂を満たしているものを壊してしまう気がした。


だから黙った。


レナートもそれ以上は言わなかった。


沈黙が広がった。


けれどそれは、答えを待つ沈黙ではなかった。言葉が足りない沈黙でもなかった。


二人がそれぞれに、今の時間を受け止めている沈黙だった。


ランプの炎が揺れた。茶杯から立つ湯気がもう見えない。どれくらいの時間が経ったのか。


レナートが静かに立ち上がった。


「茶、美味かった」


いつもの短い言葉。いつもの低い声。


だがその声の奥に、言わなかったものの重さが残っていた。


「おやすみなさい」


シルヴィアの声は平坦だった。いつも通りの、閉店後の挨拶。


レナートが二階に上がっていく。足音が遠ざかる。


食堂に一人。


シルヴィアは茶杯を見つめた。向かい側の、レナートが使った茶杯。口をつけた跡がわずかに残っている。


言葉にしなかった。


何も言わなかった。


なのに——伝わった気がする。


自分が何を感じたのか。レナートが何を伝えようとしたのか。そのどちらも、言葉にはなっていない。


なのに、食堂の空気が変わっていた。


名前を交わした夜に似ている。けれどあの夜よりも深い。指先が触れた夜よりも近い。言葉を使わなかったからこそ、届いたものがある。


シルヴィアは二つの茶杯を重ねて、厨房に運んだ。


洗いながら、息を吐いた。長く、ゆっくりと。


これは何だろう。


問いかけたが、答えは出さなかった。出さないまま、茶杯を拭いて棚に戻した。



クレーネの市場。翌日の昼。


シルヴィアは青果台で人参を選んでいた。


隣の台で干し肉を品定めしていた商人が、連れの男と話しているのが耳に入った。


「レヴィアンスのハイゼンベルト伯爵家、知ってるか。最近ずいぶん評判が悪いらしい」


「ああ、聞いたな。社交の段取りが滅茶苦茶で、あちこちの家に失礼を重ねてるとか」


「前の婚約者がいた頃はうまくいってたのに、妹に替えたら回らなくなったんだと」


「自業自得じゃないか」


商人が笑った。連れの男も肩をすくめた。


シルヴィアは人参を籠に入れた。


表情は変わらなかった。


「おかみさん、レヴィアンスの話、聞いた?」


青果の主人が声をかけてきた。


「いいえ」


「伯爵家が社交で失態続きなんだとさ。街道筋の商人がみんな言ってるよ」


「そうですか」


銅貨を台に置き、籠を持ち上げた。


それだけだった。


怒りも、溜飲が下がる感覚も、何もなかった。もう自分とは関わりのない場所の話だ。聞こえてくるのは仕方ないが、足を止める理由はない。


市場を歩く。


籠の中で野菜が揺れる。今夜の仕込みの段取りを頭の中で組み立てる。レナートは煮込みが好きだが、昨夜は焼き魚にした。今夜は鶏肉がいい。ゲルツ親方のところに寄って——。


足が止まった。


今、献立を考えるときに、真っ先にレナートの好みが浮かんだ。


客の好みに合わせるのは宿屋の女将として当然のことだ。常連客の嗜好を把握するのは商売の基本だ。


そのはずだった。


なのに、今の思考の順番は——まずあの人が何を食べたいかを考え、そこから献立を組み立てていた。


シルヴィアは歩き出した。


考えすぎだ。常連客が多い宿では当たり前のことだ。


自分にそう言い聞かせたが、足取りが少しだけ速くなっていたことには気づかなかった。



レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。


書斎の机の上に、封蝋のついた書簡が三通並んでいた。


いずれも同じ文面の問い合わせへの返答。ハイゼンベルト家との取引条件の見直しを打診した商会からの回答だった。


グレンはそれを読んでいなかった。


窓際に立ち、庭を見ている。


信用が落ちている。それは認めざるを得なかった。


社交上の失態は、噂として商人の口に乗る。商人の口は街道を伝い、国境を越える。レヴィアンス国内だけの問題ではなくなりつつあった。


「兄さま」


リゼットの声が廊下から聞こえた。


グレンは窓から離れ、書斎の椅子に座り直した。書簡をさりげなく書類の下に滑り込ませた。


「入っておいで」


リゼットが扉を開けた。いつもの、少し甘えたような足取り。


「今日のお手紙、わたしが仕分けしましたの。兄さまのお役に立てたかしら」


「ああ、ありがとう」


グレンは微笑んだ。


リゼットは嬉しそうに笑った。それから、机の上の書類に目をやった。


「……お忙しそうですのね」


「少しね。大したことじゃないよ」


大したことだった。だが、リゼットに見せる顔ではなかった。


リゼットは頷いて、書斎を出ていった。


扉が閉まった後、グレンは書類の下から書簡を引き出した。


三通のうち一通の末尾に、こう書かれていた。


「貴家との取引については、今後の社交上の信用回復を見定めた上で再検討したく存じます」


社交の信用低下が、経済にも波及し始めている。


グレンは書簡を机に置いた。指が紙の縁を押さえたまま、動かなかった。


目を閉じた。


開けた。


「……まだ、手はある」


同じ言葉を、また呟いた。


だがその声は、前に呟いたときよりも小さかった。



クレーネ。銀鈴亭。夜。


閉店後の食堂で、シルヴィアは銀の鈴を磨いていた。


二階から、マルコの声がかすかに聞こえた。


「そろそろ遊歴の期限が近い」


低い声だった。壁越しに漏れてきたのか、廊下に出たときの声だったのか。


シルヴィアの手は止まらなかった。聞くつもりで聞いたわけではない。たまたま届いた声だった。


遊歴。期限。


意味はわからなかった。旅の事情は人それぞれだ。期限のある旅もあるだろう。


だが——「期限」という言葉が、銀の鈴を磨く手の中に残った。


この人は旅人だ。旅人には旅の終わりがある。最初からわかっていたことだ。


シルヴィアは鈴を布巾で包み、扉の金具に掛け直した。


食堂のランプを消す。


暗闇の中で、一人、立ち尽くした。


何も考えまい、と思った。


考えたところで、変わることは何もない。

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