第7話「空いた席」
彼が来なくなって、四日目だった。
銀鈴亭の食堂は、以前より賑わっていた。街道の泥が乾き、旅人の往来が戻ってきたのだ。昨夜は三組の客が泊まり、今朝の朝食も全卓が埋まった。
シルヴィアは皿を運び、注文を聞き、厨房に戻って鍋をかき混ぜた。忙しいのはいいことだ。手が止まらなければ、余計なことを考えずに済む。
朝食の片付けを終え、食堂を拭いて回る。
窓辺の席。
布巾がそこで止まった。
四日間、誰も座っていない席。他の客が座ろうとしたとき、シルヴィアは何も言わなかった。言う理由がない。空いている席だ。誰が座ってもいい。
だが今朝、その席だけがたまたま空いていた。
布巾を動かす。テーブルを拭く。椅子の位置を整える。
いつもの作業だ。何も変わらない。
変わらないのに、視線がその席に戻る。
シルヴィアは布巾を絞り、カウンターに戻った。
帳簿を開く。数字は順調だ。客足が増え、収入の行が伸びている。仕入れも安定している。ゲルツ親方との取引は信頼関係が固まり、良い肉を優先的に回してもらえるようになった。
宿は、うまく回っている。
一人で。
一人で、回せている。
それでいい。それが望んだ形だ。
帳簿を閉じ、昼の仕込みに取りかかった。
鍋に水を張る。根菜の皮を剥く。包丁の音が厨房に響く。
手が覚えている。煮込み料理の手順。火加減。塩の量。
——レナートが好んでいた煮込み。
包丁が止まった。
人参を半分まで切ったところで、刃が動かなくなった。
シルヴィアは手元を見た。
献立は煮込みにするつもりだった。季節の根菜が安く手に入ったからだ。それだけの理由だ。特定の誰かの好みに合わせたわけではない。
そのはずだった。
なのに、頭の中に浮かんだのは、煮込みを食べるあの男の横顔だった。一口目の間。目を細める仕草。空になった皿。
「……馬鹿馬鹿しい」
声に出して言った。
包丁を動かした。人参を切り終え、鍋に入れる。煮込みは煮込みだ。誰のためでもない。今日の客のために作る。それだけのことだ。
手は動いた。
動いたが、味見をしたとき、舌の上に広がる味が正しいのかどうか、いつもより自信が持てなかった。
夕方。
日が傾き始めた頃、シルヴィアは食堂の準備を整えていた。
テーブルを拭き、皿を並べ、ランプの芯を確かめる。今夜の宿泊客は二組。食事つき。
窓辺の席にも皿を置いた。予約の席ではない。ただ、全席に準備しただけだ。
ランプに火を入れる。食堂に温かい光が広がる。
からん、と銀の鈴が鳴った。
シルヴィアの手が止まった。
ランプの火を調整していた指が、そのまま動かなくなった。
心臓が跳ねた。思考より先に。理由を考える前に。体が反応した。
顔を上げた。
扉の前に、レナートが立っていた。
肩に旅の荷袋。外套に街道の埃。頬にわずかな日焼け。数日間、外を歩いていた人間の姿。
目が合った。
シルヴィアの目が、一瞬だけ見開かれた。ほんの一瞬。自分でも気づかないほどの変化だった。
すぐに、いつもの表情に戻した。
「一泊、頼む」
レナートの声だった。
低い。簡潔。以前と同じ言葉。同じ調子。
なのに——その声が耳に届いた瞬間、胸の奥で何かが緩んだ。ほどけた、と言ったほうが近い。四日間、知らずに締めていたものが。
「いつもの部屋でいいですか」
口が勝手に動いた。
言ってから気づいた。「いつもの」と言った。いつもの部屋。そんな言い方をしたのは初めてだった。この人に対して、「いつもの」という言葉が自然に出た。
レナートは一拍、間を置いた。
「ああ」
その声が、いつもよりわずかに柔らかかった。気のせいかもしれない。だがシルヴィアの耳は、その差を聞き取っていた。
レナートは窓辺の席に荷袋を下ろした。
あの席に。四日間空いていた、あの席に。
シルヴィアは鍵を取りに行くふりをして、一度カウンターの裏に入った。
息を吸った。吐いた。
心臓がまだ速い。落ち着け、と自分に言った。客が戻ってきた。それだけのことだ。宿屋に客が来た。それだけだ。
鍵を持って食堂に戻る。
レナートの後から、マルコが入ってきた。
からん、と鈴がもう一度鳴る。
マルコは荷を背負ったまま、シルヴィアに軽く頭を下げた。
「また世話になります」
「お待ちしていました」
言ってしまってから、少しだけ後悔した。「お待ちしていました」は、いつも使う言葉ではない。「いらっしゃいませ」でよかったのに。
マルコはわずかに目元を和らげた。何も言わなかった。
鍵を渡し、二人が二階に荷を置きに上がっていく。
階段の途中で、マルコの小さな声が聞こえた。
「予定より二日早いですよ」
レナートの返答は、さらに小さかった。
「黙れ」
短い。低い。だがそこに怒りはなかった。
マルコは何も言い返さなかった。足音だけが、二階の廊下に消えていった。
夕食の時間。
シルヴィアは煮込みを食堂に運んだ。
昼に仕込んだ根菜の煮込み。味は整えてある。自信がないと思ったのは気の迷いだった。いつも通りの味だ。
レナートは窓辺の席で、スプーンを取った。
一口。
あの間。
目を細める。
二口目。三口目。黙々と食べ進める。
シルヴィアはカウンターで帳簿を開いたが、ペンを取らなかった。
ただ、食事の音を聞いていた。
スプーンが皿に当たる音。パンをちぎる音。嚥下の気配。
四日間、聞こえなかった音が、食堂に戻っている。
皿が空になった。
レナートが顔を上げた。
「美味かった」
同じ言葉。前にも聞いた。あの夜と同じ一言。
なのにシルヴィアは、皿を下げに行く足が一瞬遅れた。
「ありがとうございます」
声は平坦に保った。保てたと思う。
皿を厨房に運び、洗う。湯の中に手を浸しながら、息を整えた。
戻ってきた。あの人が、戻ってきた。
それだけのことが、こんなにも——。
何だ。何がこんなにも、なんだ。
シルヴィアは自分の中に生まれた感情に名前をつけることを拒んだ。名前をつければ、認めたことになる。認めれば、そこから先に進んでしまう。進んだ先にあるものを、前の人生で知っている。
皿を拭き、棚に戻した。
食堂に戻ると、レナートはまだ窓辺の席にいた。
閉店後の食堂。他の客はもう二階に上がっている。ランプの灯りが一つだけ残されている。
あの夜と同じ光景だった。名前を交わした夜。焼き菓子と、指先と、三秒の沈黙。
レナートが口を開いた。
「少し、聞いてもいいか」
シルヴィアの手が止まった。カウンターの布巾を握ったまま。
レナートの目がこちらを向いている。いつもの、感情の読めない目。だがその奥に、何か——迷いのようなものが、かすかに見えた。
「あなたは——なぜこの町で、一人で宿を」
問いが、食堂の空気に落ちた。
シルヴィアは答えなかった。すぐには。
ランプの炎が揺れた。銀の鈴が、夜の空気の中でわずかに光を弾いた。
沈黙が落ちる。
だがそれは気まずい沈黙ではなかった。シルヴィアが答えを探しているのか、答えるかどうかを選んでいるのか——レナートはそのどちらであっても待つつもりでいるように見えた。
「——長い話になりますけど、今夜は付き合えますか」
シルヴィアの声は静かだった。
レナートは頷いた。
「ああ」
その一言に、急かす気配はなかった。
◇
レヴィアンス王国、ハイゼンベルト伯爵家。
グレンは応接間の長椅子に座り、向かいの令嬢の顔を見ていた。
ホルスト子爵家の長女。社交に長け、実務にも明るいという評判を聞き、グレンが自ら茶会に招いた相手だった。
「率直にお伺いします」
グレンは微笑みを浮かべた。いつもの、柔和な笑み。
「近々の社交行事について、少しお力をお借りできないかと思いまして。ハイゼンベルト家の催しに、実務面でお手伝いいただける方を探しているのです」
令嬢は茶杯を持ち上げ、一口含んだ。
それから静かに杯を置いた。
「グレン様。お言葉ですが」
声は穏やかだった。だが、目が笑っていなかった。
「我が家の娘はハイゼンベルト家の下働きではありません」
空気が変わった。
グレンの微笑みが、一瞬だけ固まった。
「下働きなどと、そのようなつもりは——」
「以前、ヴァイスベルクのシルヴィア様がなさっていたことを、別の家の娘に肩代わりさせたいというご趣旨でしょう」
令嬢の声に棘はなかった。事実を述べているだけの平坦な声だった。それがかえって、グレンの言葉を塞いだ。
「あの方がなさっていたことは、婚約者としての義務と、ご本人の卓越した能力があって初めて成り立っていたものです。それを他家の者に頼むのは、筋が違いましょう」
グレンの指が、膝の上で握りしめられた。
令嬢は静かに立ち上がった。
「お茶、ごちそうさまでした」
一礼して、応接間を出ていった。
グレンは一人、長椅子に座ったまま動かなかった。
なぜ誰も——シルヴィアのようにできない。
その思考が浮かんだ。
「自分が悪かった」ではなかった。「なぜ代わりがいない」だった。
グレンはそのことに気づかない。気づけない。
応接間の窓から、夕暮れの庭が見えた。薔薇の手入れは行き届いている。屋敷の外側は、まだ何も変わっていないように見える。
だが内側は、少しずつ崩れている。
グレンは立ち上がり、応接間を出た。
廊下の先で、使用人が目を伏せてすれ違った。
その使用人の横顔に、以前はなかった種類の表情が浮かんでいたことを、グレンは見ていなかった。




