第6話「雨と屋根のある場所」
雨が降っていた。
三日、止まない雨だった。
銀鈴亭の窓を叩く水音が、朝から途切れない。街道は泥濘み、馬車の轍が茶色い水を跳ねている。旅人の姿はほとんど見えなかった。
シルヴィアは食堂の窓から外を眺め、それから帳簿に目を落とした。
今日の宿泊客はレナートとマルコだけだ。昨日もそうだった。一昨日も。
雨が街道を塞ぐと、客足は止まる。開業して二ヶ月半。ようやく上向き始めた帳簿の数字が、天候ひとつで足踏みする。
だが、嘆いても雨は止まない。
シルヴィアは帳簿を閉じ、立ち上がった。
客が来ないなら、やることがある。
先週から気になっていた屋根の補修だ。食堂の奥、厨房寄りの天井に薄い染みができていた。雨漏りの前兆。放っておけば板が腐る。
物置から脚立を運び、工具と防水の詰め物を手に取った。外套を羽織り、裏口から出る。
雨は冷たかった。
屋根の縁に脚立をかけ、足をかける。濡れた木の段が滑りやすい。慎重に体重を移し、一段ずつ上がっていく。
問題の箇所はすぐに見つかった。板の継ぎ目に隙間ができている。ここから水が入り込んでいるのだろう。
身を伸ばして詰め物を押し込む。片手で脚立を掴み、もう片方の手で作業する。雨が顔に当たり、視界が滲む。
あと少し。
左手で脚立の縁を握り直した瞬間、濡れた指が滑った。
体が傾ぐ。
脚立が横にずれ、足場が消えた。
落ちる——と思った刹那、腕を掴まれた。
強い力だった。手首ではなく、二の腕を確実に捉える握り方。
体が空中で止まる。引き戻される。
脚立に足が戻った。
見上げると、レナートがいた。
外套も着ず、シャツが雨に濡れている。息がわずかに上がっていた。
いつ来たのか。裏口から出る音を聞いたのか。それとも——。
「大丈夫です」
シルヴィアは反射的にそう言った。いつもの声。いつもの温度。
レナートの手は離れなかった。
「大丈夫じゃない」
低い声だった。
抑えた声なのに、雨音の中でもはっきり聞こえた。
シルヴィアはレナートの目を見た。
無表情ではなかった。かといって怒りでもない。何と呼べばいいのかわからない——ただ、強い目だった。
数秒、そのままだった。
雨が二人の肩を叩いている。脚立の上と地面に近い段。距離は腕一本分もない。レナートの指が、シルヴィアの二の腕を掴んだまま。
シルヴィアは息を吐いた。
力を抜いた。
抵抗を、やめた。
レナートの手が、ゆっくりと離れた。
シルヴィアは脚立を降りた。足が地面に着いたとき、膝が少しだけ笑っていることに気づいた。
「……ありがとうございます」
声がぎこちなかった。この言葉を口にする練習を、ここしばらくしていなかった。誰かに助けられるということ自体が、久しく起きていなかったからだ。
レナートは一歩下がった。
「客として、宿の主人に怪我をされると困る」
理屈だった。筋の通った理屈。
だがその声は、いつもの抑制された低音よりわずかに上擦っていた。
シルヴィアはそれに気づかなかった。
二人は裏口から宿に戻った。
シルヴィアは布巾を二枚持ってきて、一枚をレナートに渡した。
「濡れたままでは風邪を引きます」
「あんたのほうが濡れている」
レナートの声に、初めて聞く響きがあった。苛立ちではない。もっと手前にある、制御しきれていない何かだった。
シルヴィアは答えず、自分の髪から水を拭った。
昼を過ぎても、雨は止まなかった。
食堂にはシルヴィアとレナートだけがいた。マルコは朝のうちに「町で少し用を足してくる」と出かけていた。
シルヴィアはカウンターで帳簿を開いた。月末の集計に向けて、数字を整理する作業が残っている。
レナートは窓辺の席にいた。
手元に一冊の本がある。マルコが町の書店で買ってきたエルデシアの地誌書だった。頁を開いてはいるが、読む速度は遅い。ときどき窓の外を眺め、また頁に目を戻す。
ペンが紙を走る音。頁をめくる音。雨の音。
それだけだった。
会話はない。視線も交わさない。それぞれが自分のことをしている。
なのに、空間の質が違った。
一人でいる静けさとは違う。誰かがいるのに邪魔にならない、不思議な空気。
シルヴィアは帳簿の数字を追いながら、自分がいつもより呼吸が楽であることに気づいた。
一人で過ごす閉店後の食堂は、慣れたものだった。孤独ではなく、選んだ静寂だと思っていた。
今、同じ食堂に他人がいる。それなのに、静寂が壊れていない。
むしろ——少しだけ、温かい。
ペンを止めかけて、すぐに動かした。
考えすぎだ。雨で客がいないから、空間が広く感じるだけだ。
帳簿に意識を戻す。
夕刻。
マルコが町から戻り、食堂のカウンターに立ち寄った。外套の雫を払いながら、シルヴィアに声をかける。
「この町は気に入っているか」
唐突な問いだった。だがマルコの口調は穏やかで、世間話の延長のように聞こえた。
「ええ、静かで」
シルヴィアは手を止めずに答えた。
マルコは小さく頷いた。
「主人も同じことを言っていましたよ」
それだけ言って、二階に上がっていった。
シルヴィアはペンを止めた。
あの人も、この町を「静かで」いいと言っている。
それがどうしたわけでもない。旅人が立ち寄った町を気に入ることは珍しくもない。
ただ——同じ言葉を使ったということが、妙に胸の奥に落ちた。
◇
レヴィアンス王国、ハイゼンベルト伯爵家。
グレンは書斎の机の前で、便箋の束を睨んでいた。
年次の領主間親睦会。毎年秋に開かれる、近隣領主が集まる社交行事。今年の幹事はハイゼンベルト家が引き受けていた。
引き受けた、というより——シルヴィアがいた頃に決まっていた話だ。彼女が段取りを組む前提で、引き受けた幹事役。
今、グレンの手元には三通の返書がある。
ランベルク子爵家。辞退。
オルテガ男爵家。日程の都合により欠席。
ヴェルナー侯爵家。今年は遠慮させていただきます。
三家が出席を辞退した。
理由は様々に書かれているが、要するに同じことだ。ハイゼンベルト家の催しに出る価値を、見出せなくなっている。
グレンは便箋を机に置いた。
指先が、紙の端を押さえたまま動かない。
「なぜうまくいかない」
声に出たのは、独り言だった。
使用人は増やした。社交秘書を一人雇った。贈答品の手配も、招待状の発送も、以前と同じようにやっている——はずだ。
なのに、歯車が噛み合わない。
手順は同じなのに、結果が違う。
グレンは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
あの頃は、こんなことを考える必要すらなかった。社交の場は滑らかに回り、各家との関係は穏やかに保たれ、自分はその中心で微笑んでいればよかった。
それを回していたのが誰だったか——その問いが、喉元まで上がってきて、飲み込んだ。
答えを認めれば、自分が間違えたことを認めることになる。
グレンは目を閉じ、数秒の後に立ち上がった。
「……まだ、手はある」
誰にも聞かれない声で呟いて、書斎を出た。
その足取りに、以前のような軽さはなかった。
◇
クレーネ。翌朝。
四日ぶりに、雨が上がった。
朝の光が街道の水たまりを照らし、空気が洗われたように澄んでいる。銀鈴亭の窓から差し込む陽光が、食堂の床に四角い影を作った。
シルヴィアは食堂の扉を開けて、外の空気を吸った。湿った土と草の匂い。街道の泥はまだ乾いていないが、空は広かった。
食堂に戻ると、レナートが二階から降りてきた。
いつもと違った。
肩に旅の荷袋をかけている。外套を腕にかけ、足元は街道用の革靴。
出発の支度だった。
シルヴィアは一瞬、足を止めた。
すぐに動いた。カウンターに戻り、帳簿を開く。
「ご精算ですか」
声はいつも通りだった。
レナートは荷袋をテーブルに置いた。
「ああ。世話になった」
短い言葉。いつもの簡潔さ。
だが椅子には座らなかった。窓辺の、あの席の前を通り過ぎて、カウンターの前に立った。
精算を済ませる。銀貨の枚数を確認し、受け取り、帳簿に記入する。事務的なやり取り。
「お気をつけて」
シルヴィアはそう言った。普段通りの声。客を送り出すときの、いつもの言葉。
レナートは頷いた。
扉に向かった。
からん、と銀の鈴が鳴った。
扉が閉まり、鈴の音が消える。
食堂に、シルヴィアだけが残った。
カウンターの上に帳簿が開いたまま。ペンが置かれたまま。
シルヴィアは銀の鈴に手を伸ばした。
いつものように、布巾で磨こうとした。
手が、止まっていた。
磨く動作に入れない。布巾を持ったまま、鈴に触れたまま、指が動かない。
数秒。
シルヴィアは布巾を下ろし、帳簿に向き直った。
客が発った。それだけのことだ。旅人はいつか発つ。最初からわかっていた。
ペンを取る。次の仕入れの計算を始める。
窓辺の席が、空いていた。
椅子はきちんと戻されている。いつものように。
シルヴィアはそちらを見ないようにして、帳簿の数字を追った。




