表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/40

第9話「二つの記録」

あの帳簿は、もう引き出しの中にしまっておくものではない。


レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。


冬の初めだった。書斎の窓の外に、枯れた庭が見える。植え込みの枝が風に揺れ、灰色の空に細い線を引いていた。


グレンは書斎の椅子に座っていた。


ランプの灯りが一つ。机の上には何もない。


屋敷は静かだった。先月、最後の下働きが辞めた。残った使用人は三人。広い屋敷に、人の気配が薄い。廊下を歩く足音がない時間が長くなった。


今朝、残った使用人の一人が廊下で話しているのを聞いた。


「ヴァイスベルクの令嬢が、エルデシアの第二王子と婚姻するらしい」


父の書斎に届いた貴族間の通信が、使用人の口を伝って屋敷の中に広がったのだろう。声を潜めてはいたが、廊下の空気は薄く、音が遠くまで通った。


グレンは椅子に座ったまま動かなかった。


ヴァイスベルクの令嬢。シルヴィア。


エルデシアの第二王子と婚姻する。


怒りは来なかった。


嫉妬も来なかった。


胸の中に落ちてきたのは、もっと静かなものだった。


自分が三年間見なかったものの価値を、他国の王子が見つけた。


あの帳簿。一頁も欠けることなく、一行の書き損じもない三年分の記録。社交の段取り。贈答品の履歴。茶会の席順。全てが正確に、丁寧に、毎日のように書き足されていた。


それを——見なかった。


目の前にあったのに。三年間、ずっとあったのに。


「見なかったんだ」と、この書斎で声に出した日があった。


あの日から、帳簿を開かなくなった。引き出しの中にしまったまま、手を伸ばさなくなった。


今——引き出しに手を伸ばした。


開けた。


革表紙の帳簿が、そこにあった。


取り出した。


革の感触が指に伝わった。三年分の重さ。


机の上に置いた。


閉じたまま。開かなかった。


引き出しに戻さなかった。


机の上に、そのまま置いた。


閉じ込めるのをやめた。


それだけだった。許しでも、回復でもなかった。あったものを——あったものとして、そこに置いた。


グレンは窓の外を見た。


枯れた庭。灰色の空。冬の初めの、冷たい光。


自分が見なかったものの価値を、世界が認めた。


その事実が、机の上の帳簿と一緒に、そこにあった。


リゼットは自室の机に向かっていた。


経理帳簿が開かれている。筆を走らせ、数字を合わせる。先月の屋敷の支出と、収入の記録。


華やかな仕事ではなかった。社交の場に立つことはもうない。招待状を書くことも、席順を決めることも。


だが数字を合わせる作業に、手応えがあった。合わなかった数字が合うとき、頁の左と右が一致するとき、小さな確かさが指先に残る。


兄の書斎の灯りが、窓の外に見えた。


まだ起きている。


帳簿を開いているのだろうか。あの帳簿を。シルヴィアが残していった社交帳簿を。


わからなかった。


兄が何を考えているのか、今のリゼットにはわからない。距離があった。婚約を解消してから、言葉を交わす回数が減った。書斎に帳簿を取りに行ったとき、「好きにしろ」と言われた。拒絶ではなかったが、温度もなかった。


わからないまま、自分の帳簿に目を戻した。


使用人の噂は、リゼットの耳にも届いていた。


ヴァイスベルクの令嬢が、エルデシアの第二王子と婚姻する。


かつて自分が排除しようとした相手が、王子に選ばれた。


胸の中で、何かが動いた。複雑な感情だった。名前をつけられない感情だった。


だが——それは、自分とは関係のない世界の話だった。


あの人の世界と、自分の世界は、もう交わらない。


リゼットは帳簿の数字に目を戻した。


筆を走らせた。次の行。次の数字。


兄は止まっている。自分は動いている。


その差が何を意味するのか、リゼットにはまだわからなかった。だが足元の帳簿だけは、確かにここにある。


エルデシア王宮。客間。朝。


シルヴィアは机の前に座っていた。


裁可状が、目の前にあった。


昨日の朝、マルコが届けてくれた。封蝋を切り、羊皮紙を広げた。そのまま一晩、机の上に置いていた。


もう一度、読んだ。


国王の署名と捺印。記録官の署名。整然とした書体で記された文面。


「レナート・エル・エルデシアとシルヴィア・フォン・ヴァイスベルクの婚姻を裁可する」


自分のフルネームが、王家の文書に記されている。


ヴァイスベルクの名前が。


宿屋の女将としてではなく、侯爵家の令嬢として。


指先が羊皮紙の縁に触れた。紙の厚さ。インクの匂い。封蝋の重さ。


これは——制度の上での確定だった。国王が直接書いた裁可状。正式な文書。


シルヴィアは裁可状をそのまま机に置いた。


鞄から、帳簿を取り出した。


銀鈴亭の帳簿。十一ヶ月分の数字。仕入れ。売上。支出。収益。自分の手で書いた記録。


裁可状の隣に、帳簿を並べた。


二つの書類が、机の上にあった。


片方は王家の文書。国王の署名が入った、正式な裁可状。


片方は宿の帳簿。自分の筆跡で埋まった、十一ヶ月分の記録。


片方が片方を消すのではない。


王家の裁可状があっても、帳簿の数字は変わらない。帳簿の数字があっても、裁可状の効力は変わらない。


どちらも自分のものだ。


どちらも、同じ手の中にある。


シルヴィアは二つの書類を見ていた。


声には出さなかった。だが胸の中で、一つの認識が結ばれた。


両方とも私だ。


侯爵令嬢の名前を持つ自分。宿屋の帳簿を書く自分。国王の前でフルネームを名乗った自分。閉店後の食堂で茶を淹れる自分。


全部、同じ人間だ。片方を捨てなくていい。片方が片方を否定しない。


帳簿を鞄にしまった。裁可状は丁寧に折り、帳簿と同じ鞄に入れた。


同じ場所に。同じ手で。


窓の外を見た。朝の光が中庭に落ちている。


帰る準備を始めよう。


王都を去る前に、レナートに会った。


東翼の廊下。マルコが少し離れた場所に立っている。扉は開いたまま。


「帰ります」


シルヴィアの声は静かだった。


レナートは頷いた。


「ああ」


短い返答。あの窓辺の席で「美味かった」と言うときと同じ声だった。


「次は——あなたが来る番です」


シルヴィアの声に、かすかな笑みが混じった。


レナートの口元が動いた。


「茶を淹れておいてくれ」


シルヴィアは頷いた。


それだけだった。大きな言葉はなかった。約束も誓いも要らなかった。


帰る場所がある。来る人がいる。


それだけのことが、もう十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ