第9話「二つの記録」
あの帳簿は、もう引き出しの中にしまっておくものではない。
レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。
冬の初めだった。書斎の窓の外に、枯れた庭が見える。植え込みの枝が風に揺れ、灰色の空に細い線を引いていた。
グレンは書斎の椅子に座っていた。
ランプの灯りが一つ。机の上には何もない。
屋敷は静かだった。先月、最後の下働きが辞めた。残った使用人は三人。広い屋敷に、人の気配が薄い。廊下を歩く足音がない時間が長くなった。
今朝、残った使用人の一人が廊下で話しているのを聞いた。
「ヴァイスベルクの令嬢が、エルデシアの第二王子と婚姻するらしい」
父の書斎に届いた貴族間の通信が、使用人の口を伝って屋敷の中に広がったのだろう。声を潜めてはいたが、廊下の空気は薄く、音が遠くまで通った。
グレンは椅子に座ったまま動かなかった。
ヴァイスベルクの令嬢。シルヴィア。
エルデシアの第二王子と婚姻する。
怒りは来なかった。
嫉妬も来なかった。
胸の中に落ちてきたのは、もっと静かなものだった。
自分が三年間見なかったものの価値を、他国の王子が見つけた。
あの帳簿。一頁も欠けることなく、一行の書き損じもない三年分の記録。社交の段取り。贈答品の履歴。茶会の席順。全てが正確に、丁寧に、毎日のように書き足されていた。
それを——見なかった。
目の前にあったのに。三年間、ずっとあったのに。
「見なかったんだ」と、この書斎で声に出した日があった。
あの日から、帳簿を開かなくなった。引き出しの中にしまったまま、手を伸ばさなくなった。
今——引き出しに手を伸ばした。
開けた。
革表紙の帳簿が、そこにあった。
取り出した。
革の感触が指に伝わった。三年分の重さ。
机の上に置いた。
閉じたまま。開かなかった。
引き出しに戻さなかった。
机の上に、そのまま置いた。
閉じ込めるのをやめた。
それだけだった。許しでも、回復でもなかった。あったものを——あったものとして、そこに置いた。
グレンは窓の外を見た。
枯れた庭。灰色の空。冬の初めの、冷たい光。
自分が見なかったものの価値を、世界が認めた。
その事実が、机の上の帳簿と一緒に、そこにあった。
リゼットは自室の机に向かっていた。
経理帳簿が開かれている。筆を走らせ、数字を合わせる。先月の屋敷の支出と、収入の記録。
華やかな仕事ではなかった。社交の場に立つことはもうない。招待状を書くことも、席順を決めることも。
だが数字を合わせる作業に、手応えがあった。合わなかった数字が合うとき、頁の左と右が一致するとき、小さな確かさが指先に残る。
兄の書斎の灯りが、窓の外に見えた。
まだ起きている。
帳簿を開いているのだろうか。あの帳簿を。シルヴィアが残していった社交帳簿を。
わからなかった。
兄が何を考えているのか、今のリゼットにはわからない。距離があった。婚約を解消してから、言葉を交わす回数が減った。書斎に帳簿を取りに行ったとき、「好きにしろ」と言われた。拒絶ではなかったが、温度もなかった。
わからないまま、自分の帳簿に目を戻した。
使用人の噂は、リゼットの耳にも届いていた。
ヴァイスベルクの令嬢が、エルデシアの第二王子と婚姻する。
かつて自分が排除しようとした相手が、王子に選ばれた。
胸の中で、何かが動いた。複雑な感情だった。名前をつけられない感情だった。
だが——それは、自分とは関係のない世界の話だった。
あの人の世界と、自分の世界は、もう交わらない。
リゼットは帳簿の数字に目を戻した。
筆を走らせた。次の行。次の数字。
兄は止まっている。自分は動いている。
その差が何を意味するのか、リゼットにはまだわからなかった。だが足元の帳簿だけは、確かにここにある。
エルデシア王宮。客間。朝。
シルヴィアは机の前に座っていた。
裁可状が、目の前にあった。
昨日の朝、マルコが届けてくれた。封蝋を切り、羊皮紙を広げた。そのまま一晩、机の上に置いていた。
もう一度、読んだ。
国王の署名と捺印。記録官の署名。整然とした書体で記された文面。
「レナート・エル・エルデシアとシルヴィア・フォン・ヴァイスベルクの婚姻を裁可する」
自分のフルネームが、王家の文書に記されている。
ヴァイスベルクの名前が。
宿屋の女将としてではなく、侯爵家の令嬢として。
指先が羊皮紙の縁に触れた。紙の厚さ。インクの匂い。封蝋の重さ。
これは——制度の上での確定だった。国王が直接書いた裁可状。正式な文書。
シルヴィアは裁可状をそのまま机に置いた。
鞄から、帳簿を取り出した。
銀鈴亭の帳簿。十一ヶ月分の数字。仕入れ。売上。支出。収益。自分の手で書いた記録。
裁可状の隣に、帳簿を並べた。
二つの書類が、机の上にあった。
片方は王家の文書。国王の署名が入った、正式な裁可状。
片方は宿の帳簿。自分の筆跡で埋まった、十一ヶ月分の記録。
片方が片方を消すのではない。
王家の裁可状があっても、帳簿の数字は変わらない。帳簿の数字があっても、裁可状の効力は変わらない。
どちらも自分のものだ。
どちらも、同じ手の中にある。
シルヴィアは二つの書類を見ていた。
声には出さなかった。だが胸の中で、一つの認識が結ばれた。
両方とも私だ。
侯爵令嬢の名前を持つ自分。宿屋の帳簿を書く自分。国王の前でフルネームを名乗った自分。閉店後の食堂で茶を淹れる自分。
全部、同じ人間だ。片方を捨てなくていい。片方が片方を否定しない。
帳簿を鞄にしまった。裁可状は丁寧に折り、帳簿と同じ鞄に入れた。
同じ場所に。同じ手で。
窓の外を見た。朝の光が中庭に落ちている。
帰る準備を始めよう。
王都を去る前に、レナートに会った。
東翼の廊下。マルコが少し離れた場所に立っている。扉は開いたまま。
「帰ります」
シルヴィアの声は静かだった。
レナートは頷いた。
「ああ」
短い返答。あの窓辺の席で「美味かった」と言うときと同じ声だった。
「次は——あなたが来る番です」
シルヴィアの声に、かすかな笑みが混じった。
レナートの口元が動いた。
「茶を淹れておいてくれ」
シルヴィアは頷いた。
それだけだった。大きな言葉はなかった。約束も誓いも要らなかった。
帰る場所がある。来る人がいる。
それだけのことが、もう十分だった。




