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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第4章

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第8話「帰る場所の形」

シルヴィアは客間の荷物を鞄にまとめていた。


王宮。客間。謁見の翌日の朝。


昨日、国王が「裁可状は余が直接書く」と言った。その一言から一夜が明けた。


貸与衣装は衣装掛けに戻してある。謁見は終わった。衣装の役目も終わった。椅子の背にかけた自分のショールだけが、まだここにある。


ショールを手に取り、鞄に入れた。


今日、宮廷評議への報告が行われる。レナートが出席し、マルコが補佐する。シルヴィアは出席しない。王族の婚姻に関する評議は、当事者の出席を求めない慣例だとマルコが昨夜説明してくれた。


待つ時間だった。


客間の窓から、王宮の中庭を見下ろした。


朝の光が石畳に落ちている。回廊を歩く貴族たちの姿が見えた。正装の男女が連れ立って歩いている。すれ違いざまに会釈を交わし、立ち止まって言葉を交わし、また歩き出す。


誰かの視線が、この窓を見上げた気がした。


気のせいかもしれなかった。だが宮廷の空気を知っている体が、反応した。視線の鋭さ。品定めする目。あの種の目を、シルヴィアは知っている。ハイゼンベルト家の社交の場で、何度も浴びた。


窓から離れた。


机の上に、帳簿があった。


銀鈴亭の帳簿。旅に持ってきた十一ヶ月分の記録。


開いた。


数字を見た。仕入れ。売上。支出。収益。自分の手で書いた記録。ペンの筆圧の違い。忙しい日は少し雑になり、落ち着いた日は丁寧になる。数字の並びに、毎日の温度が残っている。


宮廷の中庭の中で、この帳簿を開いている。


王宮の窓の向こうに貴族たちが歩き、評議の間でレナートが報告を行い、国王が裁可状を書いている——その同じ時間に、シルヴィアは自分の宿の帳簿を読んでいた。


この数字がここにある。それだけで、足元が定まった。


帳簿を閉じた。


鞄の中にしまった。


窓辺の椅子に座り、待った。


午後。


客間の扉が叩かれた。


マルコだった。


「報告は完了しました」


声は穏やかだった。だがその奥に、張り詰めていたものがほどけた気配があった。


「概ね好意的でした。ただ、一部の貴族が『宿を営む王子妃は品位を損なう』と発言しました」


シルヴィアの指が、膝の上で止まった。


品位を損なう。


予想していた言葉だった。マルコが馬車の中で「反応は二分される」と言っていた通りだ。侯爵令嬢だった自分には、宮廷の貴族がその種の批判をすることの意味がわかる。


「殿下が反論されましたか」


「いえ」


マルコの声が、わずかに変わった。


「陛下が直接仰せでした。『品位は所作に宿る。所作に欠けることはないと余が保証する』と」


シルヴィアの呼吸が止まった。


国王が。評議の場で。シルヴィアの品位を、直接保証した。


昨日の謁見で、国王はシルヴィアの所作を見ていた。侯爵令嬢の礼法。一礼の深さ。視線の高さ。発言の間合い。その全てを見た上で——「品位は所作に宿る」と言った。


宮廷の最高権力者が、シルヴィアを保証した。


それは——かつてシルヴィアを「品位がない」と扱った人間への、最終的な回答だった。


「ありがとうございます」


声は静かだった。だが膝の上の指が、わずかに震えていた。


マルコは一礼して廊下に下がった。


客間に一人。


椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。


品位は所作に宿る。


あの言葉を、国王が言った。評議の場で。宮廷の貴族たちの前で。


シルヴィアの目頭が熱くなった。だが涙は落ちなかった。


深く息を吸った。吐いた。


窓の外を見た。午後の光が中庭に落ちている。貴族たちの姿は減っていた。評議が終わり、それぞれの場所に戻っていったのだろう。


夕刻。


客間の扉が叩かれた。


開けた。


レナートが立っていた。


謁見前夜と同じように、廊下に立っている。客間には入らない。マルコが廊下の先に控えているのが見えた。扉は開けたまま。


レナートの顔に、疲労があった。


目の下に影がある。肩の線がわずかに落ちている。評議の場で、貴族たちの視線と言葉を受け止めた後の体だった。


だがその奥に——安堵があった。


「終わった。評議は通った」


声は低かった。疲れた声だった。だがその底に、確かなものがあった。


シルヴィアは廊下に立つレナートを見た。


王子の正装。紋章。評議を終えた王族の姿。


だがその目は、あの窓辺の席に座っていたときと同じだった。


「……お疲れさまでした」


その言葉は、侯爵令嬢の言葉ではなかった。


宿の女将が、長い一日を終えた客にかける言葉だった。


レナートの表情が変わった。


口元が動いた。疲れた笑みだった。肩の力が抜けた、崩れた笑み。王子の顔ではなかった。


「——茶が飲みたい」


シルヴィアの手が止まった。


茶。


あの茶葉。閉店後の食堂で淹れる、少しだけ上等な茶葉。茶杯を二つ。窓辺の席。ランプの灯り。


「ここには、あの茶葉はないんです」


声が出た。自然に。考える前に。


レナートの目が、シルヴィアを見た。


「知ってる」


間があった。


「だから帰る」


シルヴィアの胸の中に、銀鈴亭の食堂が見えた。


五つのテーブル。白い壁。窓辺の席。棚の奥にしまった茶葉の缶。ランプの灯り。


ここにはないもの。


でも帰ればある。帰る場所がある。二人とも。


シルヴィアが笑った。


小さな笑みだった。声は立てなかった。だが口元が緩み、目の奥が柔らかくなった。


あの食堂で、国王の書簡を読んだ後に笑ったときと似ていた。だが今度の笑みは、あのときより静かだった。力が抜けていた。


「……淹れます。帰ったら」


レナートは頷いた。


何も言わなかった。だが目が笑っていた。疲労の奥で、確かに。


廊下のランプの灯りが揺れた。


二人の間に、銀鈴亭の窓辺の席が見えた。ここにはないのに、確かに見えた。


王宮の石壁の廊下で、あの食堂の時間が一瞬だけ現れて——消えた。


レナートが踵を返した。


足音が廊下に響き、遠ざかっていった。マルコの足音がそれに続いた。


シルヴィアは扉を閉めた。


客間に一人。


窓辺に立った。


夕暮れの中庭が暮れていく。灯りが一つ、また一つと回廊に灯されていく。


あの人は、評議を終えて、最初に「茶が飲みたい」と言った。


あの食堂の茶。あの席。あの灯り。


ここにはないもの。でも帰ればある。


帰る場所がある。二人とも。


翌朝。


マルコが客間に来た。


手に、封蝋のついた書簡を持っていた。


「陛下の裁可状です」


シルヴィアの手が止まった。

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