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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第4章

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第7話「国王の目」

私はかつて、他国の侯爵家の令嬢だった。今は、宿屋の女将だ。


王宮。東翼の私室。朝。


シルヴィアは廊下を歩いていた。マルコが半歩前を歩き、扉の前で立ち止まった。


貸与衣装を纏っている。上質な布地が肩に沿い、裾が足首の上で揺れている。仕立ては正確だった。体に合っている。王家の手配は細部まで抜かりがない。


その上に、自分のショールを纏っていた。


織り目の細かい、落ち着いた色の布。自分の稼ぎで買った一枚。貸与衣装の肩の上に、それだけが自分のものとして載っている。


マルコが扉の脇に立った。


「こちらです」


扉が開いた。


シルヴィアは一歩を踏み出した。


体が動いた。自動的に。三歩で止まる。一礼。深く。王族への謁見の角度。顔を上げない。相手の許可を待つ。


昨夜、暗闇の中で再生した手順が、そのまま体を動かしていた。


だがその所作の内側で、シルヴィアは自分自身のままだった。


グレンの家で礼法を使っていたときとは、体の中の温度が違う。あの頃は、所作の中に自分がいなかった。型だけがあって、中身が空だった。


今は違う。


礼法の中に、十一ヶ月分の自分がいる。


顔を上げた。


部屋は広くなかった。窓際に書き物机が一つ。本棚。椅子が二脚。壁に小さな肖像画がかかっている——穏やかな目をした女性の顔。


窓辺に、人が立っていた。


国王アルベルト。


背が高かった。白髪が混じった髪を後ろに撫でつけ、目は穏やかだが深い。書簡に「止めない」と書いた人の目。


シルヴィアの心臓が一拍、強く打った。


書簡の筆跡を知っている。あの一言を読んだ。だが顔を見るのは初めてだった。


国王の目がシルヴィアを見ていた。


政治家の目だった。人を見定める目。だがその奥に、別のものがあった。すぐには名前をつけられない、もう一つの視線。


レナートが横に立っていた。王子の正装。胸元に王家の紋章。背筋が伸び、顎が引かれている。公的な場の姿勢。


だがシルヴィアには、その正装の中にあの窓辺の席の人間がいることが見えた。


マルコが扉の脇に控えた。扉は開いたまま。


国王が口を開いた。


「余の書簡は読んだか」


声は穏やかだった。だが含みがある。問いかけの形をしているが、答えを既に知っている人間の声だった。


「読みました」


シルヴィアの声は静かだった。


「宿を閉じないと聞いた」


「はい」


「王子の妃が宿を営む。前例がない」


シルヴィアの指が、ショールの縁に触れた。


試されている。


侯爵令嬢だった自分には、国王の言葉の構造がわかる。「前例がない」は否定ではない。反応を見ている。この言葉に怯むか、弁解するか、媚びるか。


どれでもなかった。


「前例がないことは、禁じられていることとは違います」


声は静かだった。震えなかった。


「あの宿は、私が自分の手で作った場所です」


間を置いた。呼吸を一つ。


「レナート殿下——」


殿下、と呼んだ。公的な場で。国王の前で。レナートと呼びたい自分を抑えて、正しい呼称を選んだ。


「——殿下がそこに帰ると言ってくださったから、閉じないのではありません。閉じないと決めたのは、私自身です」


国王の目が細くなった。


沈黙が落ちた。


長い沈黙だった。


部屋の空気が動かなかった。窓から差し込む朝の光だけが、静かに傾いていた。


国王が壁の肖像画に目をやった。


穏やかな目をした女性。レナートの母。側妃の立場で宮廷に入り、軋轢の中で立ち続けようとした人。


「自分の場所を持っている女か」


国王の声が、低く落ちた。


呟くような声だった。シルヴィアに向けた言葉ではなかった。肖像画に向けた言葉だった。


「あの子の母にはそれがなかった」


レナートの喉が動いた。


シルヴィアはそれを視界の端で見た。レナートの喉仏が上下した。あの夜、シルヴィアが身分を明かしたときと同じ反応。言葉にならないものが喉を通過するときの動き。


国王が肖像画から目を離した。


シルヴィアに向き直った。


「名は」


「シルヴィア・フォン・ヴァイスベルクです」


声は定まっていた。


フルネーム。侯爵家の名前。三年間、グレンの家のために使い、その後封じた名前。


今——自分のために使った。


国王の前で。公的な場で。侯爵令嬢の名前と、宿屋の女将の目で。


国王の目がシルヴィアを見ていた。


長い視線だった。


「よい名だ」


短い言葉だった。


だがその声の中に、政治家の評価とは違うものがあった。肖像画を見たときと同じ目の奥の光が、一瞬だけシルヴィアに向けられた。


シルヴィアの胸の奥が震えた。


よい名だ——その一言が、胸の中に落ちた。


ヴァイスベルクの名前を、王家が認めた。侯爵家の令嬢を手放した伯爵家の判断の愚かさが、この一言で最終的に確定した。


レナートの喉がもう一度動いた。シルヴィアがフルネームを名乗ったことへの反応。身分を開示したあの夜と同じ——言葉にならない感動が、喉の動きだけで表出していた。


国王が窓辺から離れた。


机の前に立った。


レナートに目を向けた。


「評議への報告は予定通り進めよ」


声が王の声に戻っていた。


間があった。


「裁可状は——余が直接書く」


シルヴィアの心臓が跳ねた。


裁可状。直接書く。


それは「止めない」のさらに先だった。方向性の表明ではない。国王自らが署名する正式な文書。


レナートが一礼した。深く。


「ありがとうございます」


王子の声だった。だがその声の奥に、息子の声があった。


シルヴィアは一礼した。


体が覚えている角度で、深く。


国王の前で、フルネームを名乗った。あの名前を——封じていた名前を。今日は、自分のために使った。


ショールの縁に指が触れていた。自分の稼ぎで買った布。貸与衣装の上に、それだけが自分のものとして載っている。


謁見が終わった。


廊下に出た。


石壁の回廊。朝の光が窓から差し込んでいる。


レナートが隣を歩いていた。マルコが半歩後ろを歩いている。


誰も何も言わなかった。


だが空気が——軽かった。謁見の前の空気とは、重さが違っていた。


シルヴィアは廊下を歩きながら、自分の手を見た。


この手で帳簿を書いた。壁を塗った。鈴を磨いた。あの人の指を握り返した。


そしてこの手で——国王の前に立った。


ヴァイスベルクの名前を、自分の口で言った。


侯爵令嬢の名前と、宿屋の女将の目。両方を持ったまま、あの部屋に立っていた。


窓から差し込む光が、廊下の石畳に長い影を落としていた。

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