第7話「国王の目」
私はかつて、他国の侯爵家の令嬢だった。今は、宿屋の女将だ。
王宮。東翼の私室。朝。
シルヴィアは廊下を歩いていた。マルコが半歩前を歩き、扉の前で立ち止まった。
貸与衣装を纏っている。上質な布地が肩に沿い、裾が足首の上で揺れている。仕立ては正確だった。体に合っている。王家の手配は細部まで抜かりがない。
その上に、自分のショールを纏っていた。
織り目の細かい、落ち着いた色の布。自分の稼ぎで買った一枚。貸与衣装の肩の上に、それだけが自分のものとして載っている。
マルコが扉の脇に立った。
「こちらです」
扉が開いた。
シルヴィアは一歩を踏み出した。
体が動いた。自動的に。三歩で止まる。一礼。深く。王族への謁見の角度。顔を上げない。相手の許可を待つ。
昨夜、暗闇の中で再生した手順が、そのまま体を動かしていた。
だがその所作の内側で、シルヴィアは自分自身のままだった。
グレンの家で礼法を使っていたときとは、体の中の温度が違う。あの頃は、所作の中に自分がいなかった。型だけがあって、中身が空だった。
今は違う。
礼法の中に、十一ヶ月分の自分がいる。
顔を上げた。
部屋は広くなかった。窓際に書き物机が一つ。本棚。椅子が二脚。壁に小さな肖像画がかかっている——穏やかな目をした女性の顔。
窓辺に、人が立っていた。
国王アルベルト。
背が高かった。白髪が混じった髪を後ろに撫でつけ、目は穏やかだが深い。書簡に「止めない」と書いた人の目。
シルヴィアの心臓が一拍、強く打った。
書簡の筆跡を知っている。あの一言を読んだ。だが顔を見るのは初めてだった。
国王の目がシルヴィアを見ていた。
政治家の目だった。人を見定める目。だがその奥に、別のものがあった。すぐには名前をつけられない、もう一つの視線。
レナートが横に立っていた。王子の正装。胸元に王家の紋章。背筋が伸び、顎が引かれている。公的な場の姿勢。
だがシルヴィアには、その正装の中にあの窓辺の席の人間がいることが見えた。
マルコが扉の脇に控えた。扉は開いたまま。
国王が口を開いた。
「余の書簡は読んだか」
声は穏やかだった。だが含みがある。問いかけの形をしているが、答えを既に知っている人間の声だった。
「読みました」
シルヴィアの声は静かだった。
「宿を閉じないと聞いた」
「はい」
「王子の妃が宿を営む。前例がない」
シルヴィアの指が、ショールの縁に触れた。
試されている。
侯爵令嬢だった自分には、国王の言葉の構造がわかる。「前例がない」は否定ではない。反応を見ている。この言葉に怯むか、弁解するか、媚びるか。
どれでもなかった。
「前例がないことは、禁じられていることとは違います」
声は静かだった。震えなかった。
「あの宿は、私が自分の手で作った場所です」
間を置いた。呼吸を一つ。
「レナート殿下——」
殿下、と呼んだ。公的な場で。国王の前で。レナートと呼びたい自分を抑えて、正しい呼称を選んだ。
「——殿下がそこに帰ると言ってくださったから、閉じないのではありません。閉じないと決めたのは、私自身です」
国王の目が細くなった。
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
部屋の空気が動かなかった。窓から差し込む朝の光だけが、静かに傾いていた。
国王が壁の肖像画に目をやった。
穏やかな目をした女性。レナートの母。側妃の立場で宮廷に入り、軋轢の中で立ち続けようとした人。
「自分の場所を持っている女か」
国王の声が、低く落ちた。
呟くような声だった。シルヴィアに向けた言葉ではなかった。肖像画に向けた言葉だった。
「あの子の母にはそれがなかった」
レナートの喉が動いた。
シルヴィアはそれを視界の端で見た。レナートの喉仏が上下した。あの夜、シルヴィアが身分を明かしたときと同じ反応。言葉にならないものが喉を通過するときの動き。
国王が肖像画から目を離した。
シルヴィアに向き直った。
「名は」
「シルヴィア・フォン・ヴァイスベルクです」
声は定まっていた。
フルネーム。侯爵家の名前。三年間、グレンの家のために使い、その後封じた名前。
今——自分のために使った。
国王の前で。公的な場で。侯爵令嬢の名前と、宿屋の女将の目で。
国王の目がシルヴィアを見ていた。
長い視線だった。
「よい名だ」
短い言葉だった。
だがその声の中に、政治家の評価とは違うものがあった。肖像画を見たときと同じ目の奥の光が、一瞬だけシルヴィアに向けられた。
シルヴィアの胸の奥が震えた。
よい名だ——その一言が、胸の中に落ちた。
ヴァイスベルクの名前を、王家が認めた。侯爵家の令嬢を手放した伯爵家の判断の愚かさが、この一言で最終的に確定した。
レナートの喉がもう一度動いた。シルヴィアがフルネームを名乗ったことへの反応。身分を開示したあの夜と同じ——言葉にならない感動が、喉の動きだけで表出していた。
国王が窓辺から離れた。
机の前に立った。
レナートに目を向けた。
「評議への報告は予定通り進めよ」
声が王の声に戻っていた。
間があった。
「裁可状は——余が直接書く」
シルヴィアの心臓が跳ねた。
裁可状。直接書く。
それは「止めない」のさらに先だった。方向性の表明ではない。国王自らが署名する正式な文書。
レナートが一礼した。深く。
「ありがとうございます」
王子の声だった。だがその声の奥に、息子の声があった。
シルヴィアは一礼した。
体が覚えている角度で、深く。
国王の前で、フルネームを名乗った。あの名前を——封じていた名前を。今日は、自分のために使った。
ショールの縁に指が触れていた。自分の稼ぎで買った布。貸与衣装の上に、それだけが自分のものとして載っている。
謁見が終わった。
廊下に出た。
石壁の回廊。朝の光が窓から差し込んでいる。
レナートが隣を歩いていた。マルコが半歩後ろを歩いている。
誰も何も言わなかった。
だが空気が——軽かった。謁見の前の空気とは、重さが違っていた。
シルヴィアは廊下を歩きながら、自分の手を見た。
この手で帳簿を書いた。壁を塗った。鈴を磨いた。あの人の指を握り返した。
そしてこの手で——国王の前に立った。
ヴァイスベルクの名前を、自分の口で言った。
侯爵令嬢の名前と、宿屋の女将の目。両方を持ったまま、あの部屋に立っていた。
窓から差し込む光が、廊下の石畳に長い影を落としていた。




