第6話「謁見の前夜」
私は——明日、何者として国王陛下の前に立つのだろう。
王宮の客間。夜。
窓の外に、中庭の灯りが点々と並んでいる。回廊のランプが石壁を淡く照らし、兵士の影が規則的に横切っていく。
シルヴィアは椅子に座っていた。
衣装掛けに、貸与衣装が吊るされている。上質な布地。仕立ての良い縫い目。王家の格式に相応しい正装。
その隣の椅子の背に、自分のショールがかけてある。
二つの布が、灯りの中で並んでいた。
シルヴィアは衣装掛けの前に立った。
貸与衣装の袖に指先が触れた。滑らかな布地。侯爵令嬢だった自分は、この手触りを知っている。社交の夜会で纏った衣装の感触。肩に合わせ、裾を整え、鏡の前で姿勢を正した記憶。
あの頃は——衣装を着ることが、自分を消すことだった。
グレンの家の紋章が入った衣装を纏い、あの家の名前で人前に立った。社交の段取りを整え、贈答品を手配し、茶会の席順を決めた。衣装は道具ではなかった。鎖だった。
指先を袖から離した。
だが明日の衣装は、グレンの家の紋章ではない。王家の貸与だ。制度上の手配であり、謁見後に返却するもの。
それはわかっている。頭では。
だが体が覚えている。用意された衣装を着て、誰かの期待に応える場に立つ感覚を。
鏡があった。客間の壁に掛けられた、簡素な姿見。
そこに映る自分を見た。
銀鈴亭の女将の顔をした自分が、王宮の客間に立っている。
明日、この顔で——国王の前に立つ。
侯爵令嬢としての記憶が、謁見の手順を再生していた。
入室の仕方。扉が開いてから三歩で止まる。一礼。深さは王族への謁見の角度。顔を上げるのは相手の許可を待ってから。発言のタイミングは問いかけの後。視線は正面だが、直視は避ける。
全部覚えている。体が覚えている。
三年間、ハイゼンベルト家の社交で磨いた所作。王族との直接の謁見の経験はなかったが、公爵家主催の大規模な茶会で上位貴族と同席したことは何度もあった。礼法の基本は同じだ。深さと間合いが違うだけで、体の使い方は変わらない。
使える。
使えることはわかっている。
だが——完璧な謁見をこなすことが、目的なのか。
侯爵令嬢の礼法を使って、一分の隙もない所作で国王の前に立つ。それは、グレンの家でやっていたことと同じではないか。自分を型にはめて、相手の期待に応えること。
社交の場で完璧に振る舞えば振る舞うほど、シルヴィアという人間は透明になっていった。「さすがですね」「お見事です」——そう言われるたびに、自分の輪郭が薄くなった。あの三年間と同じことを、明日もやるのか。
椅子に座り直した。
膝の上で手を組んだ。
窓の外の灯りを見ていた。
扉が叩かれた。
控えめな、だが迷いのない叩き方だった。
マルコではなかった。マルコの拳はもう少し硬い。
シルヴィアは立ち上がった。
扉を開けた。
廊下に、レナートが立っていた。
王子の正装ではなかった。執務用の簡素な外套。だが姿勢は崩れていない。廊下のランプの灯りが、横顔を照らしていた。
レナートは客間の中に視線を向けなかった。
廊下に立ったまま、一歩も踏み込まなかった。
シルヴィアはその意味を理解した。
未婚の男女が密室で二人きりになることを避けている。宮廷の中であればなおさら。扉を開けたまま、廊下で話す——それが、この場所でのあの人の距離の取り方だった。
銀鈴亭の閉店後の食堂とは違う。
あの食堂では、向かい合って座り、茶杯を挟み、指を絡めた。だがここは王宮だ。壁の向こうに兵士がいる。回廊の先に、宮廷の目がある。
なのに——あの人は来た。
謁見の前夜に、ここまで来た。
「入らない」
レナートの声が低く落ちた。
「ただ——話しておきたいことがある」
シルヴィアは扉の枠に手を添えたまま、廊下のレナートを見た。
ランプの灯りが揺れていた。廊下の石壁に、二人の影が伸びている。
「明日——好きに話してくれ」
レナートの声。低く、静かで、抑制された声。
「俺が何か指示することはない。型通りの答えでなくていい。お前の言葉で話してくれればいい」
シルヴィアの指が、扉の枠の上で止まった。
好きに話してくれ。
型にはめないと言っている。侯爵令嬢としての完璧な謁見を求めていない。社交の場で磨いた所作で国王を満足させろとは、一言も言っていない。
お前の言葉で——と。
グレンは一度もそう言わなかった。三年間、シルヴィアの言葉を求めたことはなかった。求めたのは段取りと成果と、あの家の体面を守る働きだった。
この人は——宮廷の中でも、私の領域を侵さない。
シルヴィアの胸の奥で、何かが緩んだ。
出会った頃からそうだった。銀鈴亭に泊まっていた頃、シルヴィアの仕事を邪魔しなかった。身分を明かした夜も、「今夜はここまでにしてください」と言えば何も言わずに席を立った。全てを話した夜も、答えを急かさなかった。
この人は、いつも——私が自分で決めるための場所を作ってくれる。
「……ありがとうございます」
声は静かだった。震えなかった。
レナートは頷いた。
何かを言おうとして——言わなかった。
目だけがシルヴィアを見ていた。あの窓辺の席と同じ目。廊下のランプの灯りの中で、変わらない光。
レナートが踵を返した。
足音が廊下に響き、遠ざかっていった。
シルヴィアは扉を閉めた。
客間に一人。
窓辺に立った。
中庭の灯りが並んでいる。回廊の石壁が夜の闇に沈んでいる。
あの頃の礼法を使うことが問題なのではない。
あの頃は、礼法を「誰かのために」使っていた。グレンの家のために。あの家の名前のために。自分を消して、型にはめて、期待に応えるために。
明日は——「自分のために」使う。
自分の場所を守るために。あの人との場所を守るために。
侯爵令嬢の自分も、宿屋の女将の自分も、同じ手で帳簿を書いた。同じ手で壁を塗った。同じ手であの人の指を握り返した。
明日は——その手で、国王の前に立つ。
衣装掛けの前に戻った。
貸与衣装を手に取り、皺を伸ばした。明日纏うものとして、丁寧に整えた。
その上に、ショールをかけた。
自分の稼ぎで買った布。織り目の細かい、落ち着いた色の一枚。
貸与された衣装と、自分のショール。宮廷の格式と、自分の稼ぎ。
鏡を見た。
今はまだ纏っていない。だが明日、両方を身につけた自分がそこに映る。
その目の奥には、十一ヶ月分の帳簿の数字が詰まっている。
ランプの火を落とした。
寝台に横になった。
目を閉じた。
暗闇の中で、体が覚えている礼法の手順がもう一度再生された。入室。一礼。視線。呼吸の間合い。
準備は整っている。
朝が来る。




