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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第4章

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第5話「王都の空気」

シルヴィアが馬車から降りた。


足が石畳に着いた。


王都。王宮の外門前。


空気が違った。冷たく、硬く、人と石と権力の匂いがする。銀鈴亭の木と炭と香草の匂いとは、何もかもが違う空気だった。


背筋が伸びた。


自然に。無意識に。体が覚えている。侯爵令嬢としてこの種の場所に立ったことがある体の記憶。肩の位置。顎の角度。足の運び。命じたのではない。体が勝手に反応した。


マルコが先に立った。


「こちらへ。客間にご案内いたします」


王宮の外門をくぐった。中庭。石畳が整然と敷かれ、回廊が左右に伸びている。兵士が門の両脇に立っている。旗が風にはためいていた。


中庭を横切り、回廊を進む。


シルヴィアの足が、侯爵令嬢の足取りで回廊を歩いていた。「切り替えた」のではない。「切り替わっていた」。石壁の回廊に足を踏み入れた瞬間に、体が自動的にその所作を選んでいた。


客間に通された。


質素だが品のある部屋だった。窓から王宮の中庭が見下ろせる。机。椅子。寝台。簡素な調度品。


シルヴィアは鞄を机に置いた。


窓から中庭を見下ろした。石壁。回廊。兵士の歩く影。貴族らしい男女が回廊の先を歩いていく。


ここは銀鈴亭ではない。


白い壁はない。帳簿の棚はない。銀の鈴もない。五つのテーブルも、窓辺の空席も。


マルコが客間の入口に立ったまま、補足した。


「ヴァイスベルク侯爵家からの正式同意書は、先日届いております。手続き上の障害はありません」


シルヴィアの指が、鞄の取っ手の上で止まった。


父からの同意書。


「承知の上で送り出した」と返書に書いた父が、今度は正式な同意書を送ってきた。書類だけで全てを整える人。声は一度もかけてくれなかった。だが——書類だけは、送ってくれた。


もう一つの糸が、父から届いていた。


「ありがとうございます」


声は静かだった。


マルコは一礼して廊下に下がった。


客間に一人。


シルヴィアは鞄からショールを取り出し、椅子の背にかけた。自分の稼ぎで買った布。貸与衣装は既に客間に用意されていた。衣装掛けに吊るされた正装。上質な布地。仕立ての良い縫い目。


その衣装と、自分のショール。


明後日、これを纏って国王の前に立つ。


窓の外を見た。午後の光が傾き始めている。中庭の石畳に長い影が伸びていた。


夕刻。


マルコが客間に迎えに来た。


「殿下がお会いになりたいと。東翼の応接間でお待ちです」


シルヴィアは立ち上がった。


応接間。公的な場所。二人きりではない。側近が同席する場。


廊下に出た。


石壁の回廊を歩く。足の運びが侯爵令嬢のそれに切り替わっていることに、また気づいた。歩幅。足音の大きさ。すれ違う兵士への視線の向け方。全てが自動的に調整されている。


東翼の応接間の前で、マルコが扉を開けた。


部屋に入った。


レナートが立っていた。


窓辺に。応接間の窓から差し込む夕刻の光を背に、王子としての正装で立っていた。肩の線がきちんと出た上質な外套。王家の紋章が胸元にある。


銀鈴亭の窓辺の席に座っていたあの人とは、装いが違う。


だが目は同じだった。


シルヴィアの胸が、一拍だけ強く打った。


静かな目。真っ直ぐで、揺れのない目。その奥に、閉店後の食堂で茶杯を挟んだ夜と同じ温度があった。


「遠いところを、よく来てくれた」


レナートの声。公式の言葉。丁寧語。王子の声。


「お招きいただき光栄です、殿下」


シルヴィアの声も公式の声だった。侯爵令嬢の声。


殿下、と呼んだ。


レナートと呼びたい自分を、喉の奥に押し込めた。ここは応接間だ。マルコが扉の脇に控えている。公的な場だ。


だがレナートの目の奥には、あの窓辺の席の灯りと同じ光があった。シルヴィアにはそれが見えた。装いが変わっても、場所が変わっても、あの光は同じだった。


マルコが一歩下がった。


三人の応接間に、二人の間だけに通じる空気が流れた。一瞬だった。声にはならなかった。だがそこにあった。


レナートが口を開いた。


「明後日、父上への謁見となる」


声は落ち着いていた。王子としての声。だがその奥に、シルヴィアだけが聞き取れる温度があった。


「今夜は休んでくれ」


シルヴィアは頷いた。


「かしこまりました」


一礼した。体が覚えている礼の角度。侯爵令嬢の一礼。


退室しようと扉に向かった。


「シルヴィア」


足が止まった。


公的な場で。名前で。マルコだけが聞いている場で。


振り返った。


レナートの目がそこにあった。あの窓辺の席と同じ目。王子の正装の中に、あの人がいた。


「……ここまで来てくれて、ありがとう」


王子の声ではなかった。


レナートの声だった。


シルヴィアの呼吸が揺れた。喉の奥が熱くなった。


答えなかった。答えられなかった。


だが目が——ほんの一瞬だけ——潤んだ。


一礼して、応接間を出た。


廊下を歩いた。石壁の回廊。ランプの灯りが点々と並んでいる。冷たい空気。遠い灯り。


あの食堂とは何もかも違う。


なのに——あの人の声だけは同じだった。


殿下と呼んだ自分と、名前で呼ばれた自分。


どちらも自分だった。


客間に戻った。


ショールに手を伸ばした。椅子の背にかけた、自分の布。


指先が布地に触れた。織り目の感触。自分の稼ぎで買ったもの。


明後日。謁見。国王に会う。


あの書簡に「止めない」と書いた人に、初めて会う。


シルヴィアは窓辺に立った。


王宮の中庭が暮れていく。灯りが一つ、また一つと回廊に灯されていく。


四日間の旅路の疲れが、肩の奥にある。だが頭は冴えていた。


ここは私の場所ではない。


でも——私の場所はある。あの白い壁がある。あの帳簿がある。あの鈴がある。


あの人の声は、ここでも同じだった。

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