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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第4章

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第10話「一年目の鈴」

冬の朝の光が、銀鈴亭の扉の銀の鈴に落ちていた。


白い息が一筋、食堂に入る。街道に霜が降りている。木々の枝が裸になり、朝の空気が硬く澄んでいた。


シルヴィアは扉を開け、朝の空気を吸い込んだ。


冷たかった。肺の奥まで染みる冬の朝の空気。


銀鈴亭。開業一周年の朝。


鈴に手を伸ばした。布巾で磨く。いつもの動作。毎朝の手順。


鈴の表面に、冬の朝の光が映った。布巾を動かすたびに、光の筋が揺れる。


一年前、この扉を初めて開けた。一人で。誰の名前も持たず、平民として。供託金を払い、商人登録をし、この鈴を金具に掛けた。


今日、同じ扉を開けている。同じ鈴を磨いている。


だが一年分の全てが、この鈴の中に詰まっている。


鈴を金具に掛け直した。


食堂に入った。


テーブルを拭いていく。一卓目。二卓目。三卓目。四卓目。五卓目。窓辺の席。


布巾を絞り直しながら、一つずつ。木目に沿って。いつもの手順。


窓辺の席を拭き終えた。椅子を整える。朝の光がテーブルに落ちている。


空席のまま、光を受けている。


厨房に入った。鍋に水を張る。今日の仕込み。


裏口が開いた。


「おかみさん、おはよう。仕入れの分、運んできたよ」


エルダだった。両腕に荷を抱えている。干し豆の袋と、乾燥香辛料の包み。


シルヴィアが王都に行っている間、銀鈴亭を任せた。鍵を渡し、鈴の磨き方を教え、朝食の段取りを伝えた。エルダはそれを一つも落とさずにこなした。


帰ってきたとき、鈴は磨かれていた。宿帳は正確だった。朝食の評判も落ちていなかった。


それ以来、エルダが仕入れの一部を手伝うようになっていた。シルヴィアが頼んだのではない。エルダが「どうせ市場に行くんだから、ついでに運ぶよ」と言い出したのだ。


「ありがとうございます。棚に並べておいてください」


「はいはい」


エルダは荷を厨房に運び込んだ。手際がよかった。棚の配置を覚えている。


「おかみさん、今日で一年なんだって? 市場でゲルツの親方が言ってたよ」


「ええ。一年です」


「早いもんだね」


エルダは荷を降ろし終えると、手を叩いて埃を払った。


「じゃ、あたしは店に戻るよ。また明日」


裏口から出ていった。


厨房に一人。


シルヴィアは鍋に火を入れた。


一年。


長かったか、と聞かれれば——長かった。


一人で壁を塗り、一人で帳簿をつけ、一人で鈴を磨いた日々。客が来ない夜。帳簿の数字が薄い月。街道の噂が壁を作った日。


だがその全部が、この鍋の湯気の中にある。


仕込みを終えた。


帳簿を棚から出した。今日の日付を書き入れた。開業一周年。


特別な記入はしなかった。いつもと同じ欄に、いつもと同じ形式で。


帳簿を棚に戻した。


午前。通常営業。街道商人が一組。近隣の町から来た行商人が一人。


昼食を出し、皿を洗い、テーブルを拭いた。


午後。


食堂に客はいなかった。午前の商人たちは昼食を終えて街道に戻り、行商人は二階で休んでいた。


からん、と鈴が鳴った。


シルヴィアの手が止まった。


厨房から食堂に出た。


扉の前に、人影が立っていた。


冬の午後の光が背後から差し込んでいた。白い息が、扉の隙間から食堂に流れ込んでいる。


レナートだった。


五度目の来訪。


装いは——紋章を外した外套。前と同じ。上質だが、王子の正装ではない。肩に霜の粒が残っていた。街道を歩いてきたのだろう。


形式ではなく、あの人として来た。


シルヴィアの胸が、静かに温かくなった。


跳ねるような鼓動ではなかった。じわりと広がる、穏やかな熱だった。


「いらっしゃいませ」


声はいつもの温度だった。宿の女将が客を迎える声。


レナートは食堂に入った。


五つのテーブルを見渡した。白い壁。窓辺の席。帳簿の並んだ棚。


窓辺の席に向かった。


荷袋を椅子の脇に置いた。座った。


あの席に。


シルヴィアはその背中を見ていた。


遊歴の旅人として座った日があった。国王名代として来た夜があった。全てを話しに来た夜があった。国王の書簡を届けに来た日があった。


今日は——正式な婚約者として。


だがその背中は、最初に座ったときと変わらなかった。


シルヴィアは棚の奥から茶葉の缶を取り出した。


あの茶葉。少しだけ上等な茶葉。普段は客に出さない茶葉。


湯を注いだ。茶葉が開いた。湯気が細く立ち上った。


茶杯を二つ。


窓辺の席のレナートの前に一つ。その向かいに一つ。


シルヴィアは向かいの椅子を引いて座った。


冬の午後の光が窓辺の席に落ちていた。


レナートが茶杯に手を伸ばした。一口飲んだ。


「……やっぱり、この茶がいい」


シルヴィアは茶杯を持ったまま、レナートを見た。


「王宮のお茶のほうが上等ですよ」


「知ってる。だがこっちがいい」


シルヴィアが笑った。


小さな、穏やかな笑みだった。声は立てなかった。口元が緩み、目の奥が柔らかくなった。


力の入らない笑みだった。あの涙の夜の後ではなく、今日の午後の光の中で生まれた笑み。


レナートが手を伸ばした。


テーブルの上で、シルヴィアの手に触れた。


指が指に触れた。シルヴィアの指の間に、レナートの指が滑り込んだ。


シルヴィアの指が、握り返した。


温かかった。


あの夜、初めて指を絡めたときと同じ温度。だが今日の力は、あのときより穏やかだった。必死さがなかった。離さないという緊張ではなく、ここにあるという安心の力だった。


窓辺の席。冬の午後の光。二つの茶杯。


「一年だな」


「ええ。一年です」


「長かったか」


「……長かった。でも全部——」


シルヴィアは言葉を探さなかった。


大きな言葉は要らなかった。


「全部、ここにつながっていた」


穏やかに。当たり前のように。


声は震えなかった。涙もなかった。


あの夜、涙が頬を伝った。「全部、無駄じゃなかった」と声が震えた。あれは頂だった。


今日は、頂の先にある平地だった。


風が吹かない。嵐もない。ただ穏やかに、確かに、ここにいる。


レナートの指がシルヴィアの手を握っている。シルヴィアの指がレナートの手を握り返している。


テーブルの上で、二人の手が重なっている。


銀鈴亭の食堂。窓辺の席。五つのテーブル。白い壁。帳簿の並んだ棚。


冬の午後の光が、窓から差し込んでいる。


銀の鈴が、扉の金具の上で静かに光を受けていた。


旅人が来るたびに鳴る鈴。あの人が帰るたびに鳴る鈴。


一年分の全部を抱えて、今日も私はここにいる。


ここが私の場所で、あの人の帰る場所で、旅人が休める場所。


それだけのことが一年かけて、こんなにも満ちている。


(完)


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― 新着の感想 ―
4章、王宮に行くことになるあたりからすごくソワソワした気持ちで読んでいたのですが 陛下が!陛下がめちゃくちゃ良かったです! ぐっときました! 最後の、微笑みあって心が満たされたふたりがとても素敵でし…
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