第3話「封蝋の重さ」
「おかみさん、領主のお使いが来てるよ」
朝の仕入れ帰り、銀鈴亭の前の通りで声をかけられた。顔見知りの商人が、荷を担いだまま銀鈴亭のほうを顎で示していた。
銀鈴亭の扉の前に、人影が立っていた。
正装の男。領主配下の役人だった。背筋を伸ばし、手に書簡を持っている。封蝋が朝の光を受けて鈍く光った。
シルヴィアは籠を腕にかけたまま、役人の前に立った。
「銀鈴亭の女将、シルヴィア殿でいらっしゃいますか」
「はい」
「第二王子殿下より、王都への御招待です。王族への謁見の日取りが記されております」
役人が書簡を差し出した。
シルヴィアの指が、封蝋に触れた。
エルデシア王家の紋章。指先に、蝋の硬さが伝わった。
「確かにお届けいたしました」
役人は丁重に一礼し、通りを去っていった。
シルヴィアは扉を開けた。鈴が鳴った。
食堂に入り、仕入れの籠を厨房に置いた。
手を洗い、テーブルの前に座った。
書簡を開いた。
レナートの筆跡ではなかった。宮廷の文官が作成した公式文書。整然とした書体。形式に沿った文面。
謁見の日取り。旅程。馬車と護衛の手配。王宮内の客間の案内。謁見時の貸与衣装に関する記載。
一行ずつ読んだ。侯爵令嬢だった自分には、この種の文書の構造がわかる。公的招待の書式。王家の格式に則った手配。省略されている項目はない。
最後の行に、目が止まった。
筆跡が変わっていた。
文官の整然とした書体ではない。少し硬く、少し急いた、だが丁寧な文字。
「待っている」
一行だけ。レナートの直筆だった。
指先が、文字の上を辿った。
触れるように。インクの凹凸を、指の腹で確かめるように。
書簡をテーブルに置いた。
立ち上がった。
厨房に入り、仕込みを始めた。鍋に水を張る。豆を戻す。人参の皮を剥く。
手を動かしながら、考えた。
宮廷に行く。
侯爵令嬢としての自分を使う。礼法を纏い、正装で国王の前に立つ。
それは——この宿を裏切ることなのか。
包丁が人参を刻む音が、厨房に響いた。
「宿を閉じない」と言った。あの夜、レナートの前で。国王の書簡を読んだ後で。
宮廷に行くことは、宿を閉じることではない。
だが——数日間、この場所を離れる。開業以来、一日も休まずに開けてきた扉を閉める。
包丁を置いた。
手を洗い、食堂に戻った。
書簡をもう一度手に取った。
貸与衣装の記載を読み返した。「王家より候補者に相応の正装を手配いたします。謁見後に返却されるものとし、公的手配として扱います」。
記憶が甦った。
グレンの家にいた頃、用意された衣装を着て社交の場に立った。あの家の紋章が入った衣装を。あの家の名前のために着飾った。
指が書簡の上で止まった。
あの頃とは違う。
あの頃は、グレンの家の名前のために着た。衣装は道具ではなく、鎖だった。あの家の一部として振る舞うための制服だった。
今回は——制度上の手配だ。王家の格式を守るための道具。道具を使うのは、自分のためだ。
棚に目をやった。
先月、自分の稼ぎで買った上質な布のショール。仕入れ先の織物商から、少しだけ値が張る一枚を選んだ。銀鈴亭の売上から出した金で。
あのショールだけは持っていく。
貸与衣装の上に、自分のショールを。
それが「全部を与えられたわけではない」という一線になる。
書簡をテーブルに置いた。
宿を誰に任せるか。
答えはすぐに出た。
午後。市場。
エルダが乾物の台で荷を整えていた。
「エルダさん」
「おかみさん、どうした。追加の注文かい」
「お願いがあります」
シルヴィアはエルダの前に立った。
「数日だけ留守にします。宿泊客の対応と、朝食の簡単な準備をお願いできますか」
エルダの手が止まった。
干し豆の袋を持ったまま、シルヴィアの顔を見た。
驚いていた。あの銀鈴亭の女将が、一日も休まずに開けてきた宿を、人に任せると言っている。
「……おかみさんの宿、任せてもらえるなら光栄だよ」
声に、商売人の真面目さがあった。冗談ではなく、本気で受け止めている声だった。
「仕入れの段取りはあたしの方でわかるし、朝食の支度も、何を出すか教えてもらえれば大丈夫だ。宿帳の書き方と鍵の管理だけ、先に教えてくれ」
シルヴィアは頷いた。
「今夜、閉店後に宿に来てください。一通り説明します」
「わかった。——おかみさん」
エルダは干し豆の袋を台に置いた。
「あんたが人に宿を任せるなんて、よっぽどだね」
シルヴィアは答えなかった。
だが口元が、ほんのわずかに緩んだ。
夜。閉店後。
エルダが裏口から来た。シルヴィアは厨房で宿帳の書き方、鍵の管理、朝食の段取り、仕入れ先と支払いの手順を一つずつ説明した。エルダは要点を自分の手帳に書き取り、一度も聞き返さなかった。
「鈴は毎朝磨いてください」
シルヴィアが最後に言った。
エルダは少し不思議そうな顔をしたが、頷いた。
「わかった。鈴だね」
エルダが帰った後、食堂に一人。
ランプの灯りが一つ。
書簡がテーブルの上にある。末尾のレナートの直筆。「待っている」。
あの人が待っている場所に行く。
侯爵令嬢の礼法を使う。貸与衣装を着る。宮廷の空気を吸う。
だがこのショールだけは、自分のものだ。
棚からショールを取り出した。手触りを確かめた。自分の稼ぎで買った布。織り目の細かい、落ち着いた色の一枚。
行く。宮廷に。あの人が待っている場所に。
帰る場所があるから行ける。
出発の朝。
シルヴィアは銀鈴亭の扉の前に立っていた。
鈴に手を伸ばした。布巾で磨く。いつもの動作。毎朝の手順。
鈴の表面に、朝の光が映った。
エルダが裏口から入ってきた。
「おかみさん、準備できてるよ」
シルヴィアは鍵をエルダに渡した。
手のひらから手のひらに、金属の重さが移った。
「鈴は毎朝磨いてください」
二度目のその言葉に、エルダは今度は笑わずに頷いた。
「任せて」
シルヴィアは扉を開けた。鈴が鳴った。
街道に出た。
秋の朝の光が、石畳に長い影を落としている。
王家の紋章が入った馬車が、街道の脇に停まっていた。
馬車の脇に、マルコが立っていた。近衛の正装。背筋を伸ばし、シルヴィアを見て一礼した。
「お迎えに上がりました」
シルヴィアは頷いた。
馬車に乗り込んだ。
背後で、鈴が鳴った。
エルダが銀鈴亭の扉を開けた音だった。




