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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第4章

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第2話「王宮の回廊」

あの食堂に、あの人の笑みが一つ増えた。


エルデシア王宮。東翼の執務室。


レナートは机に向かっていた。羊皮紙の束が積まれている。通商条件の改定案。使節団の日程調整。港湾税の減免に関する回答草案。


羽ペンを走らせる。文面を整え、封蝋を押す。一通。二通。三通。


手は止まらない。王都に戻ってからの日々と同じように、滞りなく処理している。外交担当の王子として、歯車として。


四通目の封蝋を押した手が、止まった。


あの笑みが浮かんだ。


国王の直筆書簡を読んだシルヴィアが、顔を上げて言った。「陛下はお茶を飲みにいらっしゃらないんですね」。唇の端がわずかに上がって、声にかすかな笑みが混じっていた。


あの食堂で、あの人が笑った。


涙の後の、軽い笑い。初めて見た表情だった。帳簿をつけるときの静かな顔でも、客を迎えるときの穏やかな声でもなく、ほどけた空気の中で生まれた笑み。


口元が緩んだ。


自分でも気づかないうちに。書簡の山の前で、宮廷の執務室の中で、あの食堂の笑みを思い出して——笑っていた。


宮廷で初めてだった。シルヴィアの笑みを思い出して、こんなふうに口元が動いたのは。


ペンを取り直した。五通目に取りかかる。


集中しろ。ここは執務室だ。


昼過ぎ。


扉が控えめに叩かれた。


「失礼します」


マルコだった。近衛の正式な装い。剣帯を締め、背筋を伸ばしている。


扉を閉め、執務室に入った。二人きり。


マルコの口調が切り替わった。


「ヴァイスベルク侯爵家への正式同意書の依頼、昨日発送しました。外交使節便で片道三日。侯爵の検討に一週間として、返送を含め二週間ほどで届くかと」


レナートは頷いた。


父の返書——「承知の上で送り出した」と表明した侯爵の態度は、既に確認されている。正式同意書はその延長線上の手続きだった。侯爵が拒否する理由はない。


「宮廷評議への報告資料は、現在作成中です」


マルコが机の脇に立ったまま、声を落とした。


「報告資料には、シルヴィア殿の経歴を記載する必要があります。元侯爵令嬢が身分を伏せて宿を営んでいるという事実を、宮廷の貴族に開示することになります」


レナートのペンが止まった。


開示。


シルヴィアの身元を、宮廷の全員に知らせる。侯爵家の令嬢が他国で宿屋を営んでいるという事実を。


「宮廷の反応は二分されるでしょう」


マルコの声は淡々としていた。事実を述べている声だった。


「好奇心を持つ者と、批判する者と。侯爵家の出自であれば身分上の問題はありませんが、『宿を営む王子妃は品位を損なう』と言う貴族は出ます」


沈黙が落ちた。


レナートは壁を見た。


東翼の執務室には肖像画はない。だが廊下を出て左に曲がれば、父の私室がある。あの部屋の壁に、母の肖像画がかかっている。


穏やかな目をした女性。側妃の立場で宮廷に入り、軋轢に苦しみ、最後まで自分の足で立とうとして——立てなかった。


母のようにはさせない。


だがその直後に、別の声が浮かんだ。


「この宿を手放しません」。


あの食堂で、シルヴィアが言った。涙を流した後で、声を定めて言い切った。


あの人は、母とは違う。自分の場所を持っている。自分の手で作った場所を、手放さないと宣言した人だ。


「報告資料に、ありのままを書け」


声は低かった。


「隠蔽も美化もいらない。あの人は、ありのままで十分だ」


マルコは一拍、黙った。


「承知しました」


間があった。


「宮廷評議の日程ですが、二週間後に設定できます。ヴァイスベルク侯爵からの正式同意書と、ちょうど合います」


「頼む」


レナートは書簡の山に目を戻した。だがペンを取る前に、もう一つ。


「シルヴィアへの招待状も手配してくれ。領主経由で届ける形で」


マルコの背筋がわずかに動いた。


「馬車と護衛の手配も進めます」


「ああ」


マルコは一礼し、扉に向かった。


扉が閉まった。


執務室に一人。


レナートは書簡の山に手を伸ばした。六通目の羊皮紙を引き寄せる。


ペンを取った。


だが右手が、無意識に指を折っていた。


親指が人差し指の腹に触れ、中指が薬指の側面を押さえている。あの食堂で、テーブルの上で、シルヴィアの指の間に自分の指を滑り込ませたときの形だった。


握り返されたときの力。強くはなかった。だが確かだった。離さないという意思の、静かな力。


指が覚えている。


あの温度を、この手が覚えている。


指を開いた。ペンを握り直した。


六通目の書簡に取りかかった。


あの人を宮廷に呼ぶ。あの食堂から、ここに。


母がここで壊れた。


だがあの人には——帰る場所がある。


俺がそれを奪わなければ、あの人はここでも自分の足で立てる。


ペンが羊皮紙の上を走った。



レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。夜。


屋敷は静かだった。


廊下を歩く足音がない。台所から聞こえていた鍋の音もない。先週、住み込みの下働きの娘が荷物をまとめて出ていった。挨拶はなかった。朝、裏口から消えていた。


残った使用人は、片手で数えるほどだった。


グレンは書斎の窓の前に立っていた。


窓の外は暗い。庭の植え込みが手入れされなくなって久しい。枝が伸び放題になり、夜風に揺れるたびに窓に影を落としている。


かつてはこの庭で茶会を開いた。招待状の手配も、席順も、庭師への指示も、全てシルヴィアが整えていた。


今は枝を切る人間もいない。


書斎に戻り、机の前に座った。


ランプの灯りが一つ。机の上には何もなかった。


引き出しの中に、帳簿がある。


開かなくなっていた。「見なかったんだ」と声に出したあの日から、手が止まっていた。


見なかったものに名前をつけた。それで、同じ頁を繰り返し見る行為の意味が消えた。


回復ではなかった。


何かをすべきだという感覚が、以前はあった。帳簿を開き、頁をめくり、あの筆跡を目で追うことで、何かに近づいている気がしていた。


今はそれもない。


書斎の空気は冷たかった。暖炉に火を入れる使用人が減ってから、屋敷の中が冷える日が増えた。以前は気にしたこともなかった。誰かが火を入れ、誰かが灯りをつけ、誰かが食事を運んできた。その全部が、いつの間にかなくなりつつある。


グレンは窓の外を見ていた。


暗い庭。伸びた枝。灯りの消えた台所。人のいない廊下。


空白だった。


怒りでも、焦りでも、後悔でもなかった。


それらが消えたのではなく、感じ取る力のほうが鈍っていた。



エルデシア王宮。東翼の執務室。夕刻。


マルコがレナートの執務室に入った。


「招待状はクレーネ領主経由で発送しました。到着は五日後の見込みです」


レナートの手が止まった。


五日後。


シルヴィアの手元に、あの封蝋が届く。


「馬車はクレーネの領主館に手配済みです。護衛は自分を含め三名」


レナートは頷いた。


マルコは一礼して扉に向かった。


執務室に一人。


レナートは窓の外を見た。東に伸びる街道。日が傾き、空が赤く染まっている。


五日後。あの鈴が鳴る町に、封蝋のついた書簡が届く。


あの人がそれを手に取る。


あの帳簿を閉じる手と同じ手で、王家の紋章が刻まれた封蝋を切る。


レナートは窓から目を離し、最後の書簡に手を伸ばした。

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