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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第3章

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第10話「銀の鈴が鳴る朝」

シルヴィアは銀鈴亭の扉を開けた。


朝の空気が食堂に流れ込んだ。冷たかった。秋が深まっていた。街道の木々が赤と黄に染まり、朝霧が低く漂っている。


扉の金具に掛かった銀の鈴に手を伸ばした。


布巾で磨く。いつもの動作。毎朝の手順。


鈴の表面に、朝の光が映った。布巾を動かすたびに、光の筋が揺れる。


開業十ヶ月半の朝。


レナートが王都に戻ってから約五週間。前回の滞在最終日に「次に来るときは正式な形になる」と言った。あの言葉が、遠くも近くもなく、ただ確かに胸の中にあった。


待っていない。


待つのではなく、ここにいることを選び続けている。


鈴を磨き終えた。金具に掛け直す。


食堂に入った。テーブルを拭いていく。一卓目。二卓目。三卓目。四卓目。五卓目。窓辺の席。


空席のまま、朝の光を受けている。


拭き終えて、厨房に入った。鍋に水を張る。豆を戻す。今日の仕込みは根菜のスープと、香草を効かせた鶏の煮込み。


包丁を取り出した。人参の皮を剥く。玉葱を刻む。


手は動いている。いつもの手順。いつもの段取り。


午前。市場に出て仕入れを済ませた。ゲルツ親方のところで鶏肉と仔牛の骨を受け取り、青果台で野菜を選んだ。


親方は包みを渡しながら「今日もいい肉が入ったぞ」と言った。いつもの調子だった。「貴族の出」の噂は市場に定着していた。だが親方の態度は変わらなかった。仕入れの量も条件も同じだった。


銀鈴亭に戻り、仕込みの続きにかかった。


昼前に街道商人が一組。昼過ぎに夫婦連れ。通常営業の一日だった。


午後。


食堂の片付けを終え、厨房で夕食の準備をしていた。


からん、と銀の鈴が鳴った。


シルヴィアの手が止まった。


包丁をまな板に置いた。


布巾で手を拭き、食堂に出た。


扉の前に、人影が立っていた。


秋の午後の柔らかい光が背後から差し込んでいた。逆光の中に、背の高い影。半歩後ろに、がっしりとした体格の影。


光の中に顔が入った。


レナートだった。


心臓が跳ねた。


だが——前回のように、呼吸が止まることはなかった。


あの人がここに来ることを、知っていた。いつかではなく、必ず来ると。


マルコが半歩後ろに立っていた。


レナートの装いは、前回と同じだった。上質な布地の外套。肩の線がきちんと出ている。王家の紋章は外してある。


だがその手に、小さな革の書簡入れがあった。


シルヴィアの目がそれを捉えた。


「いらっしゃいませ」


声はいつもの温度だった。


レナートの目がシルヴィアを見た。


静かな目だった。真っ直ぐで、揺れのない目。だがその奥に、何かを届けに来た人間の光があった。


「ああ」


低い声。


四度目の来訪だった。


マルコがシルヴィアに軽く頭を下げた。


「また世話になります」


「二階のお部屋、用意してあります」


マルコは頷き、階段に向かった。足音が二階に消えた。


食堂に二人。


レナートは窓辺の席に向かった。


荷袋を椅子の脇に置いた。あの席に。


シルヴィアはその背中を見ていた。


あの席に、あの人が座る。


通常営業は続いていた。夕食の時間に客が集まり、シルヴィアは皿を運び、スープを注ぎ、パンの籠を出した。レナートは窓辺の席で食事を終え、「美味かった」と言った。同じ言葉。同じ声。


閉店後。


最後の客が二階に上がり、食堂に静けさが降りた。


テーブルを拭いて回る。椅子を整え、皿を重ねる。ランプを一つだけ残す。


階段を降りてくる足音が聞こえた。


レナートが食堂に入ってきた。


窓辺の席に座った。


手に、あの革の書簡入れがあった。


シルヴィアは棚の奥から茶葉の缶を取り出した。あの茶葉。少しだけ上等な、普段は客に出さない茶葉。


湯を注ぐ。茶葉が開く。湯気が細く立ち上る。


茶杯を二つ。窓辺の席のレナートの前に一つ。その向かいに一つ。


シルヴィアは向かいの椅子を引いて座った。


ランプの灯りが一つ。閉店後の食堂。


レナートは革の書簡入れを開いた。


封蝋のついた書簡を取り出し、テーブルの上に置いた。


封蝋に刻まれた紋章。エルデシア王家の紋章だった。


シルヴィアの呼吸が浅くなった。


「父上からだ」


レナートの声は低かった。


「お前に読んでほしい」


シルヴィアは書簡を手に取った。


指が震えなかった。震えそうになったが、止めた。帳簿を開くときと同じ手で、封を切った。


羊皮紙を広げた。


国王の直筆だった。文字は整然としていた。簡潔で、無駄のない筆跡。


文面は短かった。


「レナートがそこに帰ることを、余は止めない。ヴァイスベルク侯爵家との外交上の問題は解消された。残るは当人同士の問題である」


シルヴィアは文面を読んだ。もう一度読んだ。


「止めない」。


正式な裁可文書ではなかった。勅令の体裁ではない。国王の直筆の書簡——それは方向性の表明だった。


だがその一言の重さを、シルヴィアは正確に理解できた。侯爵家の令嬢だった自分には、王の直筆書簡が何を意味するかがわかる。


書簡をテーブルに置いた。


指が羊皮紙の縁に触れたまま、しばらく動かなかった。


「……陛下は、お茶を飲みにいらっしゃらないんですね」


声にかすかな笑みが混じっていた。唇の端がわずかに上がっていた。


レナートの目が動いた。


「父上は出不精だ」


二人の間に、笑いが生まれた。


小さな、静かな笑いだった。声を立てて笑ったわけではない。だが空気が緩んだ。閉店後の食堂の緊張が、ほんの少しだけほどけた。


初めてだった。二人の間で、こんなふうに軽い言葉が交わされるのは。


笑みが消えた。


消えたのではなく——沈んだ。もっと深いものに変わった。


レナートがシルヴィアを真っ直ぐに見た。


「シルヴィア」


「レナート」


名前で呼び合った。あの夜からずっとそうしてきたように。


「俺は——ここに帰る。何度でも。お前がここにいる限り」


シルヴィアは黙っていた。


「それだけじゃない」


レナートの声が低くなった。


喉が動いた。言葉を選んでいるのではなかった。言葉が出てくるのを、待っていた。


「お前の隣に、立ちたい。名前で呼ばれたい。——ここでも、王宮でも、どこでも」


シルヴィアの視界がにじんだ。


まつ毛の縁に熱いものが溜まった。


今度は——止めなかった。


涙が一筋、頬を伝った。


初めてだった。


あの夜会でグレンに「君は妹ほど可愛くないね」と言われたとき、泣かなかった。婚約解消届に手を伸ばしたとき、泣かなかった。一人で国を越えたとき、泣かなかった。銀鈴亭の扉を初めて開けたとき、泣かなかった。レナートが王子だと知ったとき、泣かなかった。


今——泣いた。


「……長かった」


声が震えた。


「あなたに会うまでの全部が。この宿を開けてからの全部が。全部長かった」


涙がもう一筋、落ちた。


「でも——全部、無駄じゃなかった」


レナートの手が動いた。


テーブルを越えて、シルヴィアの頬に触れた。


指先が涙を拭った。


頬の上で、指が止まった。


温かかった。あの夜、手の甲が触れ合ったときと同じ温度。指を絡めて握り返したときと同じ力。


「無駄なものは、一つもない」


レナートの声が、静かに落ちた。


シルヴィアの頬に触れた手が、ゆっくりと離れた。


離れたが——距離は戻らなかった。


テーブルの上で、二人の手が重なった。指が絡んだ。前回と同じように。だが今夜の力は、前回より確かだった。


窓辺の席。ランプの灯り。


午後の光はもう消えていた。秋の夜の暗がりの中で、ランプの灯りだけが二人の手を照らしていた。


白い壁が、その灯りを柔らかく弾いていた。自分の手で塗った壁。鏝の跡が残っている壁。


銀の鈴が、扉の金具の上で静かに揺れていた。夜風が窓の隙間から入り、かすかに——音にならないほどかすかに——鈴を揺らしていた。


シルヴィアは目を閉じた。


誰かの隣で与えられた席ではなく、自分で作った場所に立っている。


そしてその場所に、選んで来る人がいる。


王が止めないと言った。父が送り出したと言った。


でも——決めたのは、私だ。


ここにいると決めたのは、私だ。


私は誰の家も整えない。この宿を、自分のために守る。そしてここに帰ってくる人のために——鈴を磨く。


それが、私の答えだ。


目を開けた。


レナートの目がそこにあった。静かで、真っ直ぐで、変わらない目。


窓辺の席。白い壁。帳簿の並んだ棚。ランプの灯り。


銀の鈴が、扉の金具の上で光を受けている。


旅人が来るたびに鳴る。あの人が帰るたびに鳴る。私がここにいる限り、鈴は鳴り続ける。


それだけのことが、こんなにも満ちている。


(完)


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― 新着の感想 ―
3章もすごく素敵でした! ふたりは手を握りあう以上のことはしていないのにめちゃくちゃラブシーンだ!とときめいてしまいます 心が通い合う描写がたまりません! 常連さんに敬語使われるところですごくつらい…
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