第9話「止めない」
あの子は、あの子の母親に似ている。
エルデシア王宮。東翼の私室。
国王アルベルトは窓辺に立っていた。手元に、レナートが提出した報告書がある。クレーネでのシルヴィアの答え。
「あの人は宿を閉じないと言いました。その上で、俺がそこに帰ることを受け入れると」
レナートはそう報告した。声は低く、真っ直ぐだった。迷いのない声だった。
国王はしばらく黙っていた。
「宿を閉じない、か」
呟いた。
窓の外を見た。東に伸びる街道。その先に、見えない町がある。
宿を閉じない。王子の妃になるかどうかはわからないと言いながら、自分の場所を手放さないと宣言した。
条件をつけたのではない。自分の足で立つと言ったのだ。
国王は壁の肖像画に目をやった。第二王妃の若き日の顔。穏やかな目をした女性。
あの子の母親には、それがなかった。
自分の場所を。宮廷に入り、側妃の立場を受け入れ、軋轢の中で立ち続けようとした。だが自分の足元に、帰れる場所がなかった。王宮の中にしか居場所がなかった。だから——壊れた。
この娘は違う。
宿がある。帳簿がある。自分の手で塗った壁がある。マルコの報告書にあった、あの銀の鈴がある。
宮廷に呑まれるタイプではない。自分の場所を持つ人間だ。
国王は肖像画から目を離した。
「ヴァイスベルク侯爵に書簡を出す。通商条約に基づく越境定住の確認という名目で、娘の件を問い合わせる」
レナートに告げた言葉の通り、書簡を発送した。
それから約三週間が経った。
マルコがレナートの執務室に入った。
「殿下。レヴィアンスから返書が届きました」
封蝋のついた書簡を、机の上に置いた。
ヴァイスベルク侯爵家の紋章が刻まれた封蝋。
レナートは封を切った。
羊皮紙を広げた。目が文面を追った。
文言は簡潔だった。政治的な書簡の体裁を備えていた。だが——その行間に、読む者が読めば気づくものがあった。
「娘シルヴィアの越境定住は、当家が承知の上で送り出したものである。爵位不申告については当家の判断であり、エルデシア王家との間に外交上の問題は生じないものと考える」
レナートの手が止まった。
「承知の上で送り出した」。
黙認ではなかった。少なくとも、公式にはそう表明した。
「送り出した」——その言葉を、侯爵は選んだ。「家を出た者」ではなく「送り出した者」として、娘を位置づけた。
政治的な判断だった。エルデシア王家からの書簡に対し、外交上の問題を生じさせない回答を選んだ。それは侯爵としての実務的な判断だ。
だがレナートは、あの夜のシルヴィアの声を思い出していた。
「反対も、賛成もしなかった。ただ——止めなかった」
止めなかった父が、今、「送り出した」と書いた。
その行間にあるものを、レナートは読み取った。
マルコに返書を渡した。
「父上に届けてくれ」
「承知しました」
マルコは書簡を受け取り、執務室を出た。
国王の私室。
アルベルトは返書を読んだ。
文面を一度読み、もう一度読んだ。
「承知の上で送り出した」。
外交上の問題は、これで解消の道筋がついた。侯爵家が公式に「同意の上での越境」と表明した以上、エルデシア側が問題とする根拠はない。
身分差の問題も、侯爵家の令嬢であれば解消される。過去に子爵家出身者との婚姻例がある。侯爵家であれば、むしろ格として十分だ。
残る問題は——宮廷の反応。だがそれは、国王が制御できる範囲のことだった。
本当の障壁は、政治ではなかった。
国王は壁の肖像画を見た。
第二王妃の穏やかな目。
この娘を宮廷に入れれば、同じことが起きるのではないか。
側妃の立場で宮廷に入り、軋轢に苦しみ、壊れていった女性。あの子の母親と同じ道を歩むのではないか。
だが——「宿を閉じない」と言った娘だ。
自分の場所を持っている。自分の手で作った場所を、手放さないと宣言した。
あの子の母親にはそれがなかった。この娘にはある。
国王は返書を机に置いた。
窓辺に立った。
肖像画を見た。長く。
「……止めない」
呟いた。
小さな声だった。私室の壁に吸い込まれて消えた。
その一言は、レナートにまだ伝わっていない。だが決定は下された。
◇
レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。
グレンは書斎の机に向かっていた。
ランプの灯りが一つ。机の上に、革表紙の帳簿が開かれている。
シルヴィアの社交帳簿。同じ頁を、何度も見てきた頁。
今日は違った。
帳簿を閉じた。
革表紙の感触が指に残った。三年分の記録。一頁も欠けることなく、一行の書き損じもない帳簿。
この帳簿を作った人間の仕事を、自分は見なかった。
見せてくれなかったのではない。見なかったのだ。
目の前にあった。三年間、ずっとあった。社交の段取りが整い、茶会の席順が決まり、贈答品が過不足なく届くたびに、この帳簿の一行が増えていた。
それを——見なかった。
「見なかったんだ」
声に出した。
誰もいない書斎で。
声が壁に当たり、消えた。
それは反省の完成ではなかった。謝罪の言葉でもなかった。ただ、事実の認識だった。
自分が何をしたのか——何をしなかったのか——の、最初の一歩。
帳簿を引き出しに戻した。
引き出しを閉めた。
閉めた手が、しばらく引き出しの取っ手の上で止まっていた。
書斎の扉が開いた。
リゼットだった。
兄の机の脇に、屋敷の経理帳簿が積まれている。先月から、リゼットが少しずつ手をつけ始めた帳簿だった。
「兄さま、この月の帳簿の整理、わたしが引き受けてもいいですか」
甘え声ではなかった。
素の声だった。やや低く、ためらいがちな声。以前の、上目遣いで同情を引く話し方ではなかった。
グレンがリゼットを見た。
その目に、以前の庇護欲はなかった。代わりに、戸惑いがあった。妹の声の変化を、まだ受け止めきれていない目だった。
「……好きにしろ」
声に力はなかった。だが拒絶でもなかった。
リゼットは帳簿を両手で抱えた。
「失礼します」
書斎を出た。
廊下を歩く。帳簿の重さが、両腕に伝わっていた。
足取りは軽くなかった。だが止まらなかった。
華やかな社交の場に戻ることは、もうない。シルヴィアの帳簿を読んだ夜から、わかっていた。あの記録の一頁分も、自分には書けない。
だが帳簿の数字を整理することならできる。屋敷の経理を手伝うことならできる。
兄の隣ではなく、自分の足元を見る。
それが今の自分にできることだった。
リゼットは自室の机に帳簿を置いた。
椅子に座り、最初の頁を開いた。
グレンは一人、書斎の窓の外を見ていた。
シルヴィアの社交帳簿は引き出しの中にある。
「見なかったんだ」——その声が、まだ耳の奥に残っていた。
認識の一歩。だが確かに、一歩だった。
◇
エルデシア王宮。東翼の執務室。
マルコがレナートの執務室に入った。
「殿下。陛下からの伝言です」
レナートはペンを置いた。
マルコの表情は変わらなかった。だが声に、わずかな力があった。
「『次にあの町に行くときは、余の答えを持っていけ』と」
レナートの目に、光が走った。
呼吸が止まった。
指が机の上で止まっていた。
「……父上が、そう言ったのか」
「はい。陛下の直接の伝言です」
余の答えを持っていけ。
それは——止めない、ということだ。
レナートは窓の外を見た。東に伸びる街道。その先に、あの町がある。
あの食堂がある。あの窓辺の席がある。銀の鈴がある。
鈴を磨いて待っていると言った人がいる。
レナートは立ち上がった。
「出発の準備を」
「承知しました」
マルコは一礼した。
扉に向かいかけて、立ち止まった。
振り返った。
「殿下」
「何だ」
「おめでとうございます、とはまだ言いません。——あの人に届けてから、です」
レナートは答えなかった。
だが口元が、ほんのわずかに動いた。
マルコは一礼して、執務室を出た。




