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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第3章

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第9話「止めない」

あの子は、あの子の母親に似ている。


エルデシア王宮。東翼の私室。


国王アルベルトは窓辺に立っていた。手元に、レナートが提出した報告書がある。クレーネでのシルヴィアの答え。


「あの人は宿を閉じないと言いました。その上で、俺がそこに帰ることを受け入れると」


レナートはそう報告した。声は低く、真っ直ぐだった。迷いのない声だった。


国王はしばらく黙っていた。


「宿を閉じない、か」


呟いた。


窓の外を見た。東に伸びる街道。その先に、見えない町がある。


宿を閉じない。王子の妃になるかどうかはわからないと言いながら、自分の場所を手放さないと宣言した。


条件をつけたのではない。自分の足で立つと言ったのだ。


国王は壁の肖像画に目をやった。第二王妃の若き日の顔。穏やかな目をした女性。


あの子の母親には、それがなかった。


自分の場所を。宮廷に入り、側妃の立場を受け入れ、軋轢の中で立ち続けようとした。だが自分の足元に、帰れる場所がなかった。王宮の中にしか居場所がなかった。だから——壊れた。


この娘は違う。


宿がある。帳簿がある。自分の手で塗った壁がある。マルコの報告書にあった、あの銀の鈴がある。


宮廷に呑まれるタイプではない。自分の場所を持つ人間だ。


国王は肖像画から目を離した。


「ヴァイスベルク侯爵に書簡を出す。通商条約に基づく越境定住の確認という名目で、娘の件を問い合わせる」


レナートに告げた言葉の通り、書簡を発送した。


それから約三週間が経った。


マルコがレナートの執務室に入った。


「殿下。レヴィアンスから返書が届きました」


封蝋のついた書簡を、机の上に置いた。


ヴァイスベルク侯爵家の紋章が刻まれた封蝋。


レナートは封を切った。


羊皮紙を広げた。目が文面を追った。


文言は簡潔だった。政治的な書簡の体裁を備えていた。だが——その行間に、読む者が読めば気づくものがあった。


「娘シルヴィアの越境定住は、当家が承知の上で送り出したものである。爵位不申告については当家の判断であり、エルデシア王家との間に外交上の問題は生じないものと考える」


レナートの手が止まった。


「承知の上で送り出した」。


黙認ではなかった。少なくとも、公式にはそう表明した。


「送り出した」——その言葉を、侯爵は選んだ。「家を出た者」ではなく「送り出した者」として、娘を位置づけた。


政治的な判断だった。エルデシア王家からの書簡に対し、外交上の問題を生じさせない回答を選んだ。それは侯爵としての実務的な判断だ。


だがレナートは、あの夜のシルヴィアの声を思い出していた。


「反対も、賛成もしなかった。ただ——止めなかった」


止めなかった父が、今、「送り出した」と書いた。


その行間にあるものを、レナートは読み取った。


マルコに返書を渡した。


「父上に届けてくれ」


「承知しました」


マルコは書簡を受け取り、執務室を出た。


国王の私室。


アルベルトは返書を読んだ。


文面を一度読み、もう一度読んだ。


「承知の上で送り出した」。


外交上の問題は、これで解消の道筋がついた。侯爵家が公式に「同意の上での越境」と表明した以上、エルデシア側が問題とする根拠はない。


身分差の問題も、侯爵家の令嬢であれば解消される。過去に子爵家出身者との婚姻例がある。侯爵家であれば、むしろ格として十分だ。


残る問題は——宮廷の反応。だがそれは、国王が制御できる範囲のことだった。


本当の障壁は、政治ではなかった。


国王は壁の肖像画を見た。


第二王妃の穏やかな目。


この娘を宮廷に入れれば、同じことが起きるのではないか。


側妃の立場で宮廷に入り、軋轢に苦しみ、壊れていった女性。あの子の母親と同じ道を歩むのではないか。


だが——「宿を閉じない」と言った娘だ。


自分の場所を持っている。自分の手で作った場所を、手放さないと宣言した。


あの子の母親にはそれがなかった。この娘にはある。


国王は返書を机に置いた。


窓辺に立った。


肖像画を見た。長く。


「……止めない」


呟いた。


小さな声だった。私室の壁に吸い込まれて消えた。


その一言は、レナートにまだ伝わっていない。だが決定は下された。



レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。


グレンは書斎の机に向かっていた。


ランプの灯りが一つ。机の上に、革表紙の帳簿が開かれている。


シルヴィアの社交帳簿。同じ頁を、何度も見てきた頁。


今日は違った。


帳簿を閉じた。


革表紙の感触が指に残った。三年分の記録。一頁も欠けることなく、一行の書き損じもない帳簿。


この帳簿を作った人間の仕事を、自分は見なかった。


見せてくれなかったのではない。見なかったのだ。


目の前にあった。三年間、ずっとあった。社交の段取りが整い、茶会の席順が決まり、贈答品が過不足なく届くたびに、この帳簿の一行が増えていた。


それを——見なかった。


「見なかったんだ」


声に出した。


誰もいない書斎で。


声が壁に当たり、消えた。


それは反省の完成ではなかった。謝罪の言葉でもなかった。ただ、事実の認識だった。


自分が何をしたのか——何をしなかったのか——の、最初の一歩。


帳簿を引き出しに戻した。


引き出しを閉めた。


閉めた手が、しばらく引き出しの取っ手の上で止まっていた。


書斎の扉が開いた。


リゼットだった。


兄の机の脇に、屋敷の経理帳簿が積まれている。先月から、リゼットが少しずつ手をつけ始めた帳簿だった。


「兄さま、この月の帳簿の整理、わたしが引き受けてもいいですか」


甘え声ではなかった。


素の声だった。やや低く、ためらいがちな声。以前の、上目遣いで同情を引く話し方ではなかった。


グレンがリゼットを見た。


その目に、以前の庇護欲はなかった。代わりに、戸惑いがあった。妹の声の変化を、まだ受け止めきれていない目だった。


「……好きにしろ」


声に力はなかった。だが拒絶でもなかった。


リゼットは帳簿を両手で抱えた。


「失礼します」


書斎を出た。


廊下を歩く。帳簿の重さが、両腕に伝わっていた。


足取りは軽くなかった。だが止まらなかった。


華やかな社交の場に戻ることは、もうない。シルヴィアの帳簿を読んだ夜から、わかっていた。あの記録の一頁分も、自分には書けない。


だが帳簿の数字を整理することならできる。屋敷の経理を手伝うことならできる。


兄の隣ではなく、自分の足元を見る。


それが今の自分にできることだった。


リゼットは自室の机に帳簿を置いた。


椅子に座り、最初の頁を開いた。


グレンは一人、書斎の窓の外を見ていた。


シルヴィアの社交帳簿は引き出しの中にある。


「見なかったんだ」——その声が、まだ耳の奥に残っていた。


認識の一歩。だが確かに、一歩だった。



エルデシア王宮。東翼の執務室。


マルコがレナートの執務室に入った。


「殿下。陛下からの伝言です」


レナートはペンを置いた。


マルコの表情は変わらなかった。だが声に、わずかな力があった。


「『次にあの町に行くときは、余の答えを持っていけ』と」


レナートの目に、光が走った。


呼吸が止まった。


指が机の上で止まっていた。


「……父上が、そう言ったのか」


「はい。陛下の直接の伝言です」


余の答えを持っていけ。


それは——止めない、ということだ。


レナートは窓の外を見た。東に伸びる街道。その先に、あの町がある。


あの食堂がある。あの窓辺の席がある。銀の鈴がある。


鈴を磨いて待っていると言った人がいる。


レナートは立ち上がった。


「出発の準備を」


「承知しました」


マルコは一礼した。


扉に向かいかけて、立ち止まった。


振り返った。


「殿下」


「何だ」


「おめでとうございます、とはまだ言いません。——あの人に届けてから、です」


レナートは答えなかった。


だが口元が、ほんのわずかに動いた。


マルコは一礼して、執務室を出た。

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