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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第3章

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第8話「帰る人と残す人」

秋風がクレーネの街道を吹き抜けていた。


銀鈴亭。レナートの滞在最終日の朝。


シルヴィアは厨房に立っていた。鍋に水を張り、火を入れる。朝食の支度。卵を割り、鉄鍋に落とす。パンの生地を窯に入れる。


レナートは明日、王都に戻る。国王への報告と、ヴァイスベルク侯爵への書簡手続きのために。


昨夜、指を絡めたまま、長い沈黙の中で過ごした。多くは語らなかった。語る必要がなかった。握り返した手の力が、言葉の代わりだった。


朝食を食堂に運んだ。


レナートは窓辺の席に座っていた。マルコは隣のテーブルで、既にパンを齧っている。


「どうぞ」


卵とパンとソーセージ。いつもの朝食。


レナートはフォークを取った。卵を一口。パンを一切れ。黙々と食べ進めた。


皿が空になった。


「美味かった」


同じ言葉。同じ声。


「ありがとうございます」


シルヴィアは皿を下げた。


通常営業の一日が始まった。昼前に街道商人が二組。午後に夫婦連れ。レナートとマルコは日中、町の視察を行っていた。前回と同じように、通商路の状況を確認し、領主配下の役人と顔を合わせる。公務としての形を整える。


夕刻。


食堂に客が集まった。五つのテーブルが埋まった。シルヴィアは皿を運び、スープを注ぎ、パンの籠を出した。


レナートは窓辺の席で食事を終え、二階に上がった。マルコも続いた。


閉店後。


最後の客が二階に上がり、食堂に静けさが降りた。


テーブルを拭いて回る。椅子を整え、皿を重ねる。ランプを一つだけ残す。


階段を降りてくる足音が聞こえた。


レナートだった。


窓辺の席に座った。


シルヴィアは棚の奥から茶葉の缶を取り出した。少しだけ上等な茶葉。普段は客に出さない茶葉。


湯を注ぐ。茶葉が開く。湯気が細く立ち上る。


茶杯を二つ。窓辺の席のレナートの前に一つ。その向かいに一つ。


シルヴィアは向かいの椅子を引いて座った。


最後の夜だった。


茶杯から湯気が立っている。ランプの灯りが揺れている。窓の外は暗い。秋の夜の空気が、窓の隙間から細く入ってきていた。


シルヴィアは茶杯に口をつけた。少し冷ましてから、一口。


それから——口を開いた。


「父のことを——少しだけ話してもいいですか」


レナートの手が、茶杯の上で止まった。


目がシルヴィアに向いた。待つ目だった。


「父は、昔からそういう人です」


声は静かだった。


「何も言わずに、書類だけで整える。私がハイゼンベルト家に嫁ぐときも、出ていくときも、何も言わなかった。反対も、賛成もしなかった。ただ——止めなかった」


茶杯を両手で包んだまま、視線を落とした。


「婚約の書類に署名したのは父です。解消の書類に署名したのも父です。越境の手続きを黙認したのも。全部、書類だけで。声は、一度もかけてもらえなかった」


声が震えた。


震えを止めようとして——止めなかった。


「私は父を怒っていたのか、感謝していたのか、今でもわからない」


ランプの炎が揺れた。茶杯の湯気が細く立ち上り、消えた。


レナートは黙って聞いていた。


茶杯を持ったまま、動かなかった。急かさなかった。遮らなかった。


シルヴィアの言葉が途切れるのを、待った。


途切れた。


沈黙が落ちた。


長い沈黙の後、レナートが口を開いた。


「俺の父も——そういう人だ」


シルヴィアの目が上がった。


レナートの視線は茶杯の中に落ちていた。


「母が宮廷で苦しんでいたとき、父は王として動かなかった。側妃の立場を守る制度的な手段はあったはずだ。だが父はそれを使わなかった。母は最後まで、自分の足で立とうとして——立てなかった」


声は低かった。抑制されていた。だがその底に、十年分の重さがあった。


「父を恨んだ時期がある。なぜ守らなかったのかと。だが今は——わからない。守らなかったのか、守れなかったのか。王としての判断と、父としての感情が、別のものだったのか」


シルヴィアは黙って聞いていた。


互いの父の話を、初めてしていた。


家族の話。過去の話。閉店後の食堂で、茶杯を挟んで。


身分開示の夜に互いの立場を知った。宮廷の問題を共有した夜に、手を握り合った。


そして今夜——家族の傷を、初めて渡し合っている。


レナートが顔を上げた。


「お前の父が止めなかったのは——理由があったのかもしれない」


シルヴィアの指が、茶杯の上で止まった。


「止められなかったのではなく、止めなかった。——それは、信じていたということかもしれない」


声は低かった。断言ではなかった。可能性を差し出す声だった。


シルヴィアの胸の奥で、何かが動いた。


「止めなかった」という父の態度。それを「黙認」だと思っていた。無関心だと。あるいは、面倒を避けたのだと。


だが——「信じて送り出した」という可能性。


その言葉が、胸の奥に落ちた。


声には出さなかった。だが気づきが、表情に——ほんの少しだけ——浮かんだ。目の奥の硬さが、わずかに緩んだ。


レナートはそれを見た。


何も言わなかった。


茶杯に口をつけた。冷めた茶を、一口飲んだ。


窓辺の席。ランプの灯り。二つの茶杯。


秋の夜風が窓の隙間から入り、ランプの炎を細く揺らした。


翌朝。


レナートは一階に降りてきた。マルコが半歩後ろに続いている。


荷袋は既にまとめてあった。外套の襟を正し、食堂を見渡した。


シルヴィアは扉の脇に立っていた。


銀の鈴を布巾で磨いていた。いつもの動作。毎朝の手順。だが今朝はそれを、レナートの目の前でやっていた。


レナートがシルヴィアの前で立ち止まった。


「父上に報告する。お前の答えを」


声は低かった。


「——次に来るときは、正式な形になる」


シルヴィアの手が止まった。鈴を磨く手が。


「正式な形って何ですか」


声はいつもの温度だった。だがわずかに——ほんのわずかに、揺らいでいた。


レナートの目がシルヴィアを見た。


間があった。


「……お前に名前を呼ばれること。王宮でも。ここでも」


シルヴィアの手が止まったまま、動かなかった。


指の中で、銀の鈴が朝の光を受けていた。


それからまた動き出した。布巾が鈴の表面を滑った。ゆっくりと。丁寧に。


「……待っています、とは言いません」


声が小さかった。


「でも——鈴は磨いておきます」


レナートの喉が動いた。


何かを言おうとして——言わなかった。


頷いた。


扉を開けた。からん、と銀の鈴が鳴った。


秋の朝の光が食堂に差し込んだ。街道の先に、王都への道が伸びている。


レナートとマルコが馬車に乗り込んだ。


マルコが並んで座っている。馬車が動き出した。


街道を西へ。木々の色づいた枝の下を、車輪が石畳を刻んでいく。


マルコが口を開いた。


「あの人、強い人ですね」


レナートは窓の外を見ていた。


「ああ」


それだけ返した。


馬車が街道を進んでいく。クレーネの町が、ゆっくりと遠ざかっていった。


銀鈴亭。


シルヴィアは食堂に立っていた。


窓辺の席を拭いた。いつもの動作。布巾を絞り、テーブルの木目に沿って滑らせる。


それから食堂の奥に歩いた。


白い壁の前で立ち止まった。


手を伸ばした。指先が、漆喰の表面に触れた。


乾いていた。硬くて、冷たくて、ほんのわずかにざらついていた。自分の手で塗った壁。


あの人は行った。また行った。


でも今度は——何のために行くのか、二人とも知っている。


それだけで、前とは全部違う。


指先を壁から離した。


父が止めなかったのは——信じていたからかもしれない。


声に出さなかった。心の中だけで。


まだわからない。まだ形にはならない。


でも——その可能性が、昨夜からずっと、胸の底にある。


シルヴィアは厨房に入った。


今日の仕込みを始めた。鍋に水を張る。豆を戻す。包丁を取り出す。


手を動かす。今日も、明日も。


鈴は磨いた。あの人が帰ってくる日のために。


待つのではない。ここにいることを、選び続ける。


それだけのことだ。

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