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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第3章

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第7話「選ぶ権利」

シルヴィアは向かいの椅子を引き直した。座面の位置を整える。小さな動作だった。


閉店後の食堂。ランプの灯りが一つ。窓辺の席にレナートが座り、向かいにシルヴィアが座っている。


レナートは口を開いた。


「宮廷で、俺のクレーネ訪問について噂が立っている」


声は低かった。抑制されていた。だが言葉を選ぶ間がなかった。全部を渡すと決めた人間の、迷いのない声だった。


「近衛の編成記録から、俺が同じ町を繰り返し訪れていることが上官に伝わった。マルコが近衛内の噂は抑えたが、宮廷の文官にまでは手が届かない」


シルヴィアは黙って聞いていた。膝の上の手は握られたままだった。


「文官の一部が、クレーネの商人登録記録に関心を示している。外交使節の定例報告の中に、東部の通商状況を含めるよう宰相府から指示が出た。悪意ではない。だが——クレーネの商人登録記録が報告に含まれれば、お前の名前が目に入る」


シルヴィアの指が、膝の上できつく握られた。


商人登録名は「シルヴィア」のみ。姓は記載していない。だがレヴィアンスからの渡航記録と照合されれば——つながる。


それは、自分がここ数日、頭の中で何度も組み立てた筋道と同じだった。


「レヴィアンスの伯爵家のことも耳に入っている。お前の元婚約者の家は、回復の見込みがないそうだ」


シルヴィアの表情は変わらなかった。


「そうですか」


一言。それだけだった。


あの家のことは、もう何も響かない。回復しようと、凋落しようと、自分の帳簿の数字とは無関係だった。


レナートもそれ以上は触れなかった。


「俺は父上に——国王に、全てを打ち明けた」


シルヴィアの呼吸が止まった。


「お前のことを。元はレヴィアンスの侯爵家の出身であること。ヴァイスベルク家の令嬢であること。婚約を解消して他国に渡り、身分を伏せて宿を営んでいること。——俺が身分を明かした後に、お前自身が開示したこと」


指先が冷たかった。


心臓が速い。


国王が知っている。自分の身分を。自分の過去を。


「宮廷の文官が先に辿り着けば、お前の選択肢が奪われる。だから俺が先に伝えた。お前が自分で名乗れる形を作るために」


レナートの目がシルヴィアを真っ直ぐに見ていた。


「父上はこう言った。——『あの娘に会って、全てを話せ。あの娘が何を選ぶか聞いてこい。それを聞いてから、余は判断する』」


沈黙が落ちた。


長い沈黙だった。


ランプの炎が揺れた。窓辺の席のテーブルに、二人の影が揺れている。


シルヴィアの頭の中で、複数のものが同時に動いていた。


国王が自分の存在を知っている。元侯爵令嬢であることも。それは身分差の問題を解消する。平民ではなく侯爵家の令嬢であるならば、王子との婚姻は制度上の前例がある範囲に近づく。


だが同時に——「他国の貴族が身分を伏せて定住していた」という事実は、外交問題になる。


そして、もう一つ。


自分の身分が公になれば、銀鈴亭の「平民の宿屋」という立場が変わる。この宿で八ヶ月かけて築いた信頼が、「実は貴族だった」という事実によって書き換えられる。市場で既に始まっている、あの距離の変化が、さらに広がる。


レナートとの関係が公的に認知されれば、自分は「王子妃候補」として宮廷の目に晒される。


それは——また「誰かの家のために働く」立場に戻るということではないのか。


前世の記憶が、胸の奥で警告を鳴らした。


三年間、グレンの家の社交を回した。自分を消して、相手の家のために動いた。その結果が、あの夜会の一言だった。


宮廷に組み込まれれば、同じことが起きる。王子の妃として、王家のために動く立場になる。自分の宿を、自分の帳簿を、自分の手で積んだ全てを——手放すことになるのではないか。


だが。


シルヴィアは目の前のレナートを見た。


この人は、選ばせに来た。


国王の答えを持ってきたのではない。宮廷の決定を伝えに来たのではない。「お前が何を選ぶか聞いてこい」——その言葉を、そのまま持ってきた。


グレンは選択肢を奪った。婚約の三年間、シルヴィアに選ぶ余地はなかった。あの夜会で「君は妹ほど可愛くないね」と言ったとき、シルヴィアの意思は存在しなかった。


レナートは選択肢を渡しに来た。


その違いが——胸の中で、はっきりと輪郭を持った。


沈黙が続いていた。


レナートは待っていた。


急かさなかった。身分を明かしたあの夜、シルヴィアが「今夜はここまでにしてください」と言ったとき、レナートは何も言わずに席を立った。あのときと同じだった。結論を急がず、情報を全て渡した上で、相手の判断を待つ。


シルヴィアは口を開いた。


「一つだけ確認させてください」


声は静かだった。硬くはなかった。だが慎重だった。


「私が断ったら——あなたは、どうしますか」


レナートの目が動かなかった。


間があった。


「お前がここにいることは変わらない」


声が低かった。


「俺がここに来ることも変わらない。宮廷がどう動いても、この席は俺の帰る場所だ」


シルヴィアの視界がにじんだ。


まつ毛の縁に熱いものが溜まった。落ちなかった。


「……あなたは本当に、何も変わらないんですね」


声が震えた。震えを止められなかった。


身分を隠していたことを明かしたときも、この人は変わらなかった。元侯爵令嬢だと知っても、宿の女将として扱い続けた。そして今、宮廷の問題を全て抱えて、それでも「この席は帰る場所だ」と言った。


変わらない。


この人は、最初から何も変わっていない。


シルヴィアは息を吸った。深く。吐いた。


「私は、この宿を手放しません」


声が定まった。


「王子妃になるかどうかは、わからない。今は答えられない。でも——」


言葉を探した。正確な言葉を。


「あなたがここに帰る場所を、なくしたくない。それだけは確かです」


レナートの喉が動いた。


その目が揺れた。揺れて——定まった。


レナートの手が動いた。


テーブルの上を滑った。


シルヴィアの手に触れた。


手の甲ではなかった。


指が、指に触れた。


シルヴィアの指の間に、レナートの指が滑り込んだ。


温かかった。


シルヴィアの指が、握り返した。


初めてだった。手の甲が触れ合ったことはあった。どちらも引かなかったことはあった。だが指を絡めたのは、握り返したのは、初めてだった。


握り返す力は強くなかった。だが確かだった。離さないという意思の、静かな力だった。


ランプの灯りが、二つの手を照らしていた。テーブルの上で、指が絡んでいた。


この手だけは離さない。


まだ答えの全部は出せない。宮廷のことも、身分のことも、父のことも。全部はまだ、形になっていない。


でも——この手だけは。


沈黙が長く続いた。


ランプの炎が揺れ、影が動いた。窓辺の席の空気が、静かに満ちていた。


レナートが口を開いた。


「父上は、お前の答えを聞いてから、ヴァイスベルク侯爵に書簡を送ると言った」


シルヴィアの表情が変わった。


指の力が、一瞬だけ強くなった。


「父に……」


声が小さくなった。


ヴァイスベルク侯爵。父。


あの家を出てから、一度も連絡を取っていない。何も言わずに書類だけで全てを整えた人。婚約解消にも、越境にも、反対も賛成もしなかった人。


その父に、エルデシアの国王から書簡が届く。


シルヴィアの胸の奥で、何年も蓋をしていたものが揺れた。


怒り。感謝。寂しさ。それらが混在したまま、形にならないまま、胸の底で動いた。


レナートはシルヴィアの表情を見ていた。


何も言わなかった。


握った手を、離さなかった。


窓辺の席。ランプの灯り。閉店後の食堂。


二人の手がテーブルの上で重なっている。


選ぶ権利をくれた人の手が、そこにあった。

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