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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第3章

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第6話「追いついた過去」

私はかつて、三年間かけて他人の家を整えた。そのすべてを置いて、一人で国を越えた。


その事実は、もう痛みではなかった。傷跡のように、触れれば輪郭がわかるだけのものになっていた。


銀鈴亭。開業八ヶ月半の朝。


シルヴィアは食堂の扉を開け、朝の空気を入れた。秋が深まっていた。街道の木々が色づき始め、朝の風に枯葉の匂いが混じっている。


銀の鈴を布巾で拭いた。いつもの手順。毎朝の動作。


食堂に戻り、テーブルを拭いていく。一卓目。二卓目。三卓目。四卓目。五卓目。窓辺の席。


空席のまま、朝の光を受けている。


拭き終えて、厨房に入った。仕込みの準備。鍋に水を張る。豆を戻す。


通常営業の一日だった。


だが——市場で、あるいは食堂で、以前とは違うものが混じるようになっていた。


ゲルツ親方に「貴族の出身」だと認めてから、数日が経っていた。


親方は約束通り、取引を続けている。仕入れの量も条件も変わらない。だが市場での空気が、少しずつ変わっていた。


直接的な悪意はなかった。


誰かが面と向かって問い詰めてくるわけではない。指を差されるわけでもない。


ただ——囁きが増えた。


「あの宿の女将さん、実は貴族の出なんだって」


青果台の端で。乾物屋の裏手で。街道から来た商人の口から口へ。


シルヴィアの耳に直接入ることもあれば、入らないこともあった。だが空気でわかった。市場での視線が変わっていた。


以前は「商売熱心な女将さん」だった。


今は「貴族の出の女将さん」——その一語が、距離を生んでいた。


客足は落ちていなかった。銀鈴亭の食事を目当てに来る商人は、噂より味を信じる人間だった。宿泊の予約も変わらない。


だが食堂での雑談が減った。


常連の商人が、以前より一段硬い敬語で注文するようになった。「おかみさん、今日の煮込みは何だい」が「すみません、本日のお食事は何でしょうか」になっていた。


距離だった。


貴族の出だと知って、壁を一枚挟んだのだ。悪意ではない。むしろ礼儀なのだろう。だがその礼儀が、シルヴィアが八ヶ月かけて築いた「平民の仲間」としての信頼の上に、薄い膜を張っていた。


シルヴィアはいつも通りに食事を出した。いつも通りに帳簿をつけた。いつも通りに皿を洗い、テーブルを拭いた。


変えなかった。何も。


噂で変わるなら、最初からその程度の場所だったということだ。この宿は噂の上に建っているのではない。八ヶ月分の帳簿の数字と、毎日の仕入れと、鍋の火加減の上に建っている。


昼過ぎ。


市場から戻る道で、街道商人の会話が耳に入った。


「ハイゼンベルト家の嫡男、最近は屋敷から出てこないらしいぞ」


シルヴィアの足は止まらなかった。表情も変わらなかった。


あの家のことは、もう何も響かない。あの嫡男が屋敷に引きこもっていようと、社交が止まっていようと、自分の帳簿の数字には一銅貨の影響もない。


銀鈴亭に戻った。


閉店後。


最後の客が二階に上がり、食堂に静けさが降りた。


テーブルを拭いて回る。椅子を整え、皿を重ねる。ランプを一つだけ残す。


帳簿を棚から出した。今日の収支を記入する。宿泊費。食事代。仕入れの支出。


ペンを走らせながら、意識の隅で市場の空気を反芻していた。


噂は広がっている。まだ「ヴァイスベルクの令嬢」と「銀鈴亭の女将」が完全に結びついたわけではない。だが点と点の距離は縮まっている。


時間の問題だ。


帳簿を閉じた。


棚に戻そうとして——手が止まった。


八ヶ月分の帳簿。この厚みの全部が、自分の手で書いた数字だ。肩書きとは無関係の、仕入れと売上と支出の記録。


この数字を、噂は消せない。


帳簿を棚に戻した。


立ち上がった。


そのとき——


からん、と銀の鈴が鳴った。


閉店後に鳴る鈴。


シルヴィアの体が止まった。


振り返った。


食堂の扉の前に、人影が立っていた。


秋の夜の冷気が、開いた扉から流れ込んでいた。ランプの灯りが揺れ、影が食堂の床を滑った。


レナートだった。


呼吸が止まった。


心臓が跳ねた。思考より先に、体が反応していた。


レナートは扉の前に立っていた。半歩後ろにマルコ。


装いが違った。遊歴時代の旅装ではない。上質な布地の外套。肩の線がきちんと出ている。だが王家の紋章は外してあった。正装に近いが、正装そのものではない。


王子として来た。だが王子の名を掲げずに来た。


シルヴィアの目がそれを読み取った。侯爵家の令嬢だった自分には、装いの意味がわかる。


目が合った。


静かな目だった。真っ直ぐで、揺れのない目。だがその奥に、あの食堂で茶を飲んだ夜と同じ温度があった。


「……また来たんですね」


声は震えなかった。


平坦だった。いつもの声だった。


だが——帳簿を閉じる手の力が、いつもより強かった。棚に戻したばかりの帳簿の背表紙を、指が押さえていた。手放すまいとする力だった。


帳簿を。この八ヶ月分の全部を。自分の手で積んだものの全部を。


レナートは食堂に一歩踏み込んだ。


「ああ」


低い声。簡潔な返答。あの日と同じ。


なのに——その一言の中に、前回とは違うものがあった。覚悟の重さだった。


マルコが半歩遅れて食堂に入った。からん、と鈴がもう一度鳴った。マルコはシルヴィアに軽く頭を下げた。


「夜分に失礼します」


「いらっしゃいませ」


声を整えた。整えられた。


レナートは食堂の中を見渡した。五つのテーブル。白い壁。ランプの灯り。


窓辺の席に向かった。


荷袋を椅子の脇に置いた。あの席に。


シルヴィアはその背中を見ていた。


あの席にあの人が座る。遊歴の旅人として座った日があった。国王名代として座った夜があった。


今夜のレナートの背中には、そのどちらとも違う硬さがあった。


マルコが二階への階段に目をやった。


「自分は二階で待機します」


レナートが頷いた。マルコは一礼して階段を上がっていった。


食堂に二人。


レナートが窓辺の席に座った。


シルヴィアは帳簿を棚から離した手をそのまま下ろし、食堂の中に立っていた。


カウンターの内側に入るか、向かいの席に座るか。


向かいの椅子を引いた。


座った。


テーブルを挟んで、レナートと向かい合う。ランプの灯りが一つ。閉店後の食堂。


レナートの目がシルヴィアを見ていた。


「話がある」


声は低かった。


「全部——今度こそ、全部話す」


シルヴィアの指が、膝の上で握られた。


レナートの目の奥にあるもの。それは身分を明かしたあの夜の慎重さとは違っていた。あのときは、言葉を一つずつ選んでいた。


今夜は違う。


全部を渡しに来た人間の目だった。


シルヴィアは立ち上がりかけて、やめた。茶を淹れようとしたのだ。だが今は、そうすべき時間ではなかった。


椅子に座り直した。


「聞きます」


一言。


レナートの喉が動いた。


ランプの灯りが揺れた。窓辺の席のテーブルに、二人の影が落ちていた。


閉店後の時間が、始まった。

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