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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅


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第3話「歯車が一つ」

シルヴィアは市場の青果台の前で、セロリの束を手に取った。


茎を指で弾く。 張りがある。葉の色も悪くない。


「これと、人参を六本。あと乾燥ローリエがあれば」


「ローリエなら奥の棚だよ。昨日入ったばかりだ」


青果の主人が顎で示した方へ歩きながら、シルヴィアは頭の中で今週の献立を組み立てていた。


宿の経営が、少しずつ形になり始めている。


ゲルツ親方からの肉の仕入れは安定した。街道を行く商人たちの間で「クレーネに飯のうまい宿がある」という話が、ぽつぽつと広がっているらしい。先週は一晩に三組の客が泊まった。開業から一ヶ月半。まだ余裕はないが、帳簿の数字は少しずつ上向いている。


ローリエの束を手に取り、乾き具合を確かめる。 香りが立つ。悪くない。


「おかみさん、聞いた?」


隣で干し果物を選んでいた女が、声をかけてきた。 市場でよく顔を合わせる仕立屋の女房だ。


「レヴィアンスの伯爵家が、婚約し直したんだって。なんでも、前の婚約者を追い出して妹と婚約したとか」


シルヴィアの手は止まらなかった。 ローリエの束を籠に入れ、銅貨を数える。


「ああ、そう」


「ひどい話よねえ。前の婚約者はずいぶん有能な方だったらしいのに」


「そうですか」


それだけ言って、シルヴィアは代金を青果台に置いた。


女はまだ何か言いたそうだったが、シルヴィアは軽く会釈して歩き出した。


街道沿いの並木を歩く。 籠の中で野菜が揺れる。


怒りはない。悲しみもない。


ただ一瞬だけ、足が重くなった。 三年間という時間の重さ。それが無意味だったとは思わない。あの三年間で身につけた社交実務の力は、今この宿を回す土台になっている。


けれど、あの三年間に自分がいた場所は——最初から、自分の場所ではなかった。


それだけのことだ。


足を動かす。 宿に戻ろう。今日の仕込みが待っている。



レヴィアンス王国、ハイゼンベルト伯爵家の屋敷。


広間には長テーブルが据えられ、その上に封筒の束が散らばっていた。


グレンは椅子に腰かけ、その束を眺めていた。 祝賀夜会の招待状。自身とリゼットの婚約を正式に披露するための催しだ。


「兄さま、わたしがやります」


リゼットが駆け寄り、封筒の一つを手に取った。 細い指で封蝋を確かめ、宛名を覗き込む。


「ヴァイスベルク侯爵家へのお招きの書状、こちらでよろしいですか?」


グレンは微笑んだ。


「ああ、頼むよ。リゼットが手伝ってくれると助かる」


リゼットは嬉しそうに頷き、羽ペンを取った。


宛名を書き始める。 だが三行目で、ペンが止まった。


「兄さま……ヴァイスベルク侯爵家のご当主は、なんとお呼びすればよいのでしたか。『侯爵閣下』でよろしいのかしら」


グレンは一瞬だけ眉を寄せた。


「『閣下』は公爵家以上だ。侯爵家には『侯爵様』か、書簡の場合は敬称の書式がある」


「まあ、そうでしたの。では——」


リゼットは書き直した。 だが今度は封蝋の位置が慣例と違った。


グレンはそれに気づかなかった。


使用人の老執事が一歩前に出かけ、口を開きかけたが——グレンもリゼットも顔を上げないのを見て、唇を引き結び、一歩下がった。


以前なら、こうした段取りのすべてを一人で仕切る人がいた。 各家の序列、過去の贈答履歴、席順の慣例、封蝋の色の使い分け。 その人がいなくなった今、この屋敷には誰一人として全体を把握している者がいなかった。


グレンは使用人に指示を出した。


「招待状は明日までに全て発送しろ。各家への贈答品の手配も忘れるな」


「かしこまりました。……恐れながら、贈答品の選定はどなたのご判断を仰げばよろしいでしょうか」


「適当に見繕え。去年と同じでいいだろう」


去年の贈答品を選定したのも、シルヴィアだった。 使用人はそれを知っていた。だが何も言わず、頭を下げた。


夜会の当日。


広間には燭台が並び、楽士が弦を鳴らし、各家の当主や令嬢が集った。


形式上は、成功だった。 料理は並び、酒は注がれ、音楽は途切れなかった。


だが。


ランベルク子爵家の当主が、席順を確認して眉をひそめた。 自家の席がオルテガ男爵家の下座に配置されている。二年前のヴァイスベルク家との婚姻仲介の恩を考慮すれば、あり得ない配置だった。


ヴェルナー侯爵家への贈答品は、去年と全く同じ銀食器の組み合わせだった。 去年すでに贈ったものと重複していることに、受け取った侍女が気づいて小さく目を見張った。


夜会の後。 帰路の馬車の中で、二つの家の夫人が言葉を交わした。


「以前とは随分、段取りが変わりましたわね」


「ヴァイスベルクのお嬢様がいらした頃は、あのような粗はなかったのですけれど」


その声はグレンの耳には届かない。


グレンは広間の中央で、リゼットの手を取って微笑んでいた。 夜会は成功した。そう信じていた。



クレーネ。夕刻。


シルヴィアは市場からの帰り道、宿の前でレナートと鉢合わせた。


レナートは宿の外に立っていた。 外套は着ていない。散歩に出ていたのか、少しだけ頬に血色がある。


シルヴィアの手には食材の入った籠。 レナートの視線が、籠の中身に落ちた。


鶏肉。ローズマリー。にんにく。檸檬。


「……今日は、何を作る」


シルヴィアは一瞬、目を瞬いた。


それは宿の食事についての問い合わせではなかった。 献立を尋ねるにしては、声が低すぎた。 何かを確認するような、あるいは——ただ聞きたかっただけのような。


「鶏のハーブ焼きです」


答えると、レナートの目がかすかに変わった。 見開いたわけではない。光が入った、という方が近い。


「そうか」


それだけ言って、レナートは宿の扉を開けた。 からん、と銀の鈴が鳴る。


シルヴィアはその背中を見送り、それから自分も中に入った。


厨房に籠を置く。 鶏肉の下処理を始める。


何を作る、とあの人は聞いた。 メニューを聞いたのではない。あの聞き方は、もっと単純なものだ。


食べるのが楽しみだ、という意味の問いだった。


たぶん。


シルヴィアは鶏肉にローズマリーを擦り込みながら、小さく息をついた。


深く考えない。客が食事を楽しみにしている。それは宿屋として喜ばしいことだ。それ以上の意味はない。


夕食の時間。


レナートは窓辺の席で鶏のハーブ焼きを食べた。 一口目の、あの間。目を細める仕草。


そして今日は、食べ終えた後に。


「美味かった」


声に出して言った。


シルヴィアは皿を下げに行く手を、一瞬だけ止めた。


これまで、レナートが食事の感想を口にしたことはなかった。 皿が空になること。パンの欠片一つ残さないこと。それが彼の評価だと思っていた。


声に出す必要がないはずの言葉を、声に出した。


シルヴィアは皿を持ち上げ、「ありがとうございます」と短く返した。


それだけだった。


レナートは席を立ち、二階に上がっていった。 マルコが後に続く。


食堂に一人残って、シルヴィアは皿を洗った。


湯気の中で、手を動かしながら考える。


あの人がいなくなった場所で、別の誰かが招待状を書き間違えている。 市場の噂はそういうことだ。


過去は確かに存在した。 三年間、あの家の歯車として回り続けた時間は現実だった。


でも、あの場所にはもう自分の席はない。


それは痛みではなく、静かな確認だった。 水の底に沈んだ石を、上から覗き込むような感覚。


確かにそこにある。 けれど、もう手は届かない。届かせる気もない。


皿を拭き、棚に戻す。


明日の仕込みは羊肉の煮込みにしよう。 ゲルツ親方が取っておいてくれるはずだ。


シルヴィアは厨房の火を落とし、食堂のランプを一つ残して灯りを絞った。


窓辺の席。 レナートが座っていた椅子が、今日もきちんと元の位置に戻されている。


——美味かった。


その一言が、まだ耳に残っていた。

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