第4話「休業日の理由」
休んでいいのは、休んでも回る仕組みがある人間だけだ。
シルヴィアは寝台の上で目を開けた。 窓の外はまだ薄暗い。週に一度の休業日。本来なら、少しは長く眠っていい朝だ。
体が重い。
起き上がると、指先がわずかに痺れていた。 ここ数日、仕込みと接客と帳簿と掃除を一人でこなし続けた疲労が、休業日になって一気に表に出たのだろう。
構わない。
足を床につけ、立ち上がる。 着替えて厨房に入り、まずは水を汲む。火を起こし、湯を沸かす。
休業日は仕込みと帳簿整理に充てる。 明日からの三日分の煮込みの下準備。乾燥豆の選別。調味料の在庫確認。それから帳簿を月末の集計に向けて整える。
一人で回す宿には、休みの日こそやることがある。
包丁を握る。 玉葱を縦に割る。
——手が、震えた。
小さな震え。力が入らないのではなく、筋が疲労しているのだ。 毎日、朝から晩まで包丁を握り、鍋を持ち上げ、水を運び、床を磨いてきた手。
シルヴィアは震える手で包丁を握り直し、玉葱を刻み始めた。
少し雑になった。 いつもなら均一に揃う厚さが、今日はばらついている。
味見をする。 舌の上で味が広がるのが、いつもよりぼんやりしている。
疲れているのだ。 わかっている。
認めたところで、代わりに厨房に立つ人間はいない。
手を動かし続ける。
◇
銀鈴亭の二階、廊下。
レナートは階段を降りかけて、足を止めた。
食堂にいつもの気配がなかった。 皿は並んでいない。ランプも点いていない。朝の陽光だけが、誰もいないテーブルの上に落ちている。
厨房の奥から、包丁がまな板を叩く音だけが聞こえた。
声をかけようとして、やめた。
そのまま裏口から外に出た。
通りに出たところで、マルコが追いついてきた。
「今日は休業日だそうですよ。掲示板に出ていました」
レナートは何も言わなかった。
数秒。
踵を返した。
歩き出す。 町の中心に向かう通りを、いつもより早い足取りで。
マルコは半歩後ろからついてくる。 レナートの背中を眺め、その足取りが普段と明らかに違うことを認めた。
重い。 というより、行き先を失った足だった。
レナートは通りの角で足を止めた。 何を見るでもなく、通りの先を眺めている。
マルコは隣に並ぶのではなく、半歩後ろのまま口を開いた。
「飯の問題じゃないでしょう、それ」
独り言のような声だった。
レナートは振り返らなかった。 ただ、歩き出した。来た道を戻るのではなく、町の外周に向かう道を選んだ。
あの宿が閉まっている。 それだけのことで、この町にいる理由がわからなくなる。
おかしな話だ。 町には市場があり、酒場があり、街道沿いの他の店もある。食事ならどこでもできる。
なのに、足がどこにも向かない。
レナートは自分の中のその感覚に名前をつけられなかった。 つけたくなかった。
一人の宿屋の女将に、ここまで足を引かれるのは——客として、おかしい。
理性がそう告げている。 だが、理性は足を軽くしてくれなかった。
◇
翌朝。
銀の鈴が鳴ったのは、シルヴィアが厨房の火を入れて間もなくのことだった。
扉が開く。
レナートだった。
開店の札を出したばかりの、朝一番。 まだ他の客の姿はない。
シルヴィアはカウンターから顔を上げた。
「早いですね」
レナートは窓辺の席に真っ直ぐ歩き、椅子を引いた。
「別に」
短い声。 座って、外套を椅子の背にかける。
表情はいつもと変わらない。 変わらないが、席に座った瞬間にわずかに肩の力が抜けたのを、シルヴィアは見た。
朝食の支度をする。 昨日の休業日に仕込んでおいたパン生地を焼き、卵を割り、ソーセージを鉄鍋で焼く。
包丁を握る手は、まだ少し震えている。 昨日一日の休業日では、疲労は完全には抜けなかった。
パンをスライスする。刃が滑って、厚みが不揃いになる。 シルヴィアは唇を引き結び、次の一切れで修正した。
皿に盛りつけて運ぶ。
「どうぞ」
レナートはフォークを取った。 卵を一口。パンを一切れ。ソーセージ。
いつもの順番だった。 一口目の、あの間。目を細める仕草。
食べ進める。黙々と。
シルヴィアはカウンターに戻り、帳簿を開いた。 昨日の休業日に途中まで整理した数字の続き。ペンを取り、数字を記入していく。
食事の音が規則正しく響く。 銀鈴亭の朝の、いつもの空気。
ふとレナートの視線が、シルヴィアの手元に向いた。
帳簿を書くペンを持つ手ではない。 カウンターの縁に添えた左手。その指先が、かすかに震えている。
包丁を握ったときの震えが、まだ残っていた。
レナートは何も言わなかった。
視線を皿に戻し、残りの食事を食べた。 パンの最後の一切れまで。卵の端まで。一欠片も残さず。
空になった皿をしばらく眺めてから、レナートは立ち上がった。
「……明日も来る」
その声は、いつもの「一泊頼む」や「もう少し泊まりたい」とは違っていた。
宣言ではない。 約束でもない。 ただ、そうすると決めたことを、自分自身に確認するような声だった。
シルヴィアは帳簿から顔を上げた。
「お待ちしています」
宿屋の主人としての返答。それ以上でもそれ以下でもない。
レナートは頷き、階段を上がっていった。
シルヴィアは空の皿を見つめた。
一欠片も残っていない皿。 きちんと揃えられたフォークとナイフ。
この人は毎回こうだ。 食べたものへの敬意なのか、作った人間への配慮なのか。
どちらにしても——律儀な客だと思う。
皿を下げ、厨房で洗う。 湯の中に手を沈めると、震えが少しおさまった。
明日も来る、とあの人は言った。
それは客が宿に来ると言っただけのこと。 特別な意味はない。
なのに、空の皿を見つめたあの数秒、胸の奥で何かが温かくなったのは——気のせいだろう。
◇
レヴィアンス王国、ハイゼンベルト伯爵家。
グレンは書斎の机に向かっていた。
目の前に、封蝋のついた返書が一通。 ヴァイスベルク侯爵家からの返答。
開封する。
一行だった。
『お嬢様はもう当家の社交代理人ではありません。ご用件は当家の文官を通じてお伝えください。』
グレンの指が、紙の縁で止まった。
社交代理人。
その言葉が引っかかった。 シルヴィアに協力を頼んだのではない。ヴァイスベルク侯爵家に、社交上の助力を——つまり、以前のようにシルヴィアを通じた人脈の橋渡しを——依頼する書簡を送ったのだ。
返答は、たった一行。
グレンは返書をゆっくりと机に置いた。
「……使用人を増やせば済むことだ」
呟いた声は、自分でも思ったより小さかった。
席を立ち、窓の外を見る。 庭の薔薇は手入れが行き届いている。屋敷は整っている。何も変わっていないように見える。
変わったのは、目に見えない部分だ。
夜会の後、二つの家から社交秘書官への問い合わせがあった。 「次の会合の段取りについて、以前のようにヴァイスベルク令嬢を通じて伺えないか」と。
以前のように。
あの頃、それがシルヴィアの手によるものだとは思っていなかった。 当然のように回っていた歯車。油を差し、調整し、滞りなく動かしていたのが誰だったか。
グレンは窓から背を向け、書斎を出た。
廊下でリゼットとすれ違った。
「兄さま、どうなさったの? 難しいお顔をしていらして」
リゼットが小首を傾げる。 グレンは微笑んだ。
「何でもないよ。少し、考え事をしていただけだ」
リゼットは安心したように笑い、グレンの腕に手を添えた。
「夕食はご一緒してくださいますか?」
「ああ、もちろん」
グレンはリゼットの頭にそっと手を置いた。
大丈夫だ。 使用人を増やせばいい。他の家に協力を頼めばいい。 シルヴィアがいなくても、回る。回せる。
そう思った。
書斎の机の上には、たった一行の返書が残されていた。 その短さが何を意味するのか、グレンはまだ気づいていなかった。




