第2話「名前のない常連」
「もう一泊、いいか」
レナートの低い声が、朝の食堂に落ちた。
シルヴィアは食器棚から皿を出す手を止めず、「ええ、もちろん」と返した。
一泊のはずだった。 それが二泊になり、三日目の朝を迎えている。
レナートは窓辺の席に座っていた。 昨日と同じ席。一昨日と同じ席。迷いなくそこを選ぶ。 朝食の皿はすでに空で、パンの欠片も残っていない。
シルヴィアは空の皿を下げながら、視界の端でマルコの動きを捉えた。
食堂の入口近く、壁を背にした席。 マルコは椅子に座っているだけなのに、その姿勢には隙がなかった。背筋は自然に伸び、両手はテーブルの上に出ている。足は組まず、いつでも立てる角度で床についている。
食事中でさえ、スプーンを持たない方の手がテーブルの縁に添えられていた。
あれは習慣だ。 長い年月をかけて身体に染みついた、訓練された人間の所作。
宿を訪れた初日に気づいていた。 今朝、それが確信に変わった。
マルコが席を立つとき、椅子を引く音がしなかった。 体重の移動だけで立ち上がり、足音を殺して歩く。あの体格で。
元軍人か、護衛。 おそらく後者。
護衛をつけて旅をする人間。 姓を名乗らない青年。
シルヴィアは皿を厨房に運びながら、頭の中で事実を整理した。
——だとしても、私が詮索する理由はない。
私だって身元欄は空白にしたい側の人間だ。 相手の事情に踏み込まないことは、礼儀であると同時に、自分を守ることでもある。
厨房で皿を洗い、昼の仕込みにかかる。 玉葱を刻み、鍋に油を引く。
三日連続で、あの青年は食事を全て平らげた。 初日のシチューも、二日目の焼き魚も、今朝のパンと卵焼きも。
食べ方には癖がある。 最初の一口で止まる。ほんの一瞬。 それから二口目以降は淡々と食べ進めるのだが、最初の一口だけ、わずかに目を細める。
味を確かめているのか。 それとも、別の何かなのか。
どちらでもいい。客が残さず食べてくれるなら、作った側として悪い気はしない。
昼過ぎ。
食堂に人気はなく、シルヴィアはカウンターで帳簿を開いていた。
マルコが階段を下りてきた。 レナートの姿はない。部屋にいるのだろう。
「少し、お時間よろしいですか」
マルコは穏やかな声でそう言い、カウンターの前に立った。
「どうぞ」
シルヴィアはペンを置いた。
マルコは一瞬だけ二階への階段を振り返り、それからシルヴィアに向き直った。
「主人は無愛想に見えると思いますが」
唐突な切り出しだった。
「ここの料理をえらく気に入っているようです。あの男が食事のたびにあんな顔をするのは、長い付き合いの中でも記憶にない」
「あんな顔、ですか」
「気づいておいででしょう。一口目の、あれです」
シルヴィアは数秒、黙った。
「お客様が美味しく召し上がってくださるなら、ありがたいことです」
それ以上は踏み込まなかった。
マルコも深追いしなかった。 ただ小さく頷き、「良い宿ですね」と言って二階に戻っていった。
その足音は、やはりほとんど聞こえなかった。
長い付き合い、とマルコは言った。 主人、とも言った。 雇い主の食事の好みを把握し、その変化に気づく程度には近しい関係。
従者。 それも、ただの旅の供ではない。
シルヴィアは帳簿に目を戻した。 ペンを取り、今日の支出を記入する。
この帳簿には、三日前にはなかった収入の行がある。 宿泊費。二名分。三泊目。
客の少ないこの宿で、連泊してくれる客は正直ありがたい。 だが、素性の知れない客を置き続けるのはリスクでもある。
天秤にかける。
害意はない。 三日間、マルコは宿の設備に一切手を触れず、レナートは食堂と部屋を往復するだけだ。他の客——といっても昨夜は一人だけだったが——との揉め事もない。
そして何より、護衛がいるということは「守るべき理由がある人間」だということ。 つまり、少なくとも自分からは厄介事を起こさない側の人間である可能性が高い。
それで十分だった。
夕方。
シルヴィアは夕食の支度をしながら、レナートが食堂に降りてくるのを待った。
待った、というのは正確ではない。 夕食の時間に客が来るのは当然だ。準備をするのは宿の主人として当たり前のことで、特定の誰かを待っているわけではない。
日が落ちて、ランプに火を入れた頃。
階段を降りる足音が二つ。
レナートは迷いなく窓辺の席に着いた。 マルコがその向かいに座る。
シルヴィアは今日の夕食——鶏肉と根菜の煮込み——を運んだ。
レナートがスプーンを取る。 一口。
あの、わずかな間。 目が細くなる。
それからいつものように、黙々と食べ進めた。
シルヴィアはカウンターに戻り、帳簿の続きに取りかかった。
食事が終わる頃。
「——女将」
レナートの声だった。 シルヴィアが顔を上げると、レナートは空になった皿の前に座ったまま、こちらを見ていた。
「もう少し、泊まりたい」
短い言葉。 表情は相変わらず乏しい。だが、言葉を選んでいる気配がわずかにあった。
「長期のご滞在でしたら、週単位の割引をご用意できます。一泊ずつよりはお得になりますが」
事務的に答えた。 宿の主人として当然の提案だ。
レナートの返答は、すぐには来なかった。
沈黙が落ちる。
一秒。二秒。
レナートの右手の指先が、こつ、とテーブルを叩いた。 無意識の仕草。小さな音。
「……頼む」
その声はいつもより低かった。
シルヴィアは「承知しました」と答え、帳簿に新しい行を書き加えた。
レナートが立ち上がり、二階に向かう。 マルコが後に続く。
マルコの視線が一瞬だけレナートの右手——さっきテーブルを叩いた指先——に留まった。 それからすぐに前を向き、何も言わず階段を上がっていった。
食堂に一人。
シルヴィアは帳簿を広げ直した。
宿泊者名簿の頁を繰る。 レナートの欄。名前の横。
身元——空欄。
ペンを手に取り、その空欄の前で止まった。
書くべきことがあるわけではない。 知らないのだから、書きようがない。
聞くこともできる。 宿帳に身元を記載するのは、この町の商人ギルドの規則で推奨されている。義務ではないが、聞いて不自然ではない。
けれど。
シルヴィアはペンを下ろした。 帳簿を閉じた。空欄のまま。
私も、聞かれたくないことがある。 ならば、聞かない。
それが対等というものだ。
ランプの火が揺れる。 食堂に残る、わずかな煮込みの匂い。 きちんと元の位置に戻された、窓辺の椅子。
距離がある。 名前は知っている。けれど、それだけだ。
それなのに、この食堂の空気は三日前とは違う。
不快ではない。 ただ、他人がいる気配に慣れ始めている自分がいる。
それが何を意味するのか、シルヴィアはまだ考えない。
ランプの芯を短くし、帳簿を棚に戻す。 明日の仕込みの段取りを頭に並べながら、蝋燭を一本だけ残して火を落とした。
閉店後の食堂。 薄い灯りの中に、自分の影だけが伸びている。
——明日もあの人は、あの席に座るのだろうか。
そんなことを考えた自分に気づいて、シルヴィアは小さく息をついた。
「客が来るなら、仕込みを増やすだけのことだ」
呟いて、最後の蝋燭を吹き消した。




