第1話「銀の鈴が鳴る」
からん、と鈴が鳴った。
小さな銀の鈴。 宿の入口の扉に取りつけた、たった一つの飾り。
朝の光が差し込む食堂に、その音だけが転がる。 客のいない、静かな朝だった。
シルヴィアは音を背中で聞きながら、棚から白い皿を取り出した。 五枚。今日の予約はない。それでも五枚並べる。
「備えておいて損はない」
誰に言うでもなく呟いて、布巾で一枚ずつ拭いていく。
宿屋「銀鈴亭」。 エルデシア王国東部、交易街道沿いの町クレーネ。 開業して一ヶ月。客足はまばらで、一日に泊まる客が一人いればいいほうだった。
皿を並べ終えると、帳簿を開く。 銅貨の出入りを細かく記した頁。仕入れ、薪代、蝋燭、修繕費。 自分の字が並ぶそれを眺めるたびに、妙な安堵がある。
これは私の帳簿だ。 私の名前で、私の金で、回している宿の記録だ。
——以前は、他人の家の帳簿ばかりつけていた。
ペンを持つ手が、一瞬だけ止まる。
三年間。 招待状の宛名を間違えないように。贈答品の格が失礼にならないように。夜会の席順で誰も不快にならないように。 伯爵家ハイゼンベルトの社交を、実質ひとりで回していた。
婚約者の家のために。 婚約者であるグレンのために。
シルヴィアは帳簿に視線を戻し、昨日の仕入れ分を書き足した。 鶏肉、銀貨一枚と銅貨三枚。根菜の束、銅貨五枚。
あの夜のことを思い出すのに、もう感情は要らない。
夜会の席だった。 グレンが、隣にリゼットを座らせていた。 婚約者である自分ではなく、異母妹を。
それだけなら、まだよかった。
「君は妹ほど可愛くないね」
グレンの声は穏やかだった。 悪意すらなかった。ただ思ったことを口にしただけという、あの柔和な笑み。
シルヴィアはそのとき、怒りよりも先に既視感を覚えた。
——ああ、また同じことを繰り返すところだった。
前の人生でも、似たような男に時間を使った。 尽くして、合わせて、相手の形に自分を削って。 最後に残ったのは、何もない自分だけだった。
二度目は、ない。
あの夜のうちに婚約解消届の書面を準備した。翌日、実家に赴いた。父の前に書面を置き、署名を求めた。
父は何も聞かなかった。 娘の目を見て、黙って羽ペンを取った。
グレン家への署名要請は父を通じて行われた。伯爵家の当主は、自分の息子があの夜会で何を言ったか、すでに把握していたのだろう。数日で署名が届いた。
王都の公文書館に届を提出し、受理された日。 シルヴィアは空を見上げた。 泣かなかった。泣く理由がなかった。
三年という時間は戻らない。 けれど、これから先の時間を同じ場所で浪費する義務もない。
越境の準備に二週間。 出発前に実家へ手紙を一通。
「エルデシアで商いを始めます」
それだけ書いた。 父からの返事は、なかった。止めもしなかった。
帳簿を閉じる。
シルヴィアは立ち上がり、厨房に入った。 今日の仕込みは野菜のシチュー。寸胴鍋に水を張り、薪に火をつける。根菜の皮を剥きながら、頭の中では午後の予定を組み立てている。
市場で明日の食材を見る。肉屋のゲルツ親方と価格の交渉。塩の在庫がそろそろ心許ない。
一人で全部やる。 仕込みも、掃除も、接客も、帳簿も。 体は正直にきつい。朝は日の出前に起き、夜は帳簿を閉じるまで蝋燭を灯す。
それでも、この疲労は自分のものだ。 誰かの家のための消耗ではない。
午後、市場に出た。
クレーネの市場は小さいが活気がある。街道を行き交う商人が物資を運び、季節の野菜が木箱に山積みになっている。
肉屋のゲルツ親方は、五十がらみの厳つい男だった。 シルヴィアが店先に立つと、腕を組んで見下ろしてくる。
「またあんたか。嬢ちゃん一人で宿なんか回して、いつまでもつかね」
「先週の鶏肉、脂の乗りが甘かった」
シルヴィアは挨拶の代わりにそう言った。
「今の時期、穀物飼いの鶏はもう少し胸肉に脂が入るはずです。仕入れ先を変えたでしょう」
ゲルツの眉が動いた。
「……なんでわかる」
「切ったときの断面が違う。繊維の入り方を見れば、飼料が変わったくらいはわかります」
沈黙が落ちた。 ゲルツは腕をほどき、奥の棚から別の肉の塊を持ってきた。
「こっちだ。前と同じ農場のやつ。言っとくが値は同じだぞ」
「結構です。品質が戻るなら」
銀貨を置く。ゲルツは黙ってそれを受け取った。
「……あんた、どこで覚えたんだ、そういうの」
「長く台所に立っていれば」
嘘ではない。ただ、この世界の台所だけで覚えたわけでもない。前の人生で身についた知識の断片が、こういうとき役に立つ。
ゲルツは鼻を鳴らしたが、その目にさっきまでの侮りはなかった。
「明後日、いい羊が入る。要るなら取っておくが」
「お願いします」
小さな信頼。 一つずつ積む。それしかない。
宿に戻ると、日が傾きかけていた。
シチューの鍋をかき混ぜ、塩を足す。香草を刻んで最後に散らす。 味見をして、頷く。悪くない。
食堂の椅子を整え、カウンターを拭き、ランプの芯を確かめる。
誰も私を知らない場所で、私は私の名前で立っている。
孤独だ。 けれど、この孤独は自分で選んだものだ。
それだけで、三年間のどの夜会より、息がしやすい。
夕暮れ。 日が落ちる少し前。
からん、と鈴が鳴った。
扉を開けて入ってきたのは、二人連れだった。
先に入ったのは青年。 外套の埃を軽く払い、食堂を一度見渡す。 背が高い。髪は暗い栗色。表情は乏しく、目だけが静かに動いた。
半歩後ろに、がっしりとした体格の男。 年は三十ほどだろうか。穏やかな顔立ちだが、足の運びに無駄がない。扉をくぐる際、一瞬だけ背後を確認した。
シルヴィアはカウンターの内側から声をかけた。
「いらっしゃいませ。お泊まりですか」
「一泊、頼む」
青年の声は低く、簡潔だった。 視線がシルヴィアに向く。数秒。何かを測るような目。
「お二人で一部屋と、二部屋、どちらにされますか」
「二部屋で」
後ろの男が穏やかに答えた。
「隣同士の部屋をお願いできますか」
「承知しました。二階の奥に二部屋空いています。食事はつけますか」
「頼む」
青年が短く答えた。
宿帳を開く。 青年はペンを取り、名前の欄に四文字だけ書いた。
レナート。
姓はない。身元欄は空白。 シルヴィアは一瞬だけそこに目を留めた。
後ろの男がペンを受け取り、同じように名前だけ書く。
マルコ。
同じく、姓なし。身元欄、空白。
シルヴィアは宿帳を引き取り、何も聞かなかった。
「お部屋にご案内します。食事は日が落ちてからで構いませんか」
「ああ」
二人を二階へ案内する。 階段を上がる際、後ろの男——マルコの足音が、ほとんどしないことに気づいた。
体格からすれば、階段は軋むはずだ。 なのに、まるで重心を散らすことに慣れているかのような歩き方。
護衛の歩き方だ。
シルヴィアは気づいた顔をしなかった。 部屋の鍵を渡し、「何かあればお声がけください」とだけ言って、階段を下りた。
厨房に戻る。
護衛をつけて旅をする人間。 姓を名乗らない客。
——だとしても、私が詮索する理由はない。
鍋の蓋を開け、シチューの様子を見る。
私だって、宿帳の身元欄を空白にしたい側の人間だ。
日が落ちた。
食堂のランプに火を入れ、テーブルに皿を並べる。 シチューを深皿によそい、焼きたてのパンを籠に盛る。
二人が降りてきた。
青年——レナートは窓辺の席に座った。迷いのない動きだった。マルコはその向かいに腰を下ろし、姿勢がいい。
シルヴィアはシチューとパンを運んだ。
「どうぞ。お口に合えばいいのですが」
レナートは無言でスプーンを取った。 シチューを一口、含む。
その瞬間。
無表情だった顔に、かすかな変化が走った。 目がわずかに見開かれ、スプーンを持つ手が一瞬止まり——そしてすぐに二口目をすくった。
シルヴィアはそれを見た。
見たが、意味は深く考えなかった。 客が食事を口に運んでいる。それだけのことだ。
カウンターに戻り、翌日の仕込みの段取りを頭の中で組む。
背後で、スプーンが皿に当たる音が規則正しく続いていた。 パンをちぎる音。シチューをすくう音。
食堂に、静かな食事の音だけが満ちる。
やがて音が止んだ。 振り返ると、レナートの皿は空だった。 パンの籠も、一欠片も残っていない。
マルコが小さく笑った。
シルヴィアは空の皿を下げに行った。
「お粗末さまでした」
レナートは何も言わなかった。 ただ、目がほんの少しだけ細められていた。
その夜。 閉店後、一人で食堂を片づける。
テーブルを拭き、椅子を整え、ランプの火を落とす。 最後に残った一本の蝋燭の灯りの中で、シルヴィアは銀の鈴を布巾で磨いた。
明日もこの鈴が鳴る。 誰が来るかはわからない。誰も来ないかもしれない。
それでいい。
ここは私の場所だ。 誰かの隣ではなく、私が自分で作った場所だ。
蝋燭を吹き消す。
暗がりの中、二階からは物音一つしない。 今夜の客は、静かな人たちだった。




