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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第3章

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第3話「街道の噂」

水たまりに映った空が、白く光っていた。


雨上がりの朝。クレーネの市場。


石畳の隙間に水が残り、荷馬車の車輪がそれを跳ねている。濡れた屋根から雫が落ち、青果台の天幕を叩く音が不規則に響いていた。空気が洗われたように澄んでいる。


シルヴィアは市場の通りを歩いていた。


籠を腕にかけ、青果台で玉葱を選ぶ。粒の揃いを確かめ、三つ。人参を四本。乾燥豆を量り売りで。


ゲルツ親方の台に寄った。


「おかみさん、おはよう。今日は仔牛の肩肉が入ってるぞ」


「いただきます。煮込みに使います」


銅貨を数えて渡す。親方が肉を紙に包む。いつもの朝の仕入れ。いつもの手順。


乾燥豆の台に移った。


豆の粒を選んでいるとき、隣の台の声が耳に入った。


レヴィアンスから来た商人だった。二人連れ。荷を広げながら話している。街道の長旅で日に焼けた顔。声は大きくはなかったが、雨上がりの市場は人がまばらで、よく通った。


「ハイゼンベルト家、ひどいもんだ。社交は完全に止まってる。嫡男は屋敷から出てこないって話だ」


シルヴィアの手は止まらなかった。豆の粒を選び、袋に入れる。


「元はあの家の社交を回してた令嬢がいたんだろ。確か侯爵家の——ヴァイスベルクの娘だったか。国を出たって聞いたが」


手が止まった。


豆の袋の上で、指が動かなくなった。


自分の名前が出たわけではない。「シルヴィア」とは言っていない。


だが「ヴァイスベルクの娘」「国を出た」——その二つが、自分に近づいている。


呼吸が浅くなった。指先が冷たい。市場の空気は涼しかったが、それとは違う冷たさだった。


「ヴァイスベルク家は侯爵家だろう。その令嬢がいなくなったら、伯爵家が傾くのも当然だわな」


「まあ、自業自得だ。婚約者を追い出して妹とくっついたんだから」


商人たちは笑い、別の話題に移った。


シルヴィアの手が動いた。豆の袋を籠に入れ、銅貨を台に置く。


表情は変わらなかった。変えなかった。


市場の通りを歩く。籠の中で玉葱と人参と豆が揺れる。


ハイゼンベルト家のことには何も感じない。あの場所はとうに過去だ。嫡男が屋敷に引きこもっていようと、社交が止まっていようと、自分とは無関係の出来事だった。


だが——「ヴァイスベルクの娘」「国を出た」。


その噂が、街道に乗っている。


レヴィアンスから来た商人が増えている。ゲルツ親方もそう言っていた。ハイゼンベルト家の凋落で取引先を替える商人が、街道に出てきている。商人が動けば、噂も動く。


「ヴァイスベルクの令嬢がエルデシアに渡った」——その話が、商人の口から口へ伝わり、街道を越えて、クレーネにまで届いた。


まだ点だ。


「ヴァイスベルクの娘」と「クレーネの銀鈴亭の女将」が結びついたわけではない。


まだ——結びついていない。


だが商人は街道を行き来する。クレーネに泊まる者もいる。銀鈴亭に泊まる者もいる。宿帳に書かれた名前は「シルヴィア」だけだが、レヴィアンスの商人が「ヴァイスベルクの令嬢の名前はシルヴィアだった」と知っていれば——。


時間の問題だった。


シルヴィアは銀鈴亭の扉を開けた。からん、と鈴が鳴る。


食堂に入り、籠を厨房に置いた。


手を洗い、仕入れた食材を棚に並べる。玉葱。人参。豆。仔牛の肩肉。


手は動いている。いつもの手順。いつもの段取り。


だが頭の中では、別のことが回っていた。


帳簿を棚から出した。


自分の商人登録の記録を、頭の中で確認する。エルデシア側の商人登録名は「シルヴィア」のみ。姓は記載していない。供託金による登録のため、身元引受人の名前は不要だった。


レヴィアンスからの渡航記録には「シルヴィア・ヴァイスベルク」と記されている可能性がある。だがエルデシア側の商人登録との照合は、通常は行われない。


通常は。


だが誰かが意図的に調べれば、つながる。


帳簿を閉じた。


立ち上がり、食堂の奥に歩いた。


白い壁の前で立ち止まった。


手を伸ばした。指先が漆喰の表面に触れる。


乾いていた。硬くて、冷たくて、ほんのわずかにざらついている。自分の手で塗った壁。鏝の跡が残っている壁。


ここは私の場所だ。


誰が何を言っても。どんな噂が街道を走っても。


この壁は自分で塗った。この帳簿は自分で書いた。このテーブルは自分で選んだ。七ヶ月分の全部が、自分の手の中にある。


指先を壁から離さなかった。


漆喰の冷たさが、指先から腕に伝わっていく。


ここは私の場所だ。


——あの人が帰ってくる場所でもある。


その思考が浮かんだ。


浮かんだことに、今度は抗わなかった。


以前なら押しやっていた。「私の場所」にあの人を含めることを、自分に許していなかった。


だが手の甲が触れ合った夜を経て、互いの身分を知った上で名前を呼び合うことを選んだ後では——その思考を否定する理由がなかった。


ここは私の場所だ。そしてあの人が、ここに帰ると言った場所だ。


噂で奪われるわけにはいかない。


指先を壁から離した。


厨房に戻り、仕込みにかかった。仔牛の肩肉を切り分け、鍋に水を張る。玉葱を刻み、人参の皮を剥く。


手を動かしながら、考えた。


過去が追いかけてきた。ここまで来るのに、思ったより時間がかからなかった。


だが——逃げたのではない。


あの家を出たのは、あの場所が自分の場所ではなかったからだ。ここに来たのは、自分の場所を作るためだ。


選んでここにいる。


選んだものを、噂で奪われるわけにはいかない。


煮込みの鍋に火を入れた。湯気が立つ。厨房に肉と野菜の匂いが広がる。


今日も客が来る。食事を出す。帳簿をつける。鈴を磨く。


それを続ける。噂がどうあろうと。


数日後。


市場。


シルヴィアはゲルツ親方の台で鶏肉を受け取っていた。


「おかみさん」


親方が肉を包みながら、声をかけてきた。


いつもの粗い声。だが今日は、少し低かった。


「あんた——レヴィアンスから来たんだったな」


シルヴィアの手が、銅貨の上で止まった。


「向こうの商人が、ヴァイスベルクの令嬢がこっちに渡ったって話してたんだが……まさか、な」


冗談めかした口調だった。


口元には笑みが浮かんでいる。


だがシルヴィアは、親方の目が笑っていないことに気づいた。


商売人の目だった。利を読む目ではない。信頼を確かめる目だった。


シルヴィアは銅貨を台に置いた。


「鶏肉、ありがとうございます。明日もお願いします」


声はいつも通りだった。


親方はしばらくシルヴィアの顔を見ていた。


それから鼻を鳴らし、包みを差し出した。


「まあ、あんたの料理がうまいのは変わらんからな」


シルヴィアは包みを受け取り、籠に入れた。


市場を歩く。足は止まらなかった。


だが——親方の目が、意識の底に残っていた。


あの目は、答えを求めていた。

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