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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第3章

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第2話「宮廷の風」

あの食堂の茶の味が、まだ舌に残っている。


エルデシア王宮。東翼の執務室。


レナートは机に向かっていた。羊皮紙の束が積まれている。他国との通商条件の改定案。使節団の日程調整。港湾税の減免に関する嘆願書への回答草案。


外交担当の王子としての職務。国王名代としてクレーネを視察した報告書は、すでに提出済みだった。


羽ペンを走らせる。文面を整え、封蝋を押す。一通。二通。三通。


手は止まらない。王都に戻ってから、滞りなくこなしている。文官たちも「殿下のお戻りで助かります」と頭を下げた。


機能している。王子として。歯車として。


だが。


四通目の封蝋を押した手が、そのまま止まった。


茶の味が浮かんだ。


閉店後の食堂。ランプの灯りが一つ。少しだけ上等な茶葉の、あの香り。手の甲に手の甲が触れて、どちらも引かなかった夜の温度。


あの味を、王宮の石壁は知らない。


レナートは視線を書簡に戻した。


五通目に取りかかる。


集中しろ。ここは生まれたときから用意された席だ。


なのに——あの宿の窓辺の席のほうが、体に馴染んでいる。それは変わっていなかった。二度目の訪問を経て、むしろ深まっていた。


ペンを取り直す。書簡の山を片づける。今日もまた、通常の二日分に相当する量を。


昼過ぎ。


執務室の扉が控えめに叩かれた。


「失礼します」


マルコだった。近衛の正式な装い。剣帯を締め、背筋を伸ばしている。


「午後の使節との面会は二刻後です」


「わかっている」


レナートは最後の封蝋を押した書簡を示した。


マルコは机の上の書簡の束をちらりと見た。朝から片づけた量に、何も言わなかった。


扉を閉め、執務室に残った。


二人きりになった。


マルコの口調が変わった。


「殿下のクレーネ訪問について、近衛の中で噂が立ち始めています」


レナートの手が止まった。


「護衛編成の記録を見た上官が、何人かの隊員に話したようです。『殿下は東部にお気に入りの宿でもあるのか』と」


噂。


宮廷内で、自分の行動が注目され始めている。国王名代としての視察は公務だった。だが同じ町を繰り返し訪れていることは、護衛の編成記録から読み取れる。


レナートは椅子の背にもたれた。


「放っておけば消えるか」


「消えません。宮廷の噂は放っておけば大きくなります」


マルコの声は淡々としていた。事実を述べている声だった。


「殿下が動かないなら、自分が近衛の中で手を打ちます。東部の通商路を重視する外交戦略の一環だという筋で、情報を上書きします」


レナートは窓の外を見た。東に伸びる街道。その先にある、見えない町。


マルコに任せることは実務的に正しい。だがそれは、自分の問題を他人に押しつけることでもある。


「……やってくれ」


間があった。


「ただ——これで済む話ではない」


マルコの背中がわずかに動いた。


「いずれ父上に、全てを正式に申し上げる。シルヴィアのことを」


声は低かった。二度目の訪問で「帰る場所です」と国王に答えた、あの言葉のさらに先。婚姻に関する裁可の申請——その意思を、初めて口にした。


マルコは一拍、黙った。


「承知しました」


短い返答。だが口元がわずかに緩んだのを、レナートは見なかった。見る必要がなかった。六年の付き合いが、声の温度だけで伝えていた。


マルコは一礼し、扉に向かった。


「マルコ」


「はい」


「近衛内の件、頼む」


「承知しました。——ただ、宮廷の文官まではさすがに手が届きません。そちらは別の注意が必要です」


扉が閉まった。


執務室に一人。


レナートは窓の外を見た。東へ伸びる街道。


あの食堂の茶の味。あの笑み。手の甲に触れた温度。


噂は風だ。放っておけば消えるものもある。だがこの風は、自分が呼び込んだ。


ならば——自分が始末をつける。


ペンを取った。次の書簡ではなく、白い紙を一枚引き寄せた。


上奏の文面ではない。まだその段階ではない。だが頭の中で、言葉の骨組みを組み立て始めていた。


父上に全てを話す日が来る。


その日のために、まず宮廷の風を制御しなければならない。


エルデシア王宮。近衛隊の詰所。


マルコは詰所に戻ると、護衛編成を担当する上官に声をかけた。


「殿下の東部訪問について、隊内で話が出ているようですが」


上官は肩をすくめた。


「悪い話じゃないだろう。殿下が地方の通商路を気にかけているのは、外交担当として自然なことだ」


「ええ。ですから、そのように伝えていただければ。殿下は東部の通商路整備を外交戦略の柱にしたいとお考えです。余計な憶測が広がると、外交上の支障になりかねません」


上官は頷いた。


「わかった。隊内にはそう伝えておく」


マルコは一礼して詰所を出た。


近衛内はこれで収まる。だが文官の一部が、クレーネの商人登録記録に関心を示しているという話を、今朝方耳にしていた。


外交使節がレヴィアンス側の記録と照合する可能性。


まだ直接の調査には至っていない。だが宮廷の好奇心は、放置すれば必ず形を持つ。


マルコは廊下の窓辺で立ち止まった。


東の街道が、午後の光の中に伸びている。


あの宿の女将の顔が浮かんだ。帳簿をつける手の確かさ。客を迎える声の温度。レナートの手の甲に自分の手を重ねた、あの夜の静けさ。


あの人に宮廷の風が届く前に、手を打たなければならない。


マルコはレナートの執務室に向かった。


執務室。


マルコが扉を開けた。


レナートは白い紙の前に座っていた。ペンは持っていなかった。紙は白いままだった。


「近衛内は収まりました」


「ありがとう」


「ただ——」


マルコは声を落とした。


「宮廷の文官の一部が、クレーネの宿屋について外交使節報告の記録を調べ始めている形跡があります」


レナートの顔が変わった。


目の奥に、鋭いものが走った。茶の味を思い出していた目ではなかった。王子の目だった。


「まだ直接の調査には至っていませんが、放置すれば時間の問題です」


沈黙が落ちた。


レナートの指が、白い紙の上で止まっていた。


宮廷の文官がシルヴィアの記録に辿り着く前に、自分から動く必要がある。


それはわかっていた。


「マルコ」


「はい」


「もう少しだけ、時間をくれ」


声は低かった。だがその中に、迷いではなく、手順を組み立てている人間の声があった。



レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。夜。


グレンは書斎の机に向かっていた。


ランプの灯りが一つ。机の上に、革表紙の帳簿が開かれている。


シルヴィアの社交帳簿だった。


同じ頁を見ていた。贈答品の履歴の頁。各家の当主名、誕生日、婚姻記念日、好みの品目。過去に贈ったものの一覧と、重複を避けるための記号。


三年分の記録が、一頁も欠けることなく並んでいる。


グレンは頁をめくらなかった。同じ場所を、ただ見つめていた。


使用人が扉を叩いた。


「若さま、夕食をお持ちしました」


「後でいい」


声に力がなかった。


使用人は頭を下げて下がった。廊下を去る足音が遠ざかる。


グレンは帳簿の文字を見ていた。


丁寧で無駄のない筆跡。書き損じも訂正もない。三年間、毎日のように書き足された記録。


この帳簿を作った人間は、三年間一度も手を抜かなかった。


その事実が、目の前にある。


何を意味するのか——その結論に、グレンの思考は届かなかった。届く前に、いつも別の方向に曲がる。


なぜ見せてくれなかったのか。なぜ置いていったのか。


その問いが浮かぶ。浮かぶたびに、答えの入口が見える。見えるのに、踏み込めない。


帳簿を閉じた。


引き出しに戻した。


ランプの芯を短くする。灯りが落ちる。


食事には手をつけなかった。


数日後、グレンはまた引き出しを開けるだろう。同じ帳簿を。同じ頁を。


それが何を意味するのか、まだ名前をつけられないまま。

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