第4話「嘘のない名前」
「あなたは——何者なんだい」
ゲルツ親方の声が、厨房に落ちた。
銀鈴亭。閉店後。
食堂の灯りは落としてある。厨房のランプだけが、二人の顔を照らしていた。
親方は仕入れの帰りに寄ったのではなかった。閉店を待って、裏口から来た。シルヴィアが厨房の片付けをしている時間を知っている。長い取引の中で覚えた、この宿の生活の律動だった。
「市場でな、レヴィアンスの商人が話してるのを聞いた。ヴァイスベルク侯爵家の令嬢が国を出て、エルデシアで商売を始めたって」
親方の声は低かった。いつもの粗い調子ではない。
「あんたはレヴィアンスから来た。一人で宿を開いた。仕入れの知識がある。料理の腕がある。——普通の平民の娘じゃないことくらい、最初から気づいてたさ」
シルヴィアは布巾を手にしたまま、動かなかった。
親方は腕を組んだ。
「あんたがいい商売人だってことは知ってる。七ヶ月、あんたの仕事を見てきた。仕入れは正確で、支払いは遅れたことがない。うちにとっちゃ上客だ」
間があった。
「だが噂が立つと、こっちの商売にも影響が出る。あの宿の仕入れ先は貴族崩れと取引してるのかと言われたら、他の客に顔向けできん」
率直だった。
同情でも、追及でもなかった。商人としての現実を述べている声だった。
シルヴィアは布巾をカウンターに置いた。
数秒の沈黙。
厨房のランプの炎が揺れた。壁に映る二人の影が、わずかに動いた。
「レヴィアンスの貴族の家に生まれました」
声は静かだった。
「家を出て、ここで商人登録をしました。法に反することはしていません」
侯爵家の名前は出さなかった。ヴァイスベルクとは言わなかった。「貴族の出身」とだけ認めた。
それが、自分で選んだ範囲だった。
全てを言う必要はない。だが嘘を重ねることは——グレンと同じになる。三年間、見えているものを見ず、聞こえていることを聞かなかったあの男と。
嘘をつき続ければ、発覚したときの信用失墜はさらに大きい。前世の記憶がそう告げていた。隠し通せるものはない、と。
親方は黙っていた。
腕を組んだまま、シルヴィアの顔を見ていた。
長い沈黙だった。
ランプの芯がじりじりと音を立てた。
「……あんたの料理がうまいのは変わらんな」
親方の声が、低く落ちた。
「肩書きは知らんが、あんたの商売は本物だ。七ヶ月の数字が嘘をつくわけがない」
シルヴィアの手が、カウンターの縁を握った。
指に力が入った。
この手で帳簿を書いた。この手で鍋を持ち、包丁を握り、壁を塗った。この手であの人の手の甲に触れた。
この手で積んだものが、今ここで試されている。
「取引は続ける」
親方は腕をほどいた。
「あんたが何者だったかは関係ない。今、何をしているかだ。——ただし、他の商人から聞かれたら、俺はあんたのことを知らんとは言えんぞ。正直に、いい商売人だと言う。それだけだ」
シルヴィアは頭を下げた。
「ありがとうございます」
声は平坦だった。いつもの温度だった。だがカウンターの縁を握る手は、まだ力が入ったままだった。
親方は裏口に向かった。
振り返らなかった。足音が夜の通りに消えていった。
厨房に一人。
シルヴィアはカウンターの縁から手を離した。
指の跡が、木の表面に白く残っていた。
この手で、あの人に触れた。
その思考が浮かんだ。閉店後の食堂で、手の甲が手の甲に重なった夜。どちらも引かなかった。
あの夜の手と、今カウンターを握りしめた手は、同じ手だった。
肩書きを脱いだ私を、あの人は受け入れた。
今度は、肩書きがついてきた私を、この場所が受け入れるかどうかだ。
帳簿を棚から出した。
七ヶ月分の数字を見た。仕入れ。売上。支出。収益。全て自分の手で書いた記録。
この数字は、肩書きとは無関係だ。
帳簿を閉じ、棚に戻した。
ランプの火を消した。
◇
エルデシア王宮。東翼の執務室。夜。
マルコが扉を叩いた。
「失礼します」
レナートは机に向かっていた。書簡の処理は終わっている。白い紙が一枚、机の上にあった。まだ何も書かれていない。
マルコは扉を閉め、執務室に入った。二人きり。
「宮廷の文官が、クレーネの商人登録記録に関心を示しています」
声を落としていた。
「まだ直接の調査には至っていませんが、外交使節がレヴィアンス側の記録と照合する可能性があります。外交使節の定例報告の中に、クレーネの通商状況を含めるよう宰相府から指示が出たようです」
レナートの指が、白い紙の上で止まった。
「定例報告か」
「ええ。殿下の視察を受けて、東部の通商路全体を把握したいという名目です。悪意ではありません。ただ——」
「クレーネの商人登録記録が報告に含まれれば、シルヴィアの名前が目に入る」
「はい」
沈黙が落ちた。
レナートは椅子の背にもたれた。
目を閉じた。
シルヴィアの身元が宮廷側から先に発覚すれば、シルヴィアの立場はさらに悪くなる。「他国の貴族が身分を伏せて定住していた」という事実が、外交問題として扱われる。
シルヴィア自身に選択肢がない状態で、宮廷の論理に巻き込まれる。
目を開けた。
「マルコ」
「はい」
「父上に上奏する。シルヴィアのことを——全て」
マルコは一拍、黙った。
「シルヴィアの身分のこともですか」
「ああ」
声は低かった。だが迷いはなかった。
「あの人が自分で開示すべきことだ。だが宮廷に先に知られれば、あの人の選択肢が奪われる」
白い紙を見た。
「俺が父上に伝えて、あの人が自分で名乗れる形を作る」
マルコの背筋が、わずかに伸びた。
「承知しました」
短い返答。それから声を落とした。
「レヴィアンスの伯爵家の使用人がさらに減っているという話が、商人筋から入っています。ハイゼンベルト家の凋落は止まっていないようです」
レナートは頷いた。シルヴィアの元婚約者の家。回復の兆しがないという事実を、レナートは感情を交えずに受け取った。
「父上への上奏の準備を進める。文面を整えたい。時間をくれ」
「急いだほうがよろしいかと。文官の動きは早いです」
「わかっている」
マルコは一礼し、扉に向かった。
扉の前で立ち止まった。
振り返らずに言った。
「殿下が動けば、あの人を守れます」
扉が閉まった。
執務室に一人。
レナートは白い紙を引き寄せた。
ペンを取った。
今度は、書き始めた。
父上。お時間をいただきたい——。
その一行を書いて、ペンを止めた。
文面ではない。直接、話す。
紙を折り、引き出しにしまった。
立ち上がった。
窓の外を見た。夜の王都。東に伸びる街道は闇に沈んでいる。
あの町で、あの人が帳簿をつけ、鈴を磨き、白い壁に手を触れている。
その場所を、宮廷の風から守る。
そのために——まず父の前に立つ。
レナートは廊下に出た。
国王の私室に向かう道。東翼の長い廊下を歩く。
足音が石の床に響いた。
マルコが半歩後ろを歩いている。
私室の扉の前で、立ち止まった。
深く息を吸った。
吐いた。
扉に手をかけた。




