第7話「言えなかった者同士」
三年間、隣にいた人の正体を、私は最初から知っていた。知っていて、信じて、裏切られた。
その記憶が、朝の光の中で蘇った。
シルヴィアは厨房に立っていた。日の出前に起きて、火を入れ、湯を沸かし、パンの生地を窯に入れた。いつもの手順。いつもの朝。
だが手の中にあるものが、昨夜から変わっていなかった。
王子。
あの人が、王子だった。
卵を割った。殻が指の間で砕ける感触。黄身を鉄鍋に落とす。半熟に焼く。白身の縁がわずかに焦げる、あの焼き方。
この焼き加減を覚えたのは、あの人が最初の一口で目を細めたからだ。あの反応を見て、翌日から変えた。
あの人は客だった。旅の青年だった。
——違う。王子だった。最初から。
鍋の上の卵を見つめた。
作るのをやめる理由はなかった。宿の朝食だ。客に出す食事だ。
鉄鍋の火を調整し、皿に盛りつけた。パンをスライスし、籠に並べた。
食堂の準備を整えた。テーブルを拭き、皿を並べ、ランプの芯を確かめた。
二階から降りてきた足音が聞こえた。
レナートが食堂に入ってきた。
シルヴィアはカウンターの内側から顔を上げた。
「おはようございます」
声は平坦だった。昨夜の硬い敬語のまま。
「レナートさん」とは呼ばなかった。かといって「殿下」とも呼ばなかった。呼称を避けた。名前の代わりに、敬語だけが残った。
レナートは窓辺の席に座った。
その目がわずかに動いた。シルヴィアの声の変化を聞き取っていた。名前が消えたことに、気づいていた。
だが何も言わなかった。
朝食を運んだ。卵。パン。ソーセージ。
レナートはフォークを取った。卵を一口。パンを一切れ。
全て平らげた。
「美味かった」
同じ言葉。同じ声。
「ありがとうございます」
シルヴィアは皿を下げた。声の温度が、わずかに低かった。
厨房で皿を洗いながら、手を動かし続けた。
一日が始まった。
通常営業の一日だった。昼前に街道商人が一組。昼過ぎに夫婦連れ。宿泊の手続き、食事の支度、帳簿の記入。
手は止まらなかった。
手を動かしている間、頭は別のことを考えていた。
玉葱を切りながら。
前世の記憶が警告を鳴らしている。身分を隠していた人間を信じるな。同じ轍を踏むな。三年間、隣にいた男も、最初は優しかった。最初は何も求めなかった。最後に残ったのは「君は妹ほど可愛くないね」の一言だった。
鍋を磨きながら。
だが——冷静に比べれば、違いは明確だった。グレンは「自分のために」シルヴィアを使った。三年間の社交実務を搾取し、その価値に気づかなかった。レナートは身分を隠していたが、シルヴィアを利用してはいない。一人の客として、食事を食べ、静かにそこにいた。何も求めず、何も奪わなかった。
客に料理を出しながら。
「隠していた」と「利用した」は別のことだ。
帳簿をつけながら。
そしてもう一つ。
あの人は身分を隠していた。だが——自分も隠している。
シルヴィアはペンを止めた。
元侯爵家の令嬢であることを、誰にも言っていない。エルデシアに渡り、平民として商人登録をし、身分を伏せて宿を営んでいる。
あの人と、同じことをしている。
同じことをしている側の人間が、怒る資格があるのか。
その問いが、玉葱を切る手の中で、鍋を磨く手の中で、帳簿をつけるペンの先で、一日をかけてゆっくりと形になっていった。
夕刻。
食堂の片付けをしていた。テーブルを拭き、椅子を整え、皿を重ねる。
他の客が二階に上がった後、ランプの灯りを一つだけ残した。
階段を降りる足音が聞こえた。
レナートが食堂に入ってきた。
昨夜と同じ構図だった。窓辺の席。ランプの灯り。二人きりの食堂。
だが今夜は、シルヴィアが先に口を開いた。
「昨夜から考えていました」
レナートの足が止まった。窓辺の席に向かう途中で、食堂の真ん中で。
シルヴィアはカウンターの内側に立っていた。布巾を手にしたまま。
声は平坦だった。だが昨夜の硬さが、少し抜けていた。
「あなたが身分を隠していたことに、怒っています」
レナートは動かなかった。
「——でも、それは怒る筋の話なのかどうか、わからない」
一拍の間。
シルヴィアの指が、布巾を握りしめた。
「なぜなら」
息を吸った。
「私も、あなたに隠していることがあります」
レナートの目がわずかに動いた。
「私は——元はレヴィアンスの侯爵家の人間です」
レナートの呼吸が止まった。
胸の動きが消えた。目が見開かれた。唇が動きかけて、閉じた。
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。ランプの炎が揺れる音だけが聞こえた。
シルヴィアは続けた。
「侯爵家の令嬢として生まれ、伯爵家の嫡男と三年間婚約していました。婚約を解消して、この国に渡りました。身分を伏せて、平民として商人登録をして、この宿を開きました」
声は静かだった。帳簿の数字を読み上げるときと同じ温度。だが言葉を選ぶ間が、いつもより長かった。
「あなたは王子で、私は元侯爵家の令嬢です。お互い、嘘はついていなかった。でも全部は言わなかった」
レナートを見た。
「——対等、ということにしていいですか」
レナートは動かなかった。
数秒。
それから、声が出た。
「……ああ」
掠れていた。
声が掠れて、喉の奥に引っかかっていた。それ以上の言葉が出なかった。出せなかった。
シルヴィアの胸の奥で、何かがほどけた。
嘘つき同士ではない。
言えなかった者同士だ。
お互いに、隠していた。お互いに、全部は言えなかった。それは裏切りではなく、それぞれの事情があったということだ。
自分がそうだったように、あの人もそうだった。
「一つ、約束してください」
シルヴィアの声が変わった。硬さが抜けていた。昨夜の敬語でも、今朝の冷たい丁寧語でもない。あの閉店後の夜に名前を交わしたときの、あの距離の声。
「この食堂にいる間は、レナートでいてください。殿下ではなく」
レナートの目が揺れた。
喉が動いた。
「……最初から、そのつもりだった」
声はまだ掠れていた。だがその中に、押し殺していた何かが滲んでいた。
シルヴィアの口元が動いた。
唇の端がわずかに上がり、頬の筋肉がほんの少しだけ緩んだ。
小さく息を吐くような、ほとんど音のない笑み。
あの夜、焼き菓子を出したときに見せた笑みと同じだった。
レナートの視線が、その一瞬に固まった。
あのときと同じように。
食堂にランプの灯りが揺れていた。窓辺の席の椅子は、昨夜の斜めのまま残されていた。
シルヴィアはそれに気づいて、窓辺に歩み寄った。
椅子を、元の位置に戻した。
「座ってください。お茶を淹れます」
レナートは黙って、窓辺の席に座った。
椅子が元の位置に戻った音が、食堂に小さく響いた。




