表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/40

第7話「言えなかった者同士」

三年間、隣にいた人の正体を、私は最初から知っていた。知っていて、信じて、裏切られた。


その記憶が、朝の光の中で蘇った。


シルヴィアは厨房に立っていた。日の出前に起きて、火を入れ、湯を沸かし、パンの生地を窯に入れた。いつもの手順。いつもの朝。


だが手の中にあるものが、昨夜から変わっていなかった。


王子。


あの人が、王子だった。


卵を割った。殻が指の間で砕ける感触。黄身を鉄鍋に落とす。半熟に焼く。白身の縁がわずかに焦げる、あの焼き方。


この焼き加減を覚えたのは、あの人が最初の一口で目を細めたからだ。あの反応を見て、翌日から変えた。


あの人は客だった。旅の青年だった。


——違う。王子だった。最初から。


鍋の上の卵を見つめた。


作るのをやめる理由はなかった。宿の朝食だ。客に出す食事だ。


鉄鍋の火を調整し、皿に盛りつけた。パンをスライスし、籠に並べた。


食堂の準備を整えた。テーブルを拭き、皿を並べ、ランプの芯を確かめた。


二階から降りてきた足音が聞こえた。


レナートが食堂に入ってきた。


シルヴィアはカウンターの内側から顔を上げた。


「おはようございます」


声は平坦だった。昨夜の硬い敬語のまま。


「レナートさん」とは呼ばなかった。かといって「殿下」とも呼ばなかった。呼称を避けた。名前の代わりに、敬語だけが残った。


レナートは窓辺の席に座った。


その目がわずかに動いた。シルヴィアの声の変化を聞き取っていた。名前が消えたことに、気づいていた。


だが何も言わなかった。


朝食を運んだ。卵。パン。ソーセージ。


レナートはフォークを取った。卵を一口。パンを一切れ。


全て平らげた。


「美味かった」


同じ言葉。同じ声。


「ありがとうございます」


シルヴィアは皿を下げた。声の温度が、わずかに低かった。


厨房で皿を洗いながら、手を動かし続けた。


一日が始まった。


通常営業の一日だった。昼前に街道商人が一組。昼過ぎに夫婦連れ。宿泊の手続き、食事の支度、帳簿の記入。


手は止まらなかった。


手を動かしている間、頭は別のことを考えていた。


玉葱を切りながら。


前世の記憶が警告を鳴らしている。身分を隠していた人間を信じるな。同じ轍を踏むな。三年間、隣にいた男も、最初は優しかった。最初は何も求めなかった。最後に残ったのは「君は妹ほど可愛くないね」の一言だった。


鍋を磨きながら。


だが——冷静に比べれば、違いは明確だった。グレンは「自分のために」シルヴィアを使った。三年間の社交実務を搾取し、その価値に気づかなかった。レナートは身分を隠していたが、シルヴィアを利用してはいない。一人の客として、食事を食べ、静かにそこにいた。何も求めず、何も奪わなかった。


客に料理を出しながら。


「隠していた」と「利用した」は別のことだ。


帳簿をつけながら。


そしてもう一つ。


あの人は身分を隠していた。だが——自分も隠している。


シルヴィアはペンを止めた。


元侯爵家の令嬢であることを、誰にも言っていない。エルデシアに渡り、平民として商人登録をし、身分を伏せて宿を営んでいる。


あの人と、同じことをしている。


同じことをしている側の人間が、怒る資格があるのか。


その問いが、玉葱を切る手の中で、鍋を磨く手の中で、帳簿をつけるペンの先で、一日をかけてゆっくりと形になっていった。


夕刻。


食堂の片付けをしていた。テーブルを拭き、椅子を整え、皿を重ねる。


他の客が二階に上がった後、ランプの灯りを一つだけ残した。


階段を降りる足音が聞こえた。


レナートが食堂に入ってきた。


昨夜と同じ構図だった。窓辺の席。ランプの灯り。二人きりの食堂。


だが今夜は、シルヴィアが先に口を開いた。


「昨夜から考えていました」


レナートの足が止まった。窓辺の席に向かう途中で、食堂の真ん中で。


シルヴィアはカウンターの内側に立っていた。布巾を手にしたまま。


声は平坦だった。だが昨夜の硬さが、少し抜けていた。


「あなたが身分を隠していたことに、怒っています」


レナートは動かなかった。


「——でも、それは怒る筋の話なのかどうか、わからない」


一拍の間。


シルヴィアの指が、布巾を握りしめた。


「なぜなら」


息を吸った。


「私も、あなたに隠していることがあります」


レナートの目がわずかに動いた。


「私は——元はレヴィアンスの侯爵家の人間です」


レナートの呼吸が止まった。


胸の動きが消えた。目が見開かれた。唇が動きかけて、閉じた。


沈黙が落ちた。


長い沈黙だった。ランプの炎が揺れる音だけが聞こえた。


シルヴィアは続けた。


「侯爵家の令嬢として生まれ、伯爵家の嫡男と三年間婚約していました。婚約を解消して、この国に渡りました。身分を伏せて、平民として商人登録をして、この宿を開きました」


声は静かだった。帳簿の数字を読み上げるときと同じ温度。だが言葉を選ぶ間が、いつもより長かった。


「あなたは王子で、私は元侯爵家の令嬢です。お互い、嘘はついていなかった。でも全部は言わなかった」


レナートを見た。


「——対等、ということにしていいですか」


レナートは動かなかった。


数秒。


それから、声が出た。


「……ああ」


掠れていた。


声が掠れて、喉の奥に引っかかっていた。それ以上の言葉が出なかった。出せなかった。


シルヴィアの胸の奥で、何かがほどけた。


嘘つき同士ではない。


言えなかった者同士だ。


お互いに、隠していた。お互いに、全部は言えなかった。それは裏切りではなく、それぞれの事情があったということだ。


自分がそうだったように、あの人もそうだった。


「一つ、約束してください」


シルヴィアの声が変わった。硬さが抜けていた。昨夜の敬語でも、今朝の冷たい丁寧語でもない。あの閉店後の夜に名前を交わしたときの、あの距離の声。


「この食堂にいる間は、レナートでいてください。殿下ではなく」


レナートの目が揺れた。


喉が動いた。


「……最初から、そのつもりだった」


声はまだ掠れていた。だがその中に、押し殺していた何かが滲んでいた。


シルヴィアの口元が動いた。


唇の端がわずかに上がり、頬の筋肉がほんの少しだけ緩んだ。


小さく息を吐くような、ほとんど音のない笑み。


あの夜、焼き菓子を出したときに見せた笑みと同じだった。


レナートの視線が、その一瞬に固まった。


あのときと同じように。


食堂にランプの灯りが揺れていた。窓辺の席の椅子は、昨夜の斜めのまま残されていた。


シルヴィアはそれに気づいて、窓辺に歩み寄った。


椅子を、元の位置に戻した。


「座ってください。お茶を淹れます」


レナートは黙って、窓辺の席に座った。


椅子が元の位置に戻った音が、食堂に小さく響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ