第8話「閉店後の約束」
シルヴィアは棚の奥から茶葉の缶を取り出した。
少しだけ上等な茶葉。普段は客に出さない。仕入れ値が合わないからだ。
以前も一度だけ、この茶葉を選んだ夜があった。互いの過去を断片だけ交わした、あの夜。
今夜もこれを選んだ。
理由は、今度はわかっていた。
湯を注ぐ。茶葉が開く。湯気が細く立ち上る。
閉店後の食堂。ランプの灯りが一つ。
茶杯を二つ、テーブルに置いた。窓辺の席のレナートの前と、その向かいに。
シルヴィアは向かいの椅子を引いて座った。
カウンターの内側ではなく、テーブルを挟んで向かい合う。あの夜と同じ距離。だが今夜の空気は、あのときとは違っていた。
互いの身分を知った上での、初めての「閉店後の時間」だった。
「レナート」
シルヴィアが呼んだ。殿下ではなく。昨日の約束通りの呼び方。
「シルヴィア」
レナートが応えた。
名前で呼び合うことの意味が、身分を知った上では変わっていた。王子と元侯爵令嬢が、肩書きを置いて名前だけで向かい合っている。それは対等であろうとする、互いの意思表示だった。
レナートは茶杯に手を伸ばした。口をつける前に、湯気の向こうにシルヴィアの顔を見た。
「この宿に長くいた理由を、改めて話したい」
声は低く、抑制されていた。だがあの身分開示の夜のような慎重さとは違う。言葉を選んでいるのではなく、正確に伝えようとしている声だった。
「肩書きのない場所で、自分に何が残るかを知りたかった。生まれたときから用意された席に座っていると、その席が自分のためのものかどうかがわからなくなる」
茶杯を持ったまま、視線を落とした。
「この宿で——見つけた」
シルヴィアは黙って聞いていた。
茶杯を両手で包んだまま、動かなかった。
あの夜、同じ構図で、同じ席で、レナートは言った。「ここにいると、探さなくていい気がする」と。
あのときは身分を隠したままだった。旅の青年の言葉だった。
今夜は違う。王子として、全てを明かした上で、同じことを言い直している。嘘のない立場から。
「あのとき——ここにいると探さなくていい気がすると言った。あれは本当だった。今も変わらない」
レナートの目が、シルヴィアを真っ直ぐに見ていた。
シルヴィアの胸の奥で、あの夜の記憶が重なった。言葉にならなかった返事。何を言っても壊してしまう気がした、あの沈黙。
今夜は——答えなければならない。
あの時間は本物だったのか。身分を知った上でも、あの閉店後の空気は同じものなのか。
レナートの目を見た。言葉の中ではなく、目の中に答えを探した。
同じ目だった。静かで、真っ直ぐで、何かを測るような目。あの頃と変わらない目。
変わったのは、その奥にあるものを隠さなくなったことだけだった。
レナートが続けた。
「俺は王都に戻らなければならない。視察には期限がある」
声が変わった。王子としての現実が、言葉の中に入り込んだ。
「だが——戻った後も、ここに来る方法を作る。宮廷の制度の中で、この町との関わりを持てる形を」
シルヴィアの指が、茶杯の縁を止まった。
「無理をしないでください」
声は静かだった。だがその中に、心配の色があった。宮廷の制度がどういうものか、侯爵家の令嬢だった自分には見当がつく。王子が特定の町に繰り返し赴くことの意味も。
レナートは首を振った。
「無理ではない。俺が選ぶことだ」
その声に、迷いがなかった。
沈黙が落ちた。
ランプの炎が揺れた。茶杯から立つ湯気が、もうほとんど見えなくなっていた。
シルヴィアの目が揺れた。
揺れて——定まった。
「……あなたが来るなら、鈴は鳴ります」
声が震えた。
震えていた。平坦に保とうとして、保てなかった。
あの朝、レナートが発った後に、一人で食堂に立って思ったことがある。待つのではない。私がここにいることを選び続けた結果として、鈴が鳴る日が来るなら、と。
あの独白を、今夜、声に出した。
あの人に向けて。
レナートの手が動いた。
テーブルの上で拳を作った。開いた。指が伸び、テーブルの木目の上を滑った。
シルヴィアの手の近くで、止まった。
触れなかった。だが距離が近かった。指先と指先の間に、茶杯一つ分もない隙間。
シルヴィアはその手を見た。
引かなかった。自分の手も動かさなかった。
そのままの距離で、二人の手がテーブルの上にあった。
ランプの灯りが、二つの手の影を食堂の床に落としていた。
◇
レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。夜。
リゼットは兄の書斎の前を通りかかった。
扉が半分開いていた。
足を止めた。
書斎の中が見えた。ランプの灯りの下、兄は机に向かっていなかった。
椅子に座って、一冊の帳簿を広げていた。
あの帳簿だった。以前、扉の隙間から兄が見つめていたのを見た、あの革表紙の帳簿。
リゼットは扉の前で立ち止まった。
兄は帳簿を見つめたまま動かなかった。頁をめくる様子もなかった。同じ頁を、ただ見つめていた。
あの帳簿が何なのか、リゼットは知らなかった。だが兄の背中が、以前とは違っていた。柔和な笑みも、自信に満ちた姿勢もなかった。ただ小さく、丸まっていた。
リゼットは声をかけなかった。
静かに、扉の前を離れた。
自室に戻る廊下の途中で、書斎に引き返した。
兄がまだ帳簿を見ていることを確認して、そっと書斎に入った。
机の脇の棚に、あの帳簿と同じ革の装丁の帳簿が、もう一冊あった。
以前、使用人がこの棚から兄の机に出していたのを見たことがある。兄はそれを引き出しに入れていた。
棚に残っていたもう一冊を、リゼットは手に取った。
兄は気づかなかった。帳簿を見つめたまま、微動だにしなかった。
自室に戻った。
ランプの灯りの下で、革表紙を開いた。
最初の頁。
整然とした文字が並んでいた。
贈答品の記録。各家への過去の贈り物の一覧。重複を避けるための記号。季節ごとの適切な品目の一覧。
頁をめくった。
社交茶会の記録。出席者の名前。会話の要点。次回への引き継ぎ事項。避けるべき話題。座席の配慮。
さらにめくった。
夜会の席順。各家の序列と、過去の席次の記録。隣り合わせにしてはならない組み合わせ。話題の糸口になる共通点。
三年分。
一頁も欠けることなく、一行の書き損じもなく、完璧に記録されていた。
リゼットの手が震えた。
頁を繰る指が止まらなかった。止められなかった。
一枚めくるごとに、記録の密度が目に迫ってきた。これだけの量を、一人で書き続けていた人がいる。三年間、毎日のように。
茶会の段取り。贈答品の選定。席順の調整。会話の下準備。
全部。全部、一人で。
リゼットがこの半年間で一度もできなかったことが、この帳簿の中に三年分、当然のように並んでいた。
「わたしには……これは、無理だわ」
声が漏れた。
小さな声だった。誰にも聞かせるつもりのない、自分だけの声だった。
帳簿を閉じた。
膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
ランプの炎が揺れていた。革表紙の上に、リゼットの影が落ちていた。




