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あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第2章

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第6話「名前の先にあるもの」

「俺の名前は、レナート・エル・エルデシア」


声が落ちた。


閉店後の食堂。ランプの灯りが一つだけ残っている。窓辺の席にレナートが座り、向かいにシルヴィアが座っていた。


あの夜と同じ構図だった。互いの過去を断片だけ交わした夜と同じ、テーブルを挟んだ距離。


だが今夜は、レナートの声の質が違っていた。


「エルデシア第二王子だ」


シルヴィアの表情が動かなかった。


動かなかったが、茶杯を持つ手の力が変わった。指が白くなるほど、陶器を握りしめていた。


「遊歴の旅の途中で、この宿に泊まった。それが最初だった」


レナートの目は真っ直ぐだった。視線を逸らさなかった。逸らすことを、自分に許していないようだった。


「エルデシアには王族の慣例がある。第二王子以降は成人後に一年間、身分を伏せて国内を旅する。民の暮らしを知るための制度だ。マルコは近衛から選ばれた護衛で、旅の間は従者として振る舞っていた」


シルヴィアは黙っていた。


茶杯を持ったまま、微動だにしなかった。


「最後の朝——あの扉の前で、全てを話そうとした。マルコが止めた。ここではなく、正式な形で伝えるべきだと」


レナートの声は低く、抑制されていた。だがその抑制の下に、選び抜いた言葉を一つずつ並べている慎重さがあった。


「嘘をついていたとは言わない。だが、全てを伝えていなかった」


一拍の間。


「それは——不誠実だった」


食堂の空気が、重く沈んだ。


ランプの炎が揺れた。窓の外は暗い。銀の鈴が灯りを受けて、かすかに光っていた。


シルヴィアは動かなかった。


王子。


あの人が、王子。


思考が回らなかった。言葉が、頭の中で形にならなかった。


代わりに体が反応していた。心臓が痛いほど速い。指先が冷たい。茶杯を握りしめている力を、自分で制御できていない。


三つのものが、同時に胸を貫いていた。


一つ。信頼していた人間が、身分を隠していた。前の人生の記憶が、警告を鳴らしている。また裏切られたのかと。三年間隣にいた男の顔が、一瞬だけ重なった。


二つ。相手が王子だった。客と女将。対等だと思っていた関係が、最初から対等ではなかった。土台ごと、書き換わる。


三つ。「帰る場所をなくさないでくれ」。あの言葉が、王子の言葉だった。あの震えるような声が、旅の青年ではなく、王族の口から出たものだった。その言葉の重さが——変わってしまう。


変わってほしくなかった。


変わってほしくないと思っている自分に、気づいた。


レナートは語り続けた。


遊歴中にこの町に辿り着いたこと。宿に泊まったのは偶然だったこと。それが連泊になり、長期滞在になったこと。


「旅の途中、商人の噂でレヴィアンスの伯爵家が凋落していると聞いた」


シルヴィアは表情を変えなかった。


「そうですか」


声は平坦だった。その無反応の中に、あの場所がもう自分とは無関係であることが滲んでいた。


レナートはそれ以上その話には触れなかった。


沈黙が降りた。


長い沈黙だった。ランプの炎の揺れる音が聞こえるほどの静けさ。


シルヴィアの頭の中で、あの夜の言葉が繰り返されていた。


「ここにいると、探さなくていい気がする」


あの言葉を発したのは、旅の青年ではなく、王子だった。


あの穏やかな閉店後の時間は、王子が身分を隠して過ごした時間だった。


——では、あの時間は何だったのか。


茶杯を置いた。


音が立った。陶器がテーブルに当たる、小さな硬い音。


「一つだけ、聞いてもいいですか」


声が硬かった。


昨日まで使っていた丁寧語ではなかった。明らかに一段硬い敬語に変わっていた。言葉の温度が下がっている。壁が、一枚増えていた。


レナートの目がわずかに動いた。その変化を、聞き取っていた。


「殿下は——あの焼き菓子を食べたとき、美味いとおっしゃいましたね」


殿下。


その呼称が、食堂の空気を変えた。


「あれは、旅の途中の王子殿下のお言葉だったのですか」


一拍の間。


「それとも——レナートという人の言葉だったのですか」


レナートは即答した。


「レナートの言葉だ」


迷いがなかった。


声が低く、短く、真っ直ぐだった。


「王子として美味いと言ったことは、一度もない」


沈黙が落ちた。


シルヴィアの目が揺れた。


唇が動きかけて、止まった。何かを言おうとして、言葉にならなかった。


胸の奥で、二つのものがぶつかっていた。


信じたい。あの「美味かった」は嘘ではなかったと、信じたい。


信じたいと思っている自分が、怖い。


前の人生で、信じた結果を知っている。三年間信じた結果が、あの夜会の一言だった。


でも——あの人の目は、嘘をつく人間の目ではなかった。


わからない。今夜は、わからない。


シルヴィアは椅子から立ち上がった。


「今夜は、ここまでにしてください」


声は静かだった。硬いまま、静かだった。


レナートは何も言わなかった。


何も言わずに、席を立った。窓辺の椅子が小さく音を立てた。


足音が食堂を横切り、階段を上がっていった。


食堂に一人。


シルヴィアはカウンターに戻った。


銀の鈴を手に取った。布巾で磨く。いつもの動作。毎晩やっていること。


手が震えていた。


あの朝、レナートが発つ前に鈴を磨いたときと同じだった。だが今夜の震えは、あのときとは違った。


あのときは、悲しみだった。


今夜は——感情の処理が、追いつかない震えだった。


王子。あの人が、王子。


でもあの「美味かった」は、嘘ではなかった。嘘ではなかったと信じたい。


信じたいと思っている自分が、怖い。


鈴を磨く手が、止まらなかった。止められなかった。


震えたまま、布巾を動かし続けた。


ランプの灯りが揺れている。窓辺の席は空いている。さっきまであの人が座っていた椅子が、少しだけ斜めに残されていた。


いつもなら、きちんと戻されている椅子。


今夜は、戻す余裕がなかったのだ。あの人にも。


シルヴィアは鈴を金具に掛け直した。


ランプの火を消した。


暗い食堂の中で、斜めのままの椅子だけが、月明かりにぼんやりと浮かんでいた。

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