第5話「鈴の音」
からん、と銀の鈴が鳴った。
開業五ヶ月目のある昼下がりだった。
シルヴィアは厨房で仕込みをしていた。鶏肉にローズマリーを擦り込み、鉄鍋に並べていく。夕食の準備。今夜の宿泊客は二組。
鈴の音が聞こえて、包丁を置いた。
布巾で手を拭き、食堂に出た。
扉の前に、人影が立っていた。
逆光だった。午後の陽が背後から差し込み、顔が影になっている。背が高い。半歩後ろに、がっしりとした体格の男。
シルヴィアの足が止まった。
影が一歩、踏み出した。
光の中に顔が入った。
レナートだった。
呼吸が詰まった。胸の奥で何かが跳ねた。思考より先に、体が反応していた。
目が合った。
静かな目だった。真っ直ぐで、何かを測るような目。あの頃と同じ目。
だが——違うものがあった。
外套の仕立てが違う。以前の旅装とは明らかに異なる、上質な布地。肩の線がきちんと出ている。街道の埃はついているが、それは長い旅の埃ではなく、数日の移動の埃だった。
シルヴィアの目が、一瞬だけ見開かれた。
すぐに戻した。いつもの表情に。
「一泊、頼む」
レナートの声だった。
低い。簡潔。あの日と同じ言葉。同じ調子。
シルヴィアは呼吸を整えるのに二秒かかった。
「……いつもの部屋でいいですか」
声は平坦だった。自分でも驚くほど平坦な声が出た。
だが自分の口から出た言葉に、気づいていた。「いつもの部屋」。宿帳を確認するまでもなく、この人にはあの部屋だと、体が覚えている。
レナートは一拍、間を置いた。
「ああ」
その声が、わずかに柔らかかった。
レナートは窓辺の席に荷袋を下ろした。
あの席に。
シルヴィアの視線が、そこに留まった。毎朝拭いていた席。毎晩、ランプを消す前に目がいった席。埃が積もらなかった席。
今、あの人がそこにいる。
マルコが半歩遅れて食堂に入ってきた。
からん、と鈴がもう一度鳴る。
マルコの装いも違っていた。旅装ではあるが、腰の剣帯が正式なものだった。遊歴中の旅人の従者ではなく、職務として随行している人間の装い。
シルヴィアはそれを見た。見たが、何も言わなかった。
マルコがシルヴィアに軽く頭を下げた。
「また世話になります」
「いらっしゃいませ」
声は整えた。整えられた。
鍵を二つ取り、渡した。二階の奥の二部屋。隣同士。
二人が階段を上がっていく。
シルヴィアはカウンターの内側に入った。
両手をカウンターの縁に置いた。
息を吸った。吐いた。
心臓がまだ速かった。
帰ってきた。あの人が、帰ってきた。
それだけのことが、こんなにも——。
こんなにも、体に来ている。
落ち着け。客が来た。宿屋に客が来た。それだけのことだ。
だが「それだけのこと」で心臓はこんなに速くならない。そのことを、シルヴィアは知っていた。
外套の仕立て。マルコの剣帯。あの頃とは違う装い。
市場で聞いた噂が、意識の端でちらついた。第二王子。東部の視察。
振り払った。今はいい。今は、目の前のことだけでいい。
厨房に戻った。
鶏肉のハーブ焼きの仕込みが途中だった。ローズマリーを擦り込む手を再開する。
鶏のハーブ焼き。
レナートが初めて「美味かった」と声に出した料理。
偶然ではなかった。今日の献立を決めたのは昨日だ。市場で鶏肉を選んだのは今朝だ。レナートが来ることなど知らなかった。
知らなかったのに、この献立を選んでいた。
シルヴィアは鶏肉をひっくり返し、塩を振った。
考えるな。作れ。
夕食の時間。
食堂に三組の客がいた。宿泊の二組と、レナートとマルコ。
シルヴィアは鶏のハーブ焼きを皿に盛りつけた。焼き加減を確かめる。皮は香ばしく、中に火が通っている。ローズマリーの香りが立っている。
窓辺の席に運んだ。
「どうぞ」
レナートはフォークとナイフを取った。
鶏肉を一切れ、口に運んだ。
一口目。
間があった。
いつもより長い間だった。
目を閉じた。
咀嚼する。飲み込む。
目を開ける。
二口目。三口目。黙々と食べ進めた。
皿が空になった。
パンの欠片も残っていなかった。フォークとナイフがきちんと揃えられていた。
レナートが顔を上げた。
「美味かった」
同じ言葉。同じ声。
なのにシルヴィアの耳には、その一言がいつもより重く響いた。あの頃と同じ言葉なのに、今のこの人の口から出たそれは、違う温度を持っていた。
「ありがとうございます」
声は保った。保てたと思う。
皿を下げ、厨房に運んだ。
湯の中に皿を沈めた。
手が止まった。
湯気の中で、目を閉じた。
帰ってきた。あの人が。あの席に座って、あの料理を食べて、あの言葉を言った。
全部、同じだった。
同じなのに——全部が、前とは違って聞こえた。
皿を洗った。拭いた。棚に戻した。
閉店後。
他の客が二階に上がった後、食堂にはランプの灯りが一つだけ残った。
レナートは窓辺の席にいた。
あの夜と同じ光景だった。
シルヴィアは帳簿を開いたが、ペンは取らなかった。
カウンターの内側から、窓辺の席を見ていた。
レナートが口を開いた。
「明日——話がある。聞いてもらえるか」
声は低かった。いつもの簡潔さだった。だがその中に、選び抜かれた慎重さがあった。
シルヴィアの指が、帳簿の表紙の上で止まった。
話がある。
その言葉の先に何があるのか、わからなかった。わからないのに、心臓が跳ねた。
帳簿を閉じた。
「ええ」
一言。それだけ返した。
仕事を止めて、聞く意思を示す返答だった。
レナートの目がわずかに動いた。何かを確かめるように、シルヴィアの顔を見ていた。
「おやすみなさい」
シルヴィアが先に言った。声は平坦だった。
「……ああ」
レナートが立ち上がった。窓辺の席を出て、階段に向かう。
足音が二階に消えた。
廊下の奥で、小さな声が聞こえた。
「明日、全て話す」
レナートの声だった。
マルコの声が返った。
「覚悟はいいんですね」
「最初からそのつもりで来た」
短いやり取りだった。壁越しに届く程度の、押し殺した声。
シルヴィアの耳は、それを拾っていた。
全て話す。覚悟。
何の覚悟だ。何を話すつもりだ。
わからない。わからないが——胸の奥で、点が揺れていた。遊歴。第二王子。東部の視察。外套の仕立て。マルコの剣帯。
線にはまだならない。
だが点が、一つ増えた。
シルヴィアはランプの火を消した。
暗い食堂の中で、窓辺の席が月明かりに浮かんでいた。
あの席に、あの人が戻っている。
明日、何かが変わる。
その予感だけが、暗闇の中に残った。




