表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/40

第5話「鈴の音」

からん、と銀の鈴が鳴った。


開業五ヶ月目のある昼下がりだった。


シルヴィアは厨房で仕込みをしていた。鶏肉にローズマリーを擦り込み、鉄鍋に並べていく。夕食の準備。今夜の宿泊客は二組。


鈴の音が聞こえて、包丁を置いた。


布巾で手を拭き、食堂に出た。


扉の前に、人影が立っていた。


逆光だった。午後の陽が背後から差し込み、顔が影になっている。背が高い。半歩後ろに、がっしりとした体格の男。


シルヴィアの足が止まった。


影が一歩、踏み出した。


光の中に顔が入った。


レナートだった。


呼吸が詰まった。胸の奥で何かが跳ねた。思考より先に、体が反応していた。


目が合った。


静かな目だった。真っ直ぐで、何かを測るような目。あの頃と同じ目。


だが——違うものがあった。


外套の仕立てが違う。以前の旅装とは明らかに異なる、上質な布地。肩の線がきちんと出ている。街道の埃はついているが、それは長い旅の埃ではなく、数日の移動の埃だった。


シルヴィアの目が、一瞬だけ見開かれた。


すぐに戻した。いつもの表情に。


「一泊、頼む」


レナートの声だった。


低い。簡潔。あの日と同じ言葉。同じ調子。


シルヴィアは呼吸を整えるのに二秒かかった。


「……いつもの部屋でいいですか」


声は平坦だった。自分でも驚くほど平坦な声が出た。


だが自分の口から出た言葉に、気づいていた。「いつもの部屋」。宿帳を確認するまでもなく、この人にはあの部屋だと、体が覚えている。


レナートは一拍、間を置いた。


「ああ」


その声が、わずかに柔らかかった。


レナートは窓辺の席に荷袋を下ろした。


あの席に。


シルヴィアの視線が、そこに留まった。毎朝拭いていた席。毎晩、ランプを消す前に目がいった席。埃が積もらなかった席。


今、あの人がそこにいる。


マルコが半歩遅れて食堂に入ってきた。


からん、と鈴がもう一度鳴る。


マルコの装いも違っていた。旅装ではあるが、腰の剣帯が正式なものだった。遊歴中の旅人の従者ではなく、職務として随行している人間の装い。


シルヴィアはそれを見た。見たが、何も言わなかった。


マルコがシルヴィアに軽く頭を下げた。


「また世話になります」


「いらっしゃいませ」


声は整えた。整えられた。


鍵を二つ取り、渡した。二階の奥の二部屋。隣同士。


二人が階段を上がっていく。


シルヴィアはカウンターの内側に入った。


両手をカウンターの縁に置いた。


息を吸った。吐いた。


心臓がまだ速かった。


帰ってきた。あの人が、帰ってきた。


それだけのことが、こんなにも——。


こんなにも、体に来ている。


落ち着け。客が来た。宿屋に客が来た。それだけのことだ。


だが「それだけのこと」で心臓はこんなに速くならない。そのことを、シルヴィアは知っていた。


外套の仕立て。マルコの剣帯。あの頃とは違う装い。


市場で聞いた噂が、意識の端でちらついた。第二王子。東部の視察。


振り払った。今はいい。今は、目の前のことだけでいい。


厨房に戻った。


鶏肉のハーブ焼きの仕込みが途中だった。ローズマリーを擦り込む手を再開する。


鶏のハーブ焼き。


レナートが初めて「美味かった」と声に出した料理。


偶然ではなかった。今日の献立を決めたのは昨日だ。市場で鶏肉を選んだのは今朝だ。レナートが来ることなど知らなかった。


知らなかったのに、この献立を選んでいた。


シルヴィアは鶏肉をひっくり返し、塩を振った。


考えるな。作れ。


夕食の時間。


食堂に三組の客がいた。宿泊の二組と、レナートとマルコ。


シルヴィアは鶏のハーブ焼きを皿に盛りつけた。焼き加減を確かめる。皮は香ばしく、中に火が通っている。ローズマリーの香りが立っている。


窓辺の席に運んだ。


「どうぞ」


レナートはフォークとナイフを取った。


鶏肉を一切れ、口に運んだ。


一口目。


間があった。


いつもより長い間だった。


目を閉じた。


咀嚼する。飲み込む。


目を開ける。


二口目。三口目。黙々と食べ進めた。


皿が空になった。


パンの欠片も残っていなかった。フォークとナイフがきちんと揃えられていた。


レナートが顔を上げた。


「美味かった」


同じ言葉。同じ声。


なのにシルヴィアの耳には、その一言がいつもより重く響いた。あの頃と同じ言葉なのに、今のこの人の口から出たそれは、違う温度を持っていた。


「ありがとうございます」


声は保った。保てたと思う。


皿を下げ、厨房に運んだ。


湯の中に皿を沈めた。


手が止まった。


湯気の中で、目を閉じた。


帰ってきた。あの人が。あの席に座って、あの料理を食べて、あの言葉を言った。


全部、同じだった。


同じなのに——全部が、前とは違って聞こえた。


皿を洗った。拭いた。棚に戻した。


閉店後。


他の客が二階に上がった後、食堂にはランプの灯りが一つだけ残った。


レナートは窓辺の席にいた。


あの夜と同じ光景だった。


シルヴィアは帳簿を開いたが、ペンは取らなかった。


カウンターの内側から、窓辺の席を見ていた。


レナートが口を開いた。


「明日——話がある。聞いてもらえるか」


声は低かった。いつもの簡潔さだった。だがその中に、選び抜かれた慎重さがあった。


シルヴィアの指が、帳簿の表紙の上で止まった。


話がある。


その言葉の先に何があるのか、わからなかった。わからないのに、心臓が跳ねた。


帳簿を閉じた。


「ええ」


一言。それだけ返した。


仕事を止めて、聞く意思を示す返答だった。


レナートの目がわずかに動いた。何かを確かめるように、シルヴィアの顔を見ていた。


「おやすみなさい」


シルヴィアが先に言った。声は平坦だった。


「……ああ」


レナートが立ち上がった。窓辺の席を出て、階段に向かう。


足音が二階に消えた。


廊下の奥で、小さな声が聞こえた。


「明日、全て話す」


レナートの声だった。


マルコの声が返った。


「覚悟はいいんですね」


「最初からそのつもりで来た」


短いやり取りだった。壁越しに届く程度の、押し殺した声。


シルヴィアの耳は、それを拾っていた。


全て話す。覚悟。


何の覚悟だ。何を話すつもりだ。


わからない。わからないが——胸の奥で、点が揺れていた。遊歴。第二王子。東部の視察。外套の仕立て。マルコの剣帯。


線にはまだならない。


だが点が、一つ増えた。


シルヴィアはランプの火を消した。


暗い食堂の中で、窓辺の席が月明かりに浮かんでいた。


あの席に、あの人が戻っている。


明日、何かが変わる。


その予感だけが、暗闇の中に残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ