第4話「旅の理由」
「殿下。東部視察の件、国王陛下のご裁可をいただきました」
マルコの声が、執務室の空気を変えた。
レナートは机の上の書簡から顔を上げた。
マルコは扉の前に立っていた。正式な近衛の装い。背筋が伸び、表情は整っている。だがその目の奥に、押し殺した何かがあった。
「いつだ」
「本日の午前、陛下が直接ご署名されました。視察の日程と随行の人員については、殿下のご判断に委ねるとのことです」
レナートは椅子の背にもたれた。
裁可が下りた。
上奏してから五日。東部通商路の実情視察という名目。外交担当の王子として、不自然ではない職務の範囲。
だが——名目は名目だ。
本当の理由は、この書簡の山の中にはない。
「陛下は何か」
「お呼び出しがあります。本日の午後、謁見の間ではなく、東翼の私室にて」
私室。公式の場ではない。
レナートの指が、机の上で止まった。
「わかった」
午後。
エルデシア王宮、東翼の私室。
部屋は広くなかった。窓際に書き物机が一つ。本棚。椅子が二脚。壁に掛けられた小さな肖像画——故人となった第二王妃の若き日の姿。
国王アルベルトは窓辺に立っていた。
背は高い。白髪が混じった髪を後ろに撫でつけ、目は穏やかだが深い。王としての威厳と、私人としての疲労が同居する顔だった。
レナートは入室し、一礼した。
「お呼びとのことで」
「座れ」
国王は窓から離れず、外を見たまま言った。
レナートは椅子に腰を下ろした。
沈黙が落ちた。
国王が口を開いた。
「遊歴で東部には行ったな」
「はい」
「わざわざ同じ場所を回る理由は何だ」
声は穏やかだった。問い詰める調子ではない。だが目が窓の外からレナートに移ったとき、その目は政治家の目だった。
「通商路の整備状況を外交の観点から確認するためです」
用意していた答えだった。
嘘ではない。通商路の視察は実際に意味がある。東部の交易は両国の経済に影響する。外交担当として把握しておくべき事項だ。
だが——全てでもない。
国王はレナートの目を見た。
数秒。
長い数秒だった。
「そうか」
それだけだった。
追及はなかった。問い返しもなかった。
ただ「そうか」の一言の中に、見透かされている感覚があった。
レナートは立ち上がり、一礼して私室を出た。
廊下で、息を吐いた。
拳が握りしめられていたことに、今になって気づいた。
マルコが廊下の先に立っていた。
「終わりましたか」
「ああ」
「陛下のご反応は」
「『そうか』と言っただけだ」
マルコは一拍、黙った。
「否定はされなかった、ということですね」
レナートは答えなかった。
否定はされなかった。だが肯定もされていない。あの目は全てを見ていた。通商路の名目の向こう側にあるものを。
「出発の準備を進めろ。護衛は二名。日程は五日後」
「承知しました」
マルコは一礼した。それから、声を落とした。
「クレーネまでは四日の行程です。到着後の日程はいかがしますか」
「視察は通商路沿いの三つの町を回る。クレーネは二番目に入れろ。滞在は三日」
「三日ですか」
マルコの声に、わずかな含みがあった。通商路の視察で一つの町に三日は長い。
「視察に必要な日数だ」
「はい。視察に必要な日数ですね」
マルコの口元が、ほんのわずかに動いた。それ以上は何も言わず、廊下を先に歩き出した。
レナートは廊下の窓から外を見た。
東に伸びる街道。四日後には、あの道を歩いている。
公務の名で会いに行く。それは正式な形か。
少なくとも——嘘をついたまま終わるよりは、ましだ。
窓から目を離し、執務室に戻った。
出発までに片づけるべき書簡が、まだ積まれていた。
◇
クレーネ。銀鈴亭。夕刻。
シルヴィアは市場から戻り、厨房に食材を並べていた。
人参、玉葱、乾燥豆、香草の束。いつもの仕入れ。いつもの段取り。
帳簿を開き、今日の支出を記入する。銅貨の出入り。仕入れ値の確認。ゲルツ親方のところで羊の骨を安く譲ってもらえた。出汁用に明日から使う。
手は動いている。頭も動いている。
だが今日は、市場での会話が耳の奥に残っていた。
昼過ぎ、青果台で乾燥豆を選んでいるとき。隣の台にいた街道商人の声が聞こえた。
「エルデシアの第二王子殿下が東部を視察なさるらしいよ。通商路を回るんだとさ」
「王子が直々に? 珍しいこともあるもんだ」
「外交担当の殿下だからな。東部は交易の要だろう」
それだけの会話だった。
シルヴィアは豆の粒を選び続けた。手は止めなかった。
だが心拍が、一つだけ跳ねた。
第二王子。東部。視察。
先日の仕立屋の女房の噂が重なった。遊歴から戻った王子。東部。
そしてもう一つ。あの夜、壁越しに聞こえたマルコの声。「そろそろ遊歴の期限が近い」。
遊歴。第二王子。東部の視察。
点が三つになった。
線にはならない。なる道理がない。
あの無口な旅の青年が王子であるはずがない。護衛がいたとして、貴族の子弟が従者を連れて旅をすることは珍しくもない。
そう思った。そう思おうとした。
なのに——胸の奥が騒いだ。
理由のない期待が、身体に出た。
東部の視察。クレーネは東部の交易街道沿いだ。視察の行程にこの町が含まれる可能性は、ある。
含まれたとして。王子が来るとして。それとレナートが何の関係がある。
ない。ないはずだ。
シルヴィアは帳簿を閉じた。
厨房に入り、明日の仕込みの段取りを始めた。鍋に水を張る。豆を浸す。包丁を取り出す。
手を動かせ。考えても仕方のないことだ。
夜。
閉店後の食堂。ランプの灯りを一つだけ残して、帳簿の最後の記入を終えた。
ペンを置いて、顔を上げた。
窓辺の席が目に入った。
空席。いつも通りの、きちんと整えられた椅子。昨夜磨いたテーブル。
視線がそこに留まった。
王子が東部を視察する。その噂と、あの人が重なる道理はない。
ないはずだ。
なのに、胸の奥が静まらなかった。
「……考えすぎだ」
呟いて、ランプの火を消した。
暗い食堂の中で、窓辺の席だけが外の月明かりを受けて、ぼんやりと浮かんでいた。
◇
レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。
リゼットは自室の机の前に座っていた。
引き出しの中に、茶会の招待状が一通入っている。
ランベルク子爵家の夫人が主催する春の茶会。二週間前に届いた招待状だった。
リゼットはそれを手に取った。
封蝋は未開封のまま——ではなかった。一度開けて、読んで、戻したのだ。
出席の返書は、まだ出していない。
茶会に出れば、また同じことが起きる。
「シルヴィア様がいらした頃は華やかでしたのにね」
あの声が、耳の奥に貼りついている。
リゼットは招待状をしばらく見つめた。
指が封筒の縁をなぞった。
返書用の便箋は、机の上に用意してある。ペンも、インクも。
手を伸ばさなかった。
招待状を引き出しにしまった。
静かに、引き出しを閉じた。




