第3話「崩れた門」
グレンはハイゼンベルト家の紋章入りの馬車を降りた。
目の前に、石造りの商会の門がある。レヴィアンス東部で最も取引量の大きい穀物商会、ブレナー商会。ハイゼンベルト伯爵家とは十年来の取引先だった。
門番が一礼し、奥へ通す。応接室に案内されると、商会の主が既に椅子に座っていた。
五十がらみの男だった。恰幅がよく、顎髭を綺麗に整えている。目は穏やかだが、商人の目だった。利を読む目。
「ようこそお越しくださいました、グレン様」
「お忙しいところ恐れ入ります。年末の大口取引について、ご相談に伺いました」
グレンは微笑んだ。柔和な笑み。いつもの表情。
椅子に座り、本題に入った。
毎年、年末にハイゼンベルト家はブレナー商会から大量の穀物を仕入れている。領地内の備蓄用と、近隣の貴族家への贈答用の加工品の原料。取引額は伯爵家の年間支出の中でも大きな比重を占めていた。
「今年も例年通りの数量と条件でお願いしたいのですが」
商会の主は、茶杯を受け皿に戻した。
「グレン様。率直に申し上げてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん」
「今年は、条件を見直させていただきたいのです」
グレンの微笑みが、わずかに固くなった。
「見直し、というのは」
「具体的には、前金の比率を引き上げさせていただきたく。従来は三割でしたが、五割をお願いしたい」
「五割ですか。それは——随分と」
「信用の回復が確認できるまで、従来の条件での継続は難しいのです」
声は穏やかだった。だが、目は笑っていなかった。
信用。
その一語が、グレンの喉に刺さった。
「信用とおっしゃいますと」
「社交の場での評判は、商売にも影響します。お取引先の信用は、我々商会にとっても看板でございますので」
それ以上は言わなかった。言う必要がなかった。
グレンの微笑みが張りついたまま、剥がれなくなっていた。口角を上げる筋肉が固まっている。
「……検討させていただきます」
それだけ言うのが精一杯だった。
商会を出た。
馬車に乗り込み、扉が閉まった。御者に行き先を告げる声が、自分でも聞き取れないほど小さかった。
馬車が走り出す。窓の外を、レヴィアンスの街並みが流れていく。
グレンは座席に背を預けたまま、動かなかった。
社交の信用低下が、取引条件に跳ね返ってきた。
夜会の段取りの失態。茶会の辞退。親睦会の幹事交代。社交秘書の辞職。それらが噂として商人の口に乗り、街道を伝い、商会の帳簿にまで影響を及ぼしている。
シルヴィアがいた頃は、社交が円滑に回ることで商取引にも好影響を与えていた。その構造が失われている。
だがグレンの頭の中で、その認識は別の形に変換されていた。
——時期が悪い。景気の問題だ。商会が強気に出ているだけだ。
馬車が屋敷の門をくぐった。
ハイゼンベルト伯爵家。玄関広間。
グレンが馬車を降りると、玄関先にリゼットが立っていた。
「兄さま、おかえりなさい」
小走りに駆け寄り、グレンの外套に手を伸ばす。
グレンはリゼットを見た。
妹の顔。いつもの、少し甘えたような笑み。心配そうに兄を見上げる目。
「疲れた」
それだけ言って、リゼットの横を通り過ぎた。
書斎に入り、扉を閉めた。
リゼットは玄関広間に立ったまま、閉ざされた扉を見つめていた。
伸ばしかけた手が、行き場をなくして下がった。
廊下に使用人の足音が通り過ぎた。リゼットに目を向けたが、何も言わず通り過ぎていった。
リゼットは扉の前で、しばらく動かなかった。
やがて、一人で廊下を戻っていった。
クレーネ。銀鈴亭。
シルヴィアは食堂の奥の壁を見上げていた。
漆喰が薄くなっている。開業当初から気になっていた箇所だ。客室の壁も同様で、塗り直せば見栄えがだいぶ良くなる。
帳簿を開いた。
今月の収支を確認する。仕入れを抑えた分が浮いている。蓄えから出せる範囲で、食堂のテーブルをもう一卓増やせるかもしれない。客室の壁の塗り直しも、白い漆喰なら自分で塗れる。
守るだけではなく、広げる段階に来ていた。
翌日から、シルヴィアは合間を縫って改装を始めた。
まず客室の壁から取りかかった。荷物を移動し、古い漆喰を落とす。埃が舞い、腕が痛くなる。
新しい漆喰を溶き、鏝で塗っていく。
薄く、均一に。一面ずつ。急いでも仕上がりが荒くなるだけだから、一日に一面ずつ進める。
夕方、一面を塗り終えた。
鏝を置いて、一歩下がった。
白い壁。まだ少し湿っていて、光を柔らかく弾いている。
悪くない。
客室を出て、食堂に戻った。
帳簿の前を通り過ぎるとき、視線がふと窓辺の席に向いた。
今日は誰も座っていない。テーブルの上に、午後の光が落ちている。
塗り終えたばかりの白い壁が頭に残っている。新しくなった部屋。きれいになった空間。
——あの人が次に来たとき。
その思考が浮かんだ。
浮かんだことに気づいて、シルヴィアは目を逸らした。
「……悪くない」
呟いたのは、壁の仕上がりについてだった。
そのはずだった。
なのに、呟いた瞬間の視線は窓辺の席の方角を向いていた。
シルヴィアはカウンターに入り、帳簿を開いた。数字に意識を戻す。明日の仕入れ。漆喰の残量。テーブルの追加費用。
手は動く。頭も動く。
宿を良くしたい。自分の手で、自分の場所を整えたい。
その動機の中に、もう一つの色が混じっていることを、シルヴィアは認めなかった。
認めないまま、次の壁に取りかかる段取りを組み始めた。
レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。夜。
グレンは書斎の机に向かっていた。
商会から戻って以来、ここから動いていない。夕食もリゼットとは取らず、使用人に膳を運ばせた。
机の引き出しを開けた。
あの帳簿があった。
前回は開かなかった。だが今夜は、手が伸びた。
革表紙を開く。
最初の頁。整然とした文字が並んでいた。
贈答品の履歴。各家の当主名。誕生日と婚姻記念日。好みの品目。過去に贈ったものの一覧と、重複を避けるための記号。
頁をめくる。
席順の慣例。どの家とどの家の当主を隣り合わせにしてはならないか。どの令嬢がどの子爵家の息子と折り合いが悪いか。会話の糸口になる話題と、避けるべき話題。
さらにめくる。
社交秘書への引き継ぎ事項。各家の文官の名前と性格の特徴。手紙の書式の好み。封蝋の色の使い分け。
三年分。
ハイゼンベルト家の社交に関わる全てが、一冊の帳簿に完璧に記録されていた。
グレンの手が、頁の上で止まった。
指先が、文字の上をなぞった。
シルヴィアの字だった。
丁寧で無駄のない、簡潔な筆跡。一度も書き損じがなく、訂正の跡もない。三年間、毎日のように書き足されてきた記録だった。
なぜ僕は、これを見たことがなかったんだ。
その問いが浮かんだ。
答えの入口が、すぐそこにあった。見なかったのは——自分が見ようとしなかったからだ。
だがグレンの思考は、そこへ届く前に曲がった。
——なぜ、見せてくれなかったんだ。
帳簿を持ったまま、椅子の背にもたれた。
天井を見上げた。
これだけの記録があれば、社交秘書への引き継ぎもできたはずだ。使用人に渡しておいてくれれば、ここまで崩れることはなかった。
なのに、置いていった。黙って。
シルヴィアが去る前に、この帳簿を誰かに託す義理はなかった。彼女自身が三年間かけて積み上げた記録だ。持ち去ることも、燃やすことも、彼女の自由だった。
だが、グレンの中でその理屈は形にならなかった。
「……見せてくれていれば」
呟いた声は、書斎の壁に吸い込まれて消えた。
帳簿を閉じた。引き出しには戻さず、机の上に置いた。
指先が表紙の革に触れたまま、しばらく動かなかった。
廊下を通りかかったリゼットが、半開きの書斎の扉の隙間から中を見た。
兄が机に向かっている。ランプの灯りの下で、一冊の帳簿を前に、背中を丸めて座っている。
いつもの柔和な笑みはなかった。
リゼットは扉の前で足を止めた。口が開きかけて、閉じた。
声をかけないまま、廊下を戻っていった。




