第2話「王宮の窓」
ここには、俺の席がある。ずっとあった。——なのに、座り心地を忘れている。
エルデシア王宮。東翼の執務室。
レナートは机に向かっていた。羊皮紙の束が積まれている。他国との通商条件の改定案。使節団の日程調整。港湾税の減免に関する嘆願書への回答草案。
外交担当の王子として、どれも職務の範囲内だった。
羽ペンを走らせる。文面を整え、封蝋を押す。一通。二通。三通。
手は止まらない。三週間前に復帰してから、滞りなくこなしている。宮廷の文官たちも「殿下のお戻りで助かります」と頭を下げた。
機能している。王子として、歯車として。
だが。
窓の外に目がいった。
執務室の窓は東を向いている。王都の屋根が連なり、その先に城壁があり、城壁の向こうに街道が伸びている。東部へ向かう街道。
クレーネへ続く道。
ペンが止まった。
食堂の匂いが浮かんだ。煮込みの湯気。焼きたてのパン。閉店後の、ランプの灯り一つだけの静けさ。
あの席に座っていたときの空気を、王宮の石壁は知らない。
レナートは視線を書簡に戻した。
四通目の封蝋を押す。五通目に取りかかる。
集中しろ。ここは俺の場所だ。生まれたときから用意されていた席だ。
なのに——あの宿の窓辺の席のほうが、体に馴染んでいた。
手が止まった。
右手が、無意識に拳を作っていた。
机の上で握りしめた指を見下ろす。焼き菓子の甘い匂いが、記憶の底から浮かび上がってきた。バターと蜂蜜。布に包まれた小さな包み。あの指先の温度。
開く。指を、開く。
深く息を吐いて、ペンを取り直した。
昼過ぎ。
執務室の扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
マルコだった。側近としての正式な装い。近衛の制服に剣帯。遊歴中の旅装とは別人のようだが、足音の消し方だけは変わらない。
「午後の使節との面会は二刻後です。書簡の処理が終わっていなければ、先に仕上げてしまったほうがよいかと」
「終わっている」
レナートは封蝋を押した最後の書簡を示した。
マルコは机の上の書簡の束をちらりと見た。朝から片づけた量は、通常の二日分に相当する。
何も言わなかった。言わない代わりに、扉を閉め、執務室に残った。
二人きりになった。
マルコの口調が変わった。
「いつまで書類の山に埋もれているつもりだ」
砕けた声。六年の付き合いが許す距離。
レナートはペンを置いた。
「仕事をしているだけだ」
「仕事の量が倍になっている。復帰してから毎日だ。文官が首を傾げてるぞ、殿下はいつからこんなに勤勉になったんだと」
レナートは答えなかった。
マルコは窓辺に歩み寄り、外を見た。東に伸びる街道。
「書類を増やしても、クレーネは近くならない」
レナートの指が、机の上で止まった。
沈黙が落ちた。
マルコは振り返らなかった。窓の外を見たまま、続けた。
「身分を伝えるつもりがあるなら、方法を考えなきゃならない。黙って座っていても、あの宿の扉は開かない」
レナートは椅子の背にもたれた。
天井を見上げた。
方法。それはわかっている。
国王に上奏する。東部の視察名目を得る。クレーネに赴き、直接伝える。
手順は明確だ。
だが——上奏するということは、シルヴィアの存在を宮廷に持ち出すということだ。「客と女将」の関係を、「王子と平民」の関係に変えてしまう。
あの食堂の空気を、宮廷の論理で塗り潰すことになる。
「……まだ、整理がついていない」
「整理がつくのを待ってたら、あの人が先に婆さんになるぞ」
レナートは目を閉じた。
マルコの言葉は乱暴だが、正確だった。
考えている間にも時間は過ぎる。あの宿で、あの人は一人で朝を迎え、鍋をかき混ぜ、客を送り出し、帳簿をつけ、鈴を磨いている。
俺がここで書類に埋もれている間も、あの席は空いたままだ。
目を開けた。
「マルコ」
「はい」
口調が戻った。側近の声。
「外交視察の名目で、東部の通商路を回ることは可能か。調べてくれ」
マルコの背中が、わずかに動いた。振り返る。
その目に、一瞬だけ光が走った。
「承知しました」
短い返答。だが口元がわずかに緩んでいた。それを隠すように一礼し、扉に向かった。
「マルコ」
「はい」
「クレーネは通商路上にあるか」
マルコは扉の取っ手に手をかけたまま、振り返らずに答えた。
「ありますよ。ど真ん中に」
扉が閉まった。
執務室に一人。
レナートは窓の外を見た。東へ伸びる街道。その先に、見えない町がある。
あの食堂の空気を、王宮の石壁が覚えていてくれるはずがない。
だから——自分が、行かなければ。
ペンを取った。次の書簡ではなく、白い紙を引き寄せた。
上奏のための文面を、頭の中で組み立て始めた。
レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。
グレンは屋敷の広間に立っていた。
長テーブルの上に、茶器が五人分並んでいる。銀の燭台に火が入り、壁際には菓子の皿が整えられている。
小規模な茶会。グレンが自ら声をかけ、五家に招待状を送った催しだった。
だが広間には、二人しかいなかった。
オルテガ男爵家の夫人と、その付き添いの侍女。
五家のうち三家が辞退の返書を寄越した。「所用につき」「日程の都合により」「遠方への旅行のため」。理由はそれぞれだったが、意味は同じだ。
残った二家のうち一家は、当主ではなく夫人だけを寄越した。
グレンは微笑みを浮かべていた。いつもの、柔和な笑み。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「いいえ。……お忙しいところ、こちらこそ」
オルテガ夫人の声は丁寧だったが、視線が泳いでいた。五人分の茶器と、二人だけの広間を見比べている。
茶会は始まった。
グレンは手慣れた様子で話題を振った。天候の話。街道の整備の話。近隣の領地で開かれる秋の収穫祭の話。
だが会話は弾まなかった。
オルテガ夫人は相槌を打ちながらも、視線が何度も時計塔の方角に向いた。侍女が夫人の袖をそっと引いたのが見えた。
一刻と経たないうちに、夫人は立ち上がった。
「本日はお招きありがとうございました。夕刻までに戻らねばなりませんので」
「ああ、それは。お気をつけて」
グレンの微笑みが、一瞬だけ張りついた。剥がれかけて、すぐに戻した。
夫人と侍女が広間を出ていく。扉が閉まった。
広間に一人。
五人分の茶器。手のつけられていない菓子皿が三つ。空の椅子が四つ。
グレンは椅子に座ったまま、菓子の皿を見つめていた。
使用人が片付けに来たが、グレンは手を上げて止めた。
「……もう少し、このままにしておけ」
声に力がなかった。
使用人は頭を下げて下がった。
広間の空気が、ゆっくりと冷えていく。
蝋燭の炎が一つ、芯まで燃え尽きて消えた。
グレンは動かなかった。
やがて廊下から足音が近づいてきた。
書斎の方角から来た老執事が、広間の入口で足を止めた。
「若さま。社交秘書のヴェーバーから申し出がございます」
「何だ」
「辞職のお申し出です。他家からお声がけをいただいたとのことで」
グレンの指が、茶杯の取っ手を握りしめた。
社交秘書。先月雇い入れたばかりの男だ。シルヴィアが去った後の社交実務を補うために、グレン自身が面接して採用した。
「……引き留めは」
「ヴェーバーの意思は固いようでございます」
沈黙が落ちた。
グレンの指が、茶杯から離れた。
「わかった。手続きを進めろ」
声は平坦だった。怒りは、もう出なかった。怒る相手がいなかった。
老執事が頭を下げて去った後、広間には蝋燭の燃え残りの匂いだけが漂っていた。
グレンは茶杯を見下ろした。冷めた茶が底に沈んでいる。
「時期が悪かっただけだ」
呟いた。
広間の窓から、夕暮れの庭が見えた。手入れの行き届いた薔薇。整った芝生。変わらない景色。
変わったのは、この屋敷の中身だ。
グレンは立ち上がった。
書斎に向かった。
机の上に、辞退の返書が三通並んでいた。社交秘書の辞職届が、その横に加わることになる。
引き出しを開けた。ペンを取ろうとして、手が止まった。
引き出しの奥に、見覚えのない帳簿が一冊あった。
——いや。見覚えがないのではない。見たことがなかっただけだ。
革表紙の、古い帳簿。ハイゼンベルト家の紋章が刻印されている。
開かなかった。
引き出しを閉め、ペンを取った。
帰路の馬車の中で、声が聞こえていた。今日の茶会から帰るオルテガ夫人の馬車ではない。もっと前——あの夜会の後、帰路についた貴族たちの馬車の中で交わされたであろう声。
「ハイゼンベルト家はもう長くないかもしれませんわね」
グレンの耳にはその声は届かない。
だが書斎の机に座り、書類に向かったまま動かない指先が、同じことを告げていた。




