表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたの隣は最初から、私の場所じゃなかったみたいなので。  作者: 月雅
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/40

第2話「王宮の窓」

ここには、俺の席がある。ずっとあった。——なのに、座り心地を忘れている。


エルデシア王宮。東翼の執務室。


レナートは机に向かっていた。羊皮紙の束が積まれている。他国との通商条件の改定案。使節団の日程調整。港湾税の減免に関する嘆願書への回答草案。


外交担当の王子として、どれも職務の範囲内だった。


羽ペンを走らせる。文面を整え、封蝋を押す。一通。二通。三通。


手は止まらない。三週間前に復帰してから、滞りなくこなしている。宮廷の文官たちも「殿下のお戻りで助かります」と頭を下げた。


機能している。王子として、歯車として。


だが。


窓の外に目がいった。


執務室の窓は東を向いている。王都の屋根が連なり、その先に城壁があり、城壁の向こうに街道が伸びている。東部へ向かう街道。


クレーネへ続く道。


ペンが止まった。


食堂の匂いが浮かんだ。煮込みの湯気。焼きたてのパン。閉店後の、ランプの灯り一つだけの静けさ。


あの席に座っていたときの空気を、王宮の石壁は知らない。


レナートは視線を書簡に戻した。


四通目の封蝋を押す。五通目に取りかかる。


集中しろ。ここは俺の場所だ。生まれたときから用意されていた席だ。


なのに——あの宿の窓辺の席のほうが、体に馴染んでいた。


手が止まった。


右手が、無意識に拳を作っていた。


机の上で握りしめた指を見下ろす。焼き菓子の甘い匂いが、記憶の底から浮かび上がってきた。バターと蜂蜜。布に包まれた小さな包み。あの指先の温度。


開く。指を、開く。


深く息を吐いて、ペンを取り直した。


昼過ぎ。


執務室の扉が控えめに叩かれた。


「失礼します」


マルコだった。側近としての正式な装い。近衛の制服に剣帯。遊歴中の旅装とは別人のようだが、足音の消し方だけは変わらない。


「午後の使節との面会は二刻後です。書簡の処理が終わっていなければ、先に仕上げてしまったほうがよいかと」


「終わっている」


レナートは封蝋を押した最後の書簡を示した。


マルコは机の上の書簡の束をちらりと見た。朝から片づけた量は、通常の二日分に相当する。


何も言わなかった。言わない代わりに、扉を閉め、執務室に残った。


二人きりになった。


マルコの口調が変わった。


「いつまで書類の山に埋もれているつもりだ」


砕けた声。六年の付き合いが許す距離。


レナートはペンを置いた。


「仕事をしているだけだ」


「仕事の量が倍になっている。復帰してから毎日だ。文官が首を傾げてるぞ、殿下はいつからこんなに勤勉になったんだと」


レナートは答えなかった。


マルコは窓辺に歩み寄り、外を見た。東に伸びる街道。


「書類を増やしても、クレーネは近くならない」


レナートの指が、机の上で止まった。


沈黙が落ちた。


マルコは振り返らなかった。窓の外を見たまま、続けた。


「身分を伝えるつもりがあるなら、方法を考えなきゃならない。黙って座っていても、あの宿の扉は開かない」


レナートは椅子の背にもたれた。


天井を見上げた。


方法。それはわかっている。


国王に上奏する。東部の視察名目を得る。クレーネに赴き、直接伝える。


手順は明確だ。


だが——上奏するということは、シルヴィアの存在を宮廷に持ち出すということだ。「客と女将」の関係を、「王子と平民」の関係に変えてしまう。


あの食堂の空気を、宮廷の論理で塗り潰すことになる。


「……まだ、整理がついていない」


「整理がつくのを待ってたら、あの人が先に婆さんになるぞ」


レナートは目を閉じた。


マルコの言葉は乱暴だが、正確だった。


考えている間にも時間は過ぎる。あの宿で、あの人は一人で朝を迎え、鍋をかき混ぜ、客を送り出し、帳簿をつけ、鈴を磨いている。


俺がここで書類に埋もれている間も、あの席は空いたままだ。


目を開けた。


「マルコ」


「はい」


口調が戻った。側近の声。


「外交視察の名目で、東部の通商路を回ることは可能か。調べてくれ」


マルコの背中が、わずかに動いた。振り返る。


その目に、一瞬だけ光が走った。


「承知しました」


短い返答。だが口元がわずかに緩んでいた。それを隠すように一礼し、扉に向かった。


「マルコ」


「はい」


「クレーネは通商路上にあるか」


マルコは扉の取っ手に手をかけたまま、振り返らずに答えた。


「ありますよ。ど真ん中に」


扉が閉まった。


執務室に一人。


レナートは窓の外を見た。東へ伸びる街道。その先に、見えない町がある。


あの食堂の空気を、王宮の石壁が覚えていてくれるはずがない。


だから——自分が、行かなければ。


ペンを取った。次の書簡ではなく、白い紙を引き寄せた。


上奏のための文面を、頭の中で組み立て始めた。


レヴィアンス王国。ハイゼンベルト伯爵家。


グレンは屋敷の広間に立っていた。


長テーブルの上に、茶器が五人分並んでいる。銀の燭台に火が入り、壁際には菓子の皿が整えられている。


小規模な茶会。グレンが自ら声をかけ、五家に招待状を送った催しだった。


だが広間には、二人しかいなかった。


オルテガ男爵家の夫人と、その付き添いの侍女。


五家のうち三家が辞退の返書を寄越した。「所用につき」「日程の都合により」「遠方への旅行のため」。理由はそれぞれだったが、意味は同じだ。


残った二家のうち一家は、当主ではなく夫人だけを寄越した。


グレンは微笑みを浮かべていた。いつもの、柔和な笑み。


「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」


「いいえ。……お忙しいところ、こちらこそ」


オルテガ夫人の声は丁寧だったが、視線が泳いでいた。五人分の茶器と、二人だけの広間を見比べている。


茶会は始まった。


グレンは手慣れた様子で話題を振った。天候の話。街道の整備の話。近隣の領地で開かれる秋の収穫祭の話。


だが会話は弾まなかった。


オルテガ夫人は相槌を打ちながらも、視線が何度も時計塔の方角に向いた。侍女が夫人の袖をそっと引いたのが見えた。


一刻と経たないうちに、夫人は立ち上がった。


「本日はお招きありがとうございました。夕刻までに戻らねばなりませんので」


「ああ、それは。お気をつけて」


グレンの微笑みが、一瞬だけ張りついた。剥がれかけて、すぐに戻した。


夫人と侍女が広間を出ていく。扉が閉まった。


広間に一人。


五人分の茶器。手のつけられていない菓子皿が三つ。空の椅子が四つ。


グレンは椅子に座ったまま、菓子の皿を見つめていた。


使用人が片付けに来たが、グレンは手を上げて止めた。


「……もう少し、このままにしておけ」


声に力がなかった。


使用人は頭を下げて下がった。


広間の空気が、ゆっくりと冷えていく。


蝋燭の炎が一つ、芯まで燃え尽きて消えた。


グレンは動かなかった。


やがて廊下から足音が近づいてきた。


書斎の方角から来た老執事が、広間の入口で足を止めた。


「若さま。社交秘書のヴェーバーから申し出がございます」


「何だ」


「辞職のお申し出です。他家からお声がけをいただいたとのことで」


グレンの指が、茶杯の取っ手を握りしめた。


社交秘書。先月雇い入れたばかりの男だ。シルヴィアが去った後の社交実務を補うために、グレン自身が面接して採用した。


「……引き留めは」


「ヴェーバーの意思は固いようでございます」


沈黙が落ちた。


グレンの指が、茶杯から離れた。


「わかった。手続きを進めろ」


声は平坦だった。怒りは、もう出なかった。怒る相手がいなかった。


老執事が頭を下げて去った後、広間には蝋燭の燃え残りの匂いだけが漂っていた。


グレンは茶杯を見下ろした。冷めた茶が底に沈んでいる。


「時期が悪かっただけだ」


呟いた。


広間の窓から、夕暮れの庭が見えた。手入れの行き届いた薔薇。整った芝生。変わらない景色。


変わったのは、この屋敷の中身だ。


グレンは立ち上がった。


書斎に向かった。


机の上に、辞退の返書が三通並んでいた。社交秘書の辞職届が、その横に加わることになる。


引き出しを開けた。ペンを取ろうとして、手が止まった。


引き出しの奥に、見覚えのない帳簿が一冊あった。


——いや。見覚えがないのではない。見たことがなかっただけだ。


革表紙の、古い帳簿。ハイゼンベルト家の紋章が刻印されている。


開かなかった。


引き出しを閉め、ペンを取った。


帰路の馬車の中で、声が聞こえていた。今日の茶会から帰るオルテガ夫人の馬車ではない。もっと前——あの夜会の後、帰路についた貴族たちの馬車の中で交わされたであろう声。


「ハイゼンベルト家はもう長くないかもしれませんわね」


グレンの耳にはその声は届かない。


だが書斎の机に座り、書類に向かったまま動かない指先が、同じことを告げていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ