第1話「窓辺の空席」
朝の陽が、食堂の床を四角く切り取っていた。
乾いた風が、開け放した窓から入ってくる。街道の荷馬車が轍を刻む音が、遠くから規則正しく聞こえていた。
シルヴィアは厨房の鍋の火加減を確かめてから、食堂に出た。
テーブルを拭く。皿を並べる。ランプの芯を整える。塩の壺を補充し、パンの籠に布を敷く。
開業四ヶ月目の朝。手順は体に染みついていた。
銀鈴亭の客足は安定していた。街道を行き来する商人たちの間で噂が定着したらしく、週の半分は宿泊客がつく。先週は一晩に四組が泊まり、朝食の卵が足りなくなりかけた。
ゲルツ親方との取引も広がっている。先月からは羊肉に加えて仔牛も回してもらえるようになった。「あんたのところは注文が安定してるからな」と親方は言った。仕入れの幅が広がれば、献立の幅も広がる。
帳簿の数字は、確実に上向いている。
一人で回している。一人で、回せている。
テーブルを一卓ずつ拭いていく。三卓目。四卓目。
窓辺の席に来た。
布巾が、止まった。
椅子はきちんと整えられている。テーブルの木目に染みはない。他の席と何も変わらない、ただの空席だ。
なのに、布巾を動かす手がいつもより丁寧になっていた。他のテーブルは一往復で済ませた。この席だけ、二度、三度と布巾を滑らせている。
シルヴィアはそれに気づいて、手を止めた。
布巾を絞り直す。
——ただの空席だ。
そう結論づけて、カウンターに戻った。
からん、と銀の鈴が鳴った。
街道帽を被った男が食堂に入ってきた。肩に革の鞄。靴に泥。四十がらみの商人だろう。人懐こい目がカウンターを見回している。
「一泊、頼めるかい」
「いらっしゃいませ。お食事はつけますか」
「頼むよ。街道筋でここの飯がうまいって聞いてね」
「ありがとうございます。お部屋にご案内します」
宿帳を開く。ペンを渡す。男は名前と身元欄を丁寧に埋め、鞄を持ち直した。
二階へ案内し、鍵を渡し、食事の時間を伝える。
いつもの手順。何も変わらない朝。
厨房に戻り、煮込みの鍋をかき混ぜた。根菜が柔らかくなっている。塩を少し足して、味見をした。
悪くない。
夕食の時間。
食堂には三組の客がいた。朝の商人と、昼過ぎに到着した夫婦連れ、それから街道の荷馬車の御者。
シルヴィアは皿を運び、注文を聞き、厨房に戻って鍋をかき混ぜた。
商人が煮込みを一口食べて、顔を上げた。
「うまいな、これは。この町に来る楽しみが増えたよ」
「ありがとうございます」
シルヴィアは小さく頭を下げて、空いた皿を下げに行った。
この場所が、自分の力で広がっている。客が来て、食事を出して、また来ると言ってもらえる。三年間、他人の家のために回していた歯車とは違う。自分の名前で、自分の金で動かしている宿だ。
夫婦連れの妻が「パンもおかわりいいかしら」と声をかけてきた。「もちろんです」と答えて、籠にパンを盛り直す。
忙しいのはいいことだ。手が動いている間は、余計なことを考えずに済む。
閉店後。
最後の客が二階に上がり、食堂に静けさが降りた。
テーブルを拭いて回る。皿を重ね、椅子を元の位置に戻す。
窓辺の席。
今夜は御者が座っていた。パン屑が少し残っている。布巾で拭き取り、椅子を整えた。
誰が座ってもいい席だ。今夜は御者が座り、明日は別の誰かが座る。
それだけのこと。
なのに——朝と同じだった。布巾を動かす手が、この席だけ丁寧になる。
シルヴィアは布巾を置いた。
カウンターに戻り、帳簿を棚から出した。ペンを取り、今日の収支を記入していく。宿泊費三組分。食事代。仕入れの支出。銅貨の出入りを一つずつ。
数字を追う目が、ふと止まった。
一ヶ月前の頁。宿泊費が記入された最後の行。その横の身元欄。空白のまま閉じた、あの空欄。
ペンを動かした。今日の数字に戻る。
帳簿を閉じたのは、蝋燭が半分ほどに短くなった頃だった。
立ち上がり、厨房に入った。明日の仕込みの下準備。煮込み用の豆を水に浸す。鶏肉の下味をつける。
棚から調味料を取り出す手が、焼き菓子の型の前で止まった。
バターと蜂蜜の素朴な焼き菓子。宿の客に出す分を、週に二度ほど焼いている。
型を手に取った。粉を量り、バターを刻む。蜂蜜の壺から匙を入れる。
生地をまとめていく途中で、指が止まった。
蜂蜜の量が多い。
いつもの配合より、ほんの少しだけ。意識して変えたのではない。手が勝手に量を増やしていた。
甘めの配合。あの人が食べたとき、目を閉じて咀嚼していた、あの焼き菓子の配合。
シルヴィアは匙を持ったまま、手元を見つめた。
首を振った。
客に出しても問題ない甘さだ。このまま焼けばいい。
窯に火を入れた。
焼き上がりを待つ間、前の人生の記憶が薄い警告を鳴らしていた。
誰かを意識すること。誰かの好みに手が動くこと。それは依存の入口だ。相手の形に自分を合わせ、自分を削り、最後に何も残らなかった。あの轍を知っている。
でも、とも思う。
あの人は何も求めなかった。料理を食べ、静かにそこにいて、「美味かった」と言っただけだ。こちらの形を変えろとは、一度も言わなかった。
——あの人は違う。
その直感と、前世の警告が、胸の中でぶつかっている。
シルヴィアはどちらにも結論を出さなかった。出さないまま、窯から焼き菓子を取り出した。
ほんの少し甘めの、蜂蜜の香り。
明日、客に出す。誰が食べてもいい菓子だ。
食堂に戻った。ランプを一つだけ残して、銀の鈴を布巾で磨いた。扉の金具に掛け直す。
暗い食堂の中で、窓辺の席がぼんやりと浮かんでいた。
「ここは私の場所だ。誰かが帰ってくるために守っているのではない」
声に出して、自分に確かめた。
——でも、あの席だけ埃が積もらないのは、なぜだろう。
答えは出さなかった。
蝋燭を吹き消した。
翌朝。市場。
シルヴィアは乾燥豆の棚で品を選んでいた。粒の揃いを確かめ、籠に移す。香草の束も二つ。
「おかみさん、おはよう」
隣の台から声がかかった。仕立屋の女房だった。干し果物の袋を手に、にこにこと近寄ってくる。
「おはようございます」
「ねえ聞いた? エルデシアの王子様が遊歴から戻ったんだって。第二王子殿下、なかなかの男前だそうよ」
市場の噂話だった。街道を行き交う商人が運んでくる、他愛のない話題。
「そうですか」
シルヴィアは豆の代金を数えながら、相槌を返した。
「まだお若いんでしょう。どんなお妃様を迎えるのかしらねえ」
「さあ。王家のことは存じませんので」
銅貨を台に置いた。
「あ、それとね」
女房が声を落とした。
「レヴィアンスの伯爵家は今も大変だそうだよ。使用人が逃げ出してるって」
「そうですか」
それだけ返して、軽く会釈し、歩き出した。
足は止まらなかった。振り返りもしなかった。
街道沿いの道を歩く。籠の中で豆と香草が揺れる。
伯爵家の話には、もう何も感じない。あの場所はとうに自分の場所ではなくなっている。
ただ——女房の言葉の中で、別の一語が耳の奥に残っていた。
遊歴。
ある夜、壁越しに聞こえたマルコの声が蘇った。「そろそろ遊歴の期限が近い」。
あの言葉と、今朝の噂。
第二王子。遊歴。
点が二つ、浮かんだ。
線にはならない。なる道理がない。あの無口な旅の青年と、王子という言葉は結びつかない。
シルヴィアは歩きながら、その点を意識の隅に押しやった。
考えても仕方のないことだ。
銀鈴亭の扉が見えた。朝の光の中で、銀の鈴が小さく揺れている。
今日の仕込みは豆のスープにしよう。常連の商人が来る曜日だ。
手を動かそう。今日も、明日も。
扉を開けた。
食堂に朝の光が満ちている。窓辺の席は空いたまま、昨夜磨いたテーブルが静かに光を受けていた。




