8.
翌朝、森の家にはいつも通りの光が差していた。
薬草の匂い。
乾いた木の床。
薬缶の小さな音。
何も変わっていないように見える朝だった。
リナは少し早く起きて、いつも通り患者の対応をしていた。
エドガーは、「行ってくる」とゆってどこかへ出かけてしまった。
手は動く。
体も動く。
けれど、頭のどこかがぼんやりしている。
「……普通にしないと」
小さく呟く。
昨日のことは考えない。そう言われた。
だから、考えない。
扉が開き、最初の患者が入ってくる。
いつも通りの腰痛、風邪薬、湿布の処方。
リナはいつも通りに笑う。
いつも通りに話す。
問題はない。
――はずだった。
昼前。一通り患者さんが落ち着いた。
噂好きのおばさんたちは昨日夕方門番たちの騒ぎがあったことを話していた。
診療所の扉が、やや強く開いた。
「リナ!」
聞き慣れた声。ガレスだ。
リナは一瞬、肩を跳ねさせる。
「ガレスさん……?」
ガレスは息を整えながら、周囲を一度だけ見渡す。
そして声を落とした。
「来い」
短い。リナは瞬きをする。
「え?」
ガレスの顔は、いつもの門番のそれではなかった。
軽口もない。
冗談もない。
完全に“仕事の顔”だった。
「領主様が呼んでる」
その一言で、空気が変わる。
診療所の中の患者たちが一瞬黙る。
『この子は何をしたんだ?』と、噂好きのおばさんたちが目を向けている。
リナの手が止まる。
「……領主様?」
ガレスは頷く。
「この領地、ローゼンディアの領主様だ。恐らく、昨日の件だろうな」
昨日の件。
その言葉で、胸の奥が嫌な形で動く。
リナは思わず口を開きかける。
けれど、ガレスが先に続けた。
「早い方がいい。騎士がもう迎えを寄越してる」
外を見ると、確かにそれらしい馬車が待っていた。
簡素ではない。
だが“商人のもの”でもない。
明らかに軍寄りの空気を持った車体。
リナは一歩下がる。
「私……何か、まずいことしましたか?」
ガレスは少しだけ迷ってから、首を振る。
「俺は知らん」
「ただ、呼ばれてる。それだけだ」
それが逆に不安を増幅させた。
診療所の奥で、誰かが咳をする音がやけに大きく聞こえる。
リナは手を握ったり開いたりする。
「おじいちゃんに……」
言いかけたところで、ガレスが遮る。
「もう伝わってる」
短い沈黙。
「……あの人は、こういうのは早い」
その言い方に、少しだけ救いのようなものが混じっていた。
リナは小さく息を吸う。
そして、頷いた。
「……わかりました」
籠を置く。
エプロンを外す。
ほんの数秒で、“日常”が切り替わる。
外へ出ると、馬車の影が濃く見えた。
森の空気とは違う。
重い、整えられた空気。
ガレスが先に歩き出す。
「行くぞ」
リナはその後ろに続いた。
頭のどこかで噂好きのおばさんたちがうるさくなるだろうな。と、考えていた。
馬車の前に着くと、騎士が一人、扉を開けた。
「リナ殿で間違いないな」
「……はい」
その名前の呼ばれ方に、また少しだけ現実感がずれる。
「同乗を」
リナは一瞬、躊躇する。
けれどガレスが小さく頷いた。
「行け」
その一言で、背中を押された。
馬車の中は静かだった。
革と金属の匂い。
窓は小さく、外の光は薄い。
リナが座ると、扉が閉まる。
外の音が遠ざかる。
――森とは違う場所へ行く。
その感覚だけが、はっきりと残った。
馬車が動き出す瞬間、リナはふと窓の外を見た。
いつもの診療所が、少しだけ小さく見えた。
噂好きのおばさんたちの姿は、もう見えなかった。




