【挿話】陽だまりの庭へ
俺は顔がいい。
自慢じゃない。事実だ。
鏡を見れば分かるし、見なくても周りが教えてくれる。何もしなくても、女のほうから寄ってきた。
可愛いね、と言えば頬を染める。綺麗だ、と囁けば目を伏せる。言葉ひとつで相手の顔色が変わるのが面白くて、同じ言葉を何度も使った。
毎晩、飽きるほど女と遊ぶ――それが御影聖治という男だった。
俺はこれを武勇伝と呼んでいる。息子に言わせれば、汚点らしい。
◇
ある年の春のことだった。親友が結婚することになった。
俺と違って真面目で、遊びもせず、一途な奴だった。新婦も可愛らしい人で、昔紹介されたときに手を出したかったが、親友にめちゃくちゃ怒られた。
その日、披露宴に呼ばれた。
「おめでとう」
「ありがとう。聖治、お前も遊んでないで身を固めたらどうだ?」
「俺はお前と違って、色んな女に求められるんだよ」
新婦がくすくすと笑っている。
そんな会話を交わして、席に戻った。
遠くから親友と新婦を眺める。二人は幸せそうに微笑み合い、挨拶に来る友人たちに、いちいち立ち上がって頭を下げていた。
――ふと、左側を見た。
一人だけ、席から動かない女がいた。
真っ黒なワンピース。艶のない生地に、花飾りもアクセサリーもない。髪も、ただ後ろでまとめただけ。華やかな会場の中で、そこだけが喪に服しているようだった。
女は、親友をじっと見つめていた。
何か決心したように腰を浮かせかけては、また座り直す。見えない糸で、椅子に縫い留められているみたいだった。
不意に、会場の照明が落ちた。
司会が二言三言話した後、正面のスクリーンに新郎新婦の歩みが映し出される。来賓が画面に目を向ける中、左側の人影が動いた。
さっきの女が、そっと立ち上がる。後方の扉へ向かい、静かに会場を出ていった。
「……ちょっと、お手洗い」
「今行くのかよ、聖治」
一緒に来ていた友人たちの声を背に、俺も会場を出た。
◇
女は引出物の紙袋を手に、式場を出ようとしていた。
「……もう帰るの?」
なぜか、声をかけていた。
近くで見ると、美人だった。
憂いを帯びた横顔で、察しがつく。あいつのことが好きだったのか。
傷心の女になら付け込めるかもしれない。いつもの遊び心が、頭をもたげた。
「……ええ。彼が幸せなのは、もう分かりましたから」
「良かったらお茶しない? 俺、話聞く――」
「結構です」
女は、俺の言葉を最後まで聞かなかった。
「あなたの噂は知っています。あなたの考えそうなことも。……あなたにも、彼にも、二度と会うことはないでしょう。さようなら」
踵を返し、女は足早に去っていく。
「ま、待ってよ!」
俺の声など、まるで聞こえていないようだった。
◇
あの日から、一ヶ月が経った。
取引先との約束まで、中途半端に時間が空いた。目についた喫茶店の扉を押す。
「……いらっしゃいま――」
女性の店員が、俺を見るなり固まった。俺も、彼女――いつか見た喪服の女を見て、同じように固まった。
「やあ、また会えたね」
俺は客だ。カウンターに座ると、彼女は追い返しもせず、渋々注文を取りに来た。
エプロンの下は、黒い服だった。
そして、露骨に嫌な顔をしている。
コーヒーを頼んだ。温かく、渋みのある一杯を口に含む。
「うま。これ、君が淹れたの?」
「……ええ」
「うまいなぁ。毎日飲みたい」
睨まれた。他意はなかった。……たぶん。
軽薄な男の言葉は、そういう意味にしか聞こえないらしい。
◇
それから俺は週に一度は彼女が働く喫茶店を訪れた。
彼女は怪訝な顔をしながらも、俺にコーヒーを淹れてくれた。
相変わらず、黒い服を着ている。
「君は黒い服が好きなの?」
「いけませんか?」
「いや。ただ、白が似合いそうだなと思って……」
彼女はトレーを胸に抱えたまま、少し黙った。
「……そうでしょうね。白石、ですから」
名前だと気づくのに、少しかかった。
「俺は御影。御影聖治。……白石さん、綺麗な名前だね」
「出会った女性全員に、そう言ってそうですね」
「そんなことないよ!」
俺はすぐさま否定したが、彼女はまるで聞いていない。
「あなたの軽い言葉に寄ってくる人も、同じように遊びだったのかもしれません。でも、中には本気の女性もいたはずです。あなたは、そういう人たちを、その言葉で踏み躙ってきたんですよ」
何も言い返せなかった。
彼女の言う通りだった。顔も覚えていない誰かが、本気だったのかもしれない。考えたことすらなかった。
その夜、かかってきた電話に、俺は出なかった。
次の夜も、その次の夜も。
◇
店に通うのは、やめなかった。
カウンターの端が、いつの間にか俺の席になっていた。
「……あいつのどこが好きだったの?」
ある雨の日だった。店の中にまで、雨音が響いている。
客が俺ともう一人くらいしかいない時間に、静かに訊いた。
「あなたと違って、一途なところが」
「手厳しいなあ」
「……ずっと、好きでした」
布巾が、グラスの縁をゆっくりと回る。
「彼が彼女に一途なことは、わかっていました。それも含めて、好きでした」
「告白しなかったの?」
「……言っても結果は変わらないし、彼と彼女の間を邪魔したくなかったので。……なにより、それを言うことで今の関係が壊れることが、怖かったんです」
彼女は少し寂しげな表情で、俺に目を向けた。
「……本気になったことのないあなたには、わからないでしょうね」
そう言って彼女はカウンターの奥へ消えた。
その日の会計は、この店の店長らしきおじさんがしてくれた。
「……色男のお客さん、そんなに落ち込まなくていいよ」
「え?」
店長がレジのボタンを押しながら、俺を慰める。
「あの子があんなに喋っているのは珍しい」
「そうなの?」
「ええ。それに、お客さんには強気で言い返している。……あんなに口の強い、素のあの子を初めて見たよ」
店長はほっとしたように口元を緩めて、お釣りを渡してくれた。
釣り銭を受け取りながら、俺もたぶん、同じようににやけていたと思う。
◇
気付けば、喫茶店に通うのが日課になっていた。
携帯の電話帳から、遊びの女の名前は、もう一つも残っていなかった。
ある日、彼女を食事に誘った。予想通り、断られた。
それでも、めげなかった。女の名前が一つも残っていない電話帳を見せたりもした。
何度目かの誘いで、彼女は一度だけだと言って、折れてくれた。
夜景の見えるレストランの前に、二人で立つ。
「お洒落なところですね」
「ま、まあね」
「緊張してるんですか?」
女に慣れているはずの俺の体が、珍しく固かった。扉の前で、頭をぽりぽりと掻く。
「……なんでだろうね」
「ふふっ……。まあ、行きましょう」
リードするはずが、彼女の方が先に扉を開けて、さっさと入ってしまった。
こんなことは、初めてだった。
席に着き、ワインを飲み、食事がある程度進んだ頃には、酒のおかげか緊張もほぐれていた。
「……白石……御影……白、御影……石……」
「何をぼやいているんですか」
呪文のように呟く俺に、彼女が鋭く突っ込む。
「白御影石って知ってる?」
「墓石ですか」
「うん……うん! それで――」
「お断りします」
「何で!? てか、まだ何も言ってないけど!?」
「どうせ、いっしょの墓に入りましょうとか言うんでしょう? 今までそれで女性を――」
「君の言うとおり、今まではそうだった。でも、今は……」
思わず立ち上がった。
「俺は、君と話すのが楽しい。もっと君と一緒にいたい。……こんな気持ちは、初めてなんだ」
彼女は、俺の言葉を黙って聞いていた。興奮している俺とは逆に、どこまでも冷静だった。目線だけで、座るよう促される。
「……あなたの気持ちは、分かりました。だけど、駄目です」
静まり返った店内で、彼女の拒否の声だけが、はっきりと聞こえた。
「……自分の気持ちを、裏切ることになります」
俺が嫌だから、とは言われなかった。
促されるまま、席に腰を下ろした。テーブル越しに、声を落とす。
「……それでも、いいんじゃないか」
「え?」
「君の気持ちが、ずっとあいつに向いたままでもいい。……それでも俺は、君といたい」
彼女は虚を突かれたように、目を丸くしたまま黙っていた。
「あいつを好きなままでいい。その上で、他の誰かを好きになってもいい。それは、裏切りなんかじゃないよ」
テーブルの上で、彼女の指がわずかに動いた。
「人はきっと、そんなに強くない。……そういう自分を、許してあげなよ」
彼女は、まるで痛みを押さえるように、胸に手を当てていた。
その顔を、俺は知らなかった。いつも俺を言い負かしてきた人の、どこにも隠れ場所のない顔だった。
好きでいてはいけないと、ずっと自分に言い聞かせてきたのだろう。誰にも下ろせなかった荷物を、初めて、ここに置いてもいいと言われた。そんな顔に見えた。
◇
仕事の後の夜の誘いを、すべて断るようになった。
夕方の職場で、悪友たちには散々茶化された。
「どうした、聖治。病気か?」
「それともいい女が?」
面白そうに、囃し立てる。
「手強い女がいてさ……」
彼女には、可愛いも綺麗も、その程度の言葉は通じない。散々使ってきた言葉なのに、何の役にも立たなかった。
彼女の目は、いつも俺の肩越しに遠くを見ていた。
「聖治が落とせない女って、どんな人なんだろうね?」
「絶対いい女だろ。今度紹介してくれよ!」
「……ああ、いいぜ」
そう答えて、俺はポケットの中の小箱をそっと握った。
紹介するなら、これを渡してからだ。
◇
週末の夕方、いつもの喫茶店で彼女を待った。
この後、あのレストランへ連れて行くつもりだった。夜景の見える窓際の席を、今度はちゃんと予約してある。
カウンターの端で、コーヒーが冷めていく。
扉のベルが鳴った。
「お待たせしました」
仕事終わりの彼女が、エプロンを外しながら近づいてくる。今日も、黒い服だった。
「いや、全然。じゃあ、行こうか」
立ち上がって、上着を羽織った。
その拍子だった。
ポケットから、何かが滑り落ちた。
小さな箱が床で跳ね、ころころと転がっていく。
彼女の靴の先で、止まった。
白石さんが屈んで、それを拾い上げる。
「……これって」
「あー! あーーー!!」
店中の視線が、こちらに集まった。
カウンターの奥で、店長がカップを拭く手を止めている。窓際の常連客が、新聞から顔を上げている。
彼女は手の中の箱と、俺の顔を見比べた。
それから、吹き出した。
「……あなたは、私の前だと、何もかも上手くいきませんね」
口元を押さえて、肩を震わせている。
「……違う場所で、渡すつもりだったんだけどな」
頭を掻いた。耳まで熱かった。
もう、どうにでもなれ、だ。
彼女の手から、箱を受け取る。蓋を開けて、もう一度、差し出した。
「……いつも強がってる君が、弱音を吐ける相手でいたい」
周りの視線が、急にどうでもよくなった。
「泣きたい時も。それから、あわよくば、笑ってる時も。……俺が隣にいることを、許してくれるかい?」
白石さんは、箱の中の小さな光を見つめていた。
何も言わなかった。
ただ、目の縁に何かが溜まっていくのが見えた。瞬きひとつで堰が切れ、頬を伝い、床に落ちる。
初めて見る、この人の泣き顔だった。
「……仕方ないですね」
濡れた指が、指輪を摘まんだ。
一拍遅れて、店中が沸いた。
「おめでとう!」
「やっとか!」
「遅いよ、お兄さん!」
拍手と口笛の中で、店長がカウンターから出てきた。手には、小さな白い箱。
「そろそろかなと思って、用意してたんですよ」
箱から出てきたのは、簡素な白いベールだった。
「あなたたち二人を、毎日やきもきしながら見てましたよ」
店長は笑って、ベールを俺に手渡した。
受け取って、白石さんの頭にそっと被せる。
彼女はベールの下で、俯いたままだった。
「……やっぱり、白が似合うじゃないか」
「……そうでしょうね。白石……いえ」
彼女が、顔を上げる。
ベールをめくってやると、潤んだ瞳のまま、微笑んでいた。
「……白御影、ですから」
◇
式は、挙げなかった。
彼女の意思を尊重して、あの日の夜を、俺たちの記念日にした。
あれほど毎晩、夜を駆け巡っていた俺が、一箇所に留まるなんて。嘘のような日々だった。
「ママ、俺はいつものコーヒーね」
「はいはい」
喫茶店で磨いた腕で、妻は食卓にコーヒーを出す。俺の隣には、ホットミルクが置かれた。
五歳の息子が、ぬるめのホットミルクを、さらにふうふうと冷ましながら、少しずつ飲む。
子どもが好きではない俺が、父親になるなんて――そんなことを考えながら、ホットミルクを啜る陽人の隣で、俺もコーヒーに口をつけた。
「パパ! 美味しい!」
振り向いた息子の口の上に、白い髭のようなミルクがついていた。
「……可愛い」
思わず、零していた。
その様子を見た妻が、いつものように、ふふっと笑った。
「……やっと、本音で言ったわね」
◇
陽人は、まっすぐ育った。
ただ、俺に似て女にモテた。
小学校の頃から、下駄箱に手紙が入るようになった。あいつは一通ずつ、ちゃんと封を開けて読んでいた。読み終えると困ったように眉を下げ、机の引き出しにしまう。嬉しそうな顔は、一度も見たことがない。
俺なら、封を開ける前からにやけていただろう。
中学に上がると、家の前で女の子たちが待ち伏せするようになった。
「父さん。……僕、風邪ひいてるって言ってくれる?」
頼まれるまま玄関を開け、熱を出して寝込んでいる、と伝えた。女の子たちは名残惜しそうに帰っていった。
「モテる男は辛いねえ」
「うるさいな」
それから、ぽつりと呟いた。
「……どうせみんな、顔しか見てない」
台所から、妻が顔を出した。
「でもね、陽ちゃん」
濡れた手をエプロンで拭きながら、陽人の隣に腰を下ろす。
「いつか本当に好きな子ができたら、ちゃんと言葉にしなさいね」
「なんで?」
妻は、少しだけ遠くを見た。
胸元にそっと手を当てて、続ける。
「ママね、初恋の人に、好きって言えなかったの。怖くて、言えなかった。結果は、きっと変わらなかったと思う。……それでも、せめて伝えたかったなって、少しだけ後悔してるのよ」
「初恋って……父さんじゃないの?」
陽人が、ちらりと俺を見た。
「そんなわけないじゃない。パパが行く当てがなくて可哀想だったから、仕方なく選んだのよ?」
「ママ……酷くない……?」
妻はこちらを向いて、「冗談よ」と軽く付け足した。
「でもね、それはそれで、間違ってなかったと思うの。だって、陽ちゃんに会えたもの」
妻の手が、陽人の頭に伸びる。
「私の人生に、聖治がいて、陽人がいる。これは、何にも代えられないわ」
言い返そうとした言葉が、喉の奥で止まった。
陽人は、まだよく分からないという顔をしていた。
俺だけが、その言葉の重さを知っていた。
◇
東京を出たいと言い出したのは、中学三年の冬だった。
「高校は、こっちじゃないところに行きたい」
夕飯の箸を置いて、陽人は言った。
「どこ行きたいんだ」
「どこでもいい。人が少なくて、落ち着けるところ」
それから少し間を置いて、付け加えた。
「……なんなら、名字も白石にしようかな」
「なんで?」
「女たらしの名字、使いたくないし」
妻が吹き出した。俺は箸を取り落としかけた。
「反抗期かよ!」
「事実でしょ」
言い返せなかった。
「いいじゃない。ママの綺麗な……穢れのない名字だし」
「ママ!?」
妻は笑いながら味噌汁を啜っている。止めるどころか、すっかり陽人の味方らしい。
「陽ちゃんなら一人暮らしでも、女遊びなんてしないでしょ?」
「……もったいねえ。俺ならするのに」
「しないよ、母さん」
陽人がにっこりと、安心させるように笑った。まるで俺とは違う、と言いたげだ。
「わかってるわよ。……でも。もし、したら……」
妻の目が鋭く陽人を捉えた。
「あ、あの……。神に誓って、しません……」
「うふふ。ちゃんと彼女が出来たら、紹介しなさいよ? ……ママが見極めますからね」
「怖え……」
男二人で震えながらも、陽人の一人暮らしに賛成した。
それから数日、夕飯のたびに地図を広げた。陽人が候補を挙げ、俺が茶々を入れ、妻が家賃を見て首を振る。
「ここは?」
指先で、山陰の小さな町を叩いた。
「朝霧……。聞いたことない」
「田舎だ。人も少ない。それに、ホタルが見られる」
「ホタル?」
「ああ、夏に見られるらしい。今、医療の方で光の研究も注目されてて、御影の仕事とも多少関係するし。田舎で暮らす経験も悪くないだろ」
陽人がじっとこちらを見た。
「……それ結局、継がせる気だろ」
「継ぎたくなけりゃ、継がなくていい。見ておいて損はないって話だ」
「どうだか」
陽人は溜息をついて、地図の上の小さな町を見下ろした。
「……まあ、いいけど」
翌年の春、白石陽人は朝霧町へ発った。
それから数奇な出会いがあり、高校二年の秋、あいつは一度東京に戻ってきた。
久しぶりに息子と食べる夕飯の席で、何気なく黒崎の若いCEOの話をした。
途端に、目の色が変わった。
――経営者になる、と。
深くは聞かなかった。ただ、その瞬間に、息子に火が点いていたことだけはわかった。
◇
息子は可愛い。
自慢だ。そして事実だ。
ただ、本人にそう言うと心底嫌そうな顔をされ、すり寄れば逃げていく。
――まあ、それも含めて可愛いんだけどな。
社長だというのに、妻にはからかわれ、息子には逃げられる。家の中の序列は、間違いなく一番下だ。
そんな毎日も悪くないと、にやけてしまう。
それが、父親になった御影聖治という男だ。
明日は、俺たちの記念日だ。毎年、三人であの喫茶店で待ち合わせる。先に来て待っているのは、いつも陽人だ。
今年も妻と並んで、店に入ろう。




