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正しさの致死量

作者: 雨羽善和
掲載日:2026/09/08

 同じ音楽を好きになり、少しずつ距離を縮めていった蒼汰と夏海。

 これは、二人が出会い、恋をして、やがて別々の道を選ぶまでを描いた青春恋愛の物語です。

 

 最後までお付き合いいただければ嬉しいです。

 正しいことは、間違っていることより安全だと思っていた。

 正しい言葉なら、大切な人を守れるとも思っていた。


 けれど、薬が量を誤れば毒になるように、正しさもまた、差し出し方を誤れば人を傷つける。


 大切だから、失敗してほしくない。

 大切だから、傷ついてほしくない。

 その願いが、いつから相手を苦しめるものへ変わったのか。


 十七歳の今井蒼汰には、『正しさにも、致死量があること』を、まだ分からなかった。


  *


 ——あれは高校二年の六月頃だった。

 進路希望調査票の第一志望欄を前にして、今井蒼汰は十分ほどシャープペンシルを動かせずにいた。


 窓の外には、梅雨の雲が切れ、蒼天色(クリスタル・ブルー)の空が広がっていた。

 教室にはまだ何人か残っていたが、進路希望調査票を提出し終えた者から順に、鞄を持って帰っていった。


 蒼汰の紙だけが、妙に白かった。

「ねぇ、蒼汰。また、眉間に皺が寄ってるよ」

 机の横から、軽やかな声がした。

 蒼汰が顔を上げるよりも先に、夏海(なつみ)の人差し指が眉間へ伸びてきて、寄った皺をくすぐるように、指先でそっとひと撫でした。

 

「……何すんだよ」

「また難しい顔して」

「どうでもいいだろ……」  

 夏海は小さく笑って、蒼汰の机の上を覗き込んだ。

「考えてるときは、いつもそうなるよね」

「癖なんだよ」

「難しい顔する癖?」

「ほっとけ」

「はいはい」

 夏海は気にした様子もなく笑った。

 蒼汰が素っ気なく返しても、それを必要以上に重く受け取らない。

 そんな夏海の軽やかさが、蒼汰は好きだった。


「で、第一志望は決まってるの?」

「東京の大学」

「それ、前にも聞いたよ。で、そのあとはどうするの?」

「そのあと?」

 蒼汰が訊き返すと、夏海は呆れたように笑った。

「将来は何になりたいのってことだよ」

 蒼汰は夏海の問いかけに、何も答えられなかった。 

 

「大手企業とか外資系企業とか……」

「とか?」

「大手なら安定してるし、外資なら給料もいいだろ」

「ふうん」

「何だよ」

「なんか蒼汰らしいね」

「じゃあ夏海は?」

「私?」

 

 夏海は、自分が書いた進路希望調査票を机の上へ置いた。

『第一志望 美容専門学校』

 そこには、迷いのない文字が並んでいた。

「私は将来、美容師になる」

「もう決めてるの?」

「中学のときから」

「そんな前から?」

「うん。そうだよ」


 夏海は少し照れたように笑った。

「髪切ったあとってさ、ちょっとだけ違う自分になれるじゃん」

「髪型変わっただけだろ」

「そういうところ、ほんと夢ないよね」

「事実だろ」

「……そうだけどさ」


 夏海は窓際へ歩き、夕方の光の中へ立った。

「でも鏡見たときに、昨日までの自分とちょっと違って見える瞬間ってあるじゃん。あれが好きなのよね」

 蒼汰にはそれが、よく分からなかった。

 ——けれども。

 夏海がその話をするときだけ、声が少し弾むことには気づいていた。


 夏海が鞄から取り出した美容専門学校のパンフレットには、いくつもの付箋が貼られていた。

 彼女は自分の将来を、自分の言葉ではっきりと語ることができた。


「美容師って大変らしいぞ」

 気づけば、蒼汰の口からそんな言葉が出ていた。

「知ってるよ」

「立ち仕事だし、最初は給料もそんな高くないって」

「うん。それも知ってる」

「離職率も高いみたいだし」


 夏海が振り返った。その拍子に、後ろでひとつに結んだ髪が、わずかに揺れた。 

「調べたの?」

「……前に少しだけ」

「なんで?」

「普通はそうするだろ。それに……」

「それに?」

「夏海のことが心配だから」

 夏海はしばらく蒼汰を見て、それから嬉しそうに笑った。

「ありがと、蒼汰」 

 そう言って笑われると、蒼汰は少しだけ視線を逸らした。真正面からその笑顔を見るのは、まだ少し照れくさかった。

 

 その笑顔を見て、蒼汰は正しいことをしたと思った。 

 好きな人が失敗しないよう、危険を先に教える。

 それが相手を大切にすることなのだと、その頃は信じていた。


     *


 二人のはじまりは、高校一年の五月だった。

 桜の木々は、薄緑色(ソフト・グリーン)の若葉を茂らせはじめていた。 

 

 新しい制服にも、教室にも、クラスメートの顔にも、ようやく少し慣れ始めた頃。蒼汰と夏海は、共通の知人に誘われて、学校帰りに何人かで駅前のファストフード店へ寄った。

 

 放課後の店内は、制服姿の高校生で騒がしかった。

 フライドポテトの油の匂い。炭酸飲料の入った紙コップの中で、氷が静かに鳴る音。誰かがくだらない冗談を言うたびに、テーブルを囲んだ一同が笑っていた。

 

 蒼汰はその輪の端で、片耳にイヤホンを入れていた。

 完全に会話を拒んでいるわけではない。話を振られれば答えるし、面白ければ笑う。

 ただ、ずっと誰かと話し続けているより、少しだけ距離を置いているくらいが楽だった。

 

 誘われれば参加するが、自分から話題を振ることは少ない。話を聞いて、ときどき相槌を打つ。それくらいが蒼汰にはちょうどよかった。

 

 周囲が笑っているからという理由だけで笑うこともなく、誰かの悪口が始まれば、そこへ加わらずに飲み物へ口をつけている。

 高校一年生にしては、少し冷めている。そんなふうに見られることもあった。


「ねえ、今井くん」

 不意に名前を呼ばれて、蒼汰はイヤホンを外した。

「何?」

「それ、何聴いてるの?」

「関係ないだろ」

「関係ないだろって曲?」

「んなわけないだろ」

 夏海が笑った。その笑い声につられて、向かいにいた友人も笑った。

 蒼汰は少し眉を寄せた。けれど、外したイヤホンを片耳へ戻そうとはしなかった。

 

「今さ、みんなで好きな音楽の話してたの。今井くんも何かない?」

「俺も?」

「だって一緒に来てるじゃん」

 あまりにも当たり前のことのように言われて、蒼汰は一瞬だけ返事に困った。こういうふうに会話の中へ引っ張られるのは、本来ならあまり好きではなかった。

 

 ——けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。

 

 夏海は、無理に喋らせようとしているようには見えなかった。ただ、そこにいる人間を一人だけ外へ置いておく方が不自然だとでもいうように、蒼汰へ話を振っただけだった。

「今井くんってさ」 

「何?」

「年の割には、落ち着いてるよね?」

「老けてるってこと?」

「違うよ」

 そこで夏海が笑った。

 

「なんていうか……同い年の男子とちょっと違う」  「意味分かんねえ……」

「そういうとこ」

 蒼汰は何が「そういうところ」なのか分からなかった。 

 

 夏海は、蒼汰とは反対によく笑う娘だった。話題が途切れそうになれば次の話を持ち出し、誰か一人が黙っていれば自然に会話へ引き入れる。

 失敗しても引きずらない。誰かに何か言われても、「まあ、何とかなるでしょ」と笑って次へ進む。

 蒼汰にはない軽さだった。だから最初は、それが心地よかった。  

 

 将来は美容師になりたいのだと、夏海はその頃から嬉しそうに話をしていた。

「人の髪いじるの、好きなんだよね」

 夏海はそう言って、友人の前髪を指先で摘まんだ。

「絶対こっちのほうがかわいいってば」

「ちょっと夏海、勝手に美容師始めんなよ」

「いいじゃん。無料なんだから」 

 店内に笑い声が広がった。蒼汰も、それにつられて少しだけ笑った。

 

 二人の距離が急に縮まったのは、それから数日後の学校帰りに、同じような顔ぶれで駅前のファストフード店へ寄ったときだった。

 

 テーブルの上には、誰かが持ってきた音楽雑誌が、ポテトや紙コップと共に無造作に置かれていた。

 表紙には、蒼汰たちの地元出身のロックバンド《紅月の楽団》が載っていた。

 夏海が何気なく雑誌を手に取ったとき、蒼汰の視線がそこへ向いた。それに気づいたらしい。

 

「今井くん、紅月の楽団、聴くの?」

「……聴くけど」

「え、ほんと?どの曲が好き?」

「『終幕の旋律』の中なら、『黒曜の残響』とか『紅い祈り』かな」

 それを聞いた瞬間、夏海の目が輝いた。

「うそ。私もその二曲好き!」

「へえ」

「何、その薄い反応」

「流行歌とか明るい感じの曲が好きそうだと思ってた」

「どういう意味よ」 

 夏海は身を乗り出すようにして話した。蒼汰も、いつの間にかいつもより少し多く喋っていた。

 

 それがきっかけで、それまでほとんど接点のなかった二人が、急に話すようになった。同じテーブルにいた友人の一人も、少し驚いたように蒼汰を見ていた。 

 

 夏海にとっては、自分が思いついたことを投げれば、蒼汰が少し違った角度から返してくれるのが楽しかった。

 蒼汰にとっては、自分が考えすぎてしまうことを、夏海が笑って軽くしてくれるのが心地よかった。

 

 そして、いつの間にか二人だけで帰ることが増えていった。帰り道では、夏海が歩道の縁石の上を意味もなく歩き、蒼汰が少し後ろからそれを見ていることもあった。

「危ないぞ」

「大丈夫だって」

 夏海は縁石の上から振り返った。

 その拍子にスカートの裾がわずかに揺れた。蒼汰と目が合うと、楽しそうに笑った。

 

 ——その年の八月、夏休みのある日。

 二人で駅前へ買い物に出かけた帰り道だった。

 昼間の熱気はまだアスファルトに残っていたが、日が傾くにつれて風にはわずかな涼しさが混じりはじめていた。

 西の空には夕陽の橙が残り、その上から瑠璃色(サファイア・ブルー)の空がゆっくりと広がっていた。

 

 夏海は買い物袋を片手に提げ、蒼汰の隣を歩いていた。いつもなら途切れることのない会話が、その日はふと止まった。

「……ねえ」

「ん?」

 夏海は少しだけ歩調を緩めた。

 前を向いたまま髪を耳へ掛ける。けれど数歩もしないうちに、また同じ髪へ指を触れた。

「私たち……付き合わない?」

 

 蒼汰は思わず足を止めた。

「……急だな」

「そうかな?」

 そう答えながらも、夏海は俯いたまま蒼汰と目を合わせなかった。斜めから差す光の中で、俯いた夏海の頬がほんの少し赤く見えた。 

「私は、前から好きだったけど……」

 

 蒼汰は返事に困った。

 夏海のことが嫌だったわけではない。むしろ、その逆だった。どう答えればいいのか考えているうちに、いつものように眉間へ力が入った。


 夏海はようやく顔を上げた。蒼汰の眉間を見て、少し可笑しそうに笑う。

 それから自分の眉間へ人差し指を当てた。

「ほら……また眉間に皺寄ってる」

「仕方ないだろ。急に言われたんだから」

「そんな難しい話してないんだけどな」

 夏海は少し照れたように笑った。

「で?どうなの?」

「……俺も、たぶん」

「たぶん?」

  

「好きだよ……」 

 夏海は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。

「そこは最初からそう言いなよ」

 そんなふうにして、二人は付き合いはじめた。 


     *


 高校二年の夏休みに入ってしばらくした頃、二人で東京へ行った。蒼汰は大学のオープンキャンパスへ、夏海は美容専門学校の体験入学へ向かった。

 

 その帰りの電車では、夏海が瞳を輝かせながら、ひとりでずっと喋っていた。

「ねえ蒼汰、聞いてよ。今日、実際にウィッグ切らせてもらったんだ」

「へえ。どうだった?」

「最初、右だけ短くなりすぎちゃってさ。先生に笑われた」

「本番でやったらクレームだな」

「だから練習するんでしょ」

「まあ、そうだけど」

「あとカラーリングもやった。すごかったよ。色の入れ方で全然違うの」

 

 専門学校での出来事を話す夏海の声は、いつになく弾んでいた。今日会った講師の名前。先輩の髪型。実習室。カラー剤の匂い。

 蒼汰の知らない固有名詞が、彼女の口から次々と出てくる。それを聞いているうちに、蒼汰は奇妙な焦りを覚えた。

 自分の知らない夏海が、少しずつ増えていく。まだ隣に座っているのに、彼女だけ先に別の世界へ行こうとしているように感じた。


 夏海は嬉しそうに笑った。

「先生も、失敗しながら覚えればいいって言ってたよ」

「簡単に言うなよ」

「だって、やる前から全部分かるわけないじゃん」

「それはそうだけど……」

「まあ、何とかなるって」

 

 夏海の瞳は、今まで見たこともないくらいに眩く輝いていた。以前なら、その言葉に蒼汰も少し救われていた。

 考えすぎる自分とは違って、夏海は先の見えない場所にも、ためらわず一歩を踏み出せる。そこが好きだった。

 

 ――けれど。

 進路の話になると、同じ言葉が以前とは少し違って聞こえた。

 何とかなる?何を根拠に?もし、何とかならなかったら、そのときは誰が責任を取る?

 そんな問いが、反射的に蒼汰の頭へ浮かんできた。


 美容師という仕事について、蒼汰なりに調べていた。

 国家資格、ヘアメイクやブライダル、独立という道。人と接するのが大好きな夏海なら、向いているかもしれないとも思った。

 

 けれど同時に、学費・初任給・拘束時間・離職率といった数字も目についた。蒼汰の頭には、良い可能性より悪い可能性の方が長く残った。

「なあ夏海」

「ん?なあに蒼汰」

「大学行ってから考えるって選択肢もあるんじゃないのか?」


 夏海の顔から、さっきまでの笑みが消えた。

「なんでよ?」

「いや、美容専門学校行ったら基本それ一本になるだろ」

「それがいいんだけど」

「でも今すぐ決める必要ある?」

「蒼汰だって大学行くって決めてるじゃん」

「俺は選択肢を残すためだよ」

「私は決めたから行くの」

「でも、失敗したとき——」

「失敗するって決めつけないでよ……」

 夏海の声の温度が途端に冷えた。蒼汰は何も言わずスマートフォンを伏せた。


 地元の駅に着いた頃には、空の色が変わっていた。昼までは夏らしい青空だったのに、西の空だけが急速に鈍色へ沈んでいた。

「やば。降るかも……」

 夏海が空を見上げたその直後、消炭色(チャコール・グレー)の雲から大粒の雨が降り注ぎ、アスファルトを塗りつぶしていった。


「走ろう!」

 蒼汰は夏海の手を引いて、近くの商店街まで駆けた。たどり着いた頃には、雨はもう夕立という言葉では足りないほど激しく、滝のように降り注いでいた。


 蒼汰は急いで鞄からタオルを取り出して、夏海へ差し出した。

「使う?」

「……ありがと」

 夏海はそれを受け取り、雨で濡れた髪をそっと押さえた。しばらく、白く煙る道路を見つめていた。 

 

「……ねえ。蒼汰って、私が美容師になるの嫌なの?」

「違うよ……」

「じゃあ何?私が失敗すると思ってるんでしょ?」

「だから、そうじゃなくて」

「だったら、応援してよ」

「応援してるってば」

「してないじゃん」

「してるよ。ただ現実的な話も必要だって言ってるだけだろ」

 その言葉が、ふたりの間に落ちた瞬間、夏海が黙った。雨音だけがふたりの間を埋めていた。

 

「ていうかさあ……私の人生なのに、なんで蒼汰が正解決めるの?」

 蒼汰は一瞬、腹が立った。

「決めてなんかいない。客観的な事実を言ってるだけだろ」 

 自分でも分かるくらい、蒼汰の声が冷たくなった。夏海はもう何も言わず、視線を道路へ落とした。

 蒼汰にはその横顔が、なぜか今までより遠く見えた。夏海のためを思って言ったはずなのに、なぜ彼女が傷ついた顔をするのか。蒼汰には分からなかった。 


     *


 秋になると、教室の空気がガラリと変わった。誰かが進路を決めるたび、教室の中から自由な時間が少しずつ失われていった。

 夏海は美容専門学校を第一志望のまま変えなかった。一方、蒼汰は東京の大学をいくつか候補に挙げながら、まだ迷っていた。


「大学の文学部に行って何するの?」

 担任に訊かれた。

「まだ分かりません……」

「卒業後の将来は?」

「大手企業か、外資系企業に就職します」

「何のために?」

 蒼汰は、担任の問いかけに答えられなかった。

 安定した仕事、給料の高い仕事、社会的に評価される仕事。それ以上のものが、いまの蒼汰の中には何もなかった。


 友人の一人は教師になると言った。別の友人は建築士。そして、夏海は美容師。

 みんな、自分の進む先を、自分の言葉で語ることができていた。蒼汰には、それが少し腹立たしかった。

 友人や夏海にではなく、「自分はこうなりたい」と言える言葉を、何ひとつ持っていない自分自身に。

 

 けれども高校二年の蒼汰には、その苛立ちを劣等感だと認めるほどの素直さもなかった。 

 だから、数字を見た。数字には迷いがない。高いか低いかが、はっきりしている。

 収入は多いほうがいい。選択肢は多いほうがいい。そういう世界だけは、蒼汰を安心させてくれた。

 ——そして、その安心を夏海にも渡そうとした。

 

 ある日、夏海が進路のことで母親と少し言い合いになったと(こぼ)した。だが、蒼汰はすぐに学費や卒業後の生活の話を始めた。 

「……ねえ蒼汰。今日、その話しなきゃ駄目?」

「大事なことだろ」

「ごめん、蒼汰。今日ちょっと疲れてるの……」

「だからこそ、ちゃんと考えた方がいいと思う」

「そうじゃなくて……」

 窓から差し込む黄昏色トワイライト・ゴールドの光が、机の上を斜めに横切っていた。


 夏海は深く息を吐いた。

「ただ聞いてほしいだけの日もあるんだけど……」

「だったら最初にそう言ってくれればいいだろ」

 その瞬間、夏海の顔から表情が消えた。

「……そうだね」

 それだけ言って、夏海は無言で教室から立ち去っていった。


     *


 十二月に入ると、放課後の教室は急に寒くなった。

 暖房はまだついているのに、窓際の席には冷気が溜まり、机の天板までひんやりとしていた。

 

 夕方五時前だというのに、校庭の向こうはもう群青色に沈みかけていた。

 野球部の掛け声も、サッカー部のホイッスルも、夏頃よりずっと遠く聞こえた。

 教室に残っていたのは、蒼汰と夏海だけだった。夏海は前の席の椅子を後ろ向きにし、その背に両腕を預けながら、美容専門学校のパンフレットを眺めていた。


 夏海は嬉しそうにパンフレットを蒼汰の方へ向けた。

「ねえ蒼汰。ここ、体験入学もう一回あるみたい」

「また行くの?」

「うん。今度はカラーの実習だって」

「この前も行っただろ」

「今度は内容が違うの」

 そう言って、夏海は楽しそうにページをめくった。蒼汰はその横顔を見ながら、自分のスマートフォンへ視線を落とした。画面には、ここ数日で何度も見た検索結果が並んでいた。

 

 美容専門学校 学費。

 奨学金 返済。

 美容師 初任給。

 美容師 一人暮らし。

 何度検索しても、数字は大きく変わらなかった。夏海が楽しそうに話すたびに、蒼汰の頭の中では、なぜか別の数字が積み上がっていった。

 

「なあ夏海」

「ん?」

「学費、どうするの?」

 夏海はパンフレットから顔を上げた。

「奨学金かな。お母さんたちとも話してる」

「全部?」

「……全部じゃないと思うけど」

「結構な額になるだろ」

「まあね。でも、何とかなるでしょ」

 夏海はそれほど深刻そうには見えなかったが、蒼汰には、その軽さが少し危うく思えた。

 

「返すの大変だぞ」

「分かってるって」

「美容師って最初、そんなに給料高くないんだろ?」

「だから最初は実家から通うかも」

「でもずっと実家ってわけにもいかないだろ」

「その頃には給料も上がってるかもしれないし」

「上がらなかったら?」

 

 蒼汰が口にした瞬間、夏海の眉がわずかに動いた。

「それ、どういう意味よ?」

「そのままの意味だよ」

「考えてないように見えるってこと?」

「そうじゃなくて、将来お金に困ったらどうするんだって話」

「それならバイトとかすればいいじゃん」

「何の?」

「何のって……コンビニでも飲食でも、なんでもあるでしょ」

「それで足りなかったら?」

 

 夏海が黙った。蒼汰はその沈黙を、返答に困っているのだと受け取った。 

「昼間は美容室で働いて、夜もバイトして、それで身体を壊したら意味ないだろ」

「そんなの、やってみないと分かんないじゃん」

「分からないから考えるんだよ」

「ねえ蒼汰。さっきから何が言いたいの?」

 

 蒼汰は一度、窓の外へ目を向けた。ここから先は言うべきではない気もした。だが、言わないほうが無責任だとも思った。

「……もっとお金が必要になったら、短い時間でまとまった金を得られる仕事に頼るかもしれないだろ」 

 夏海はすぐには蒼汰の言葉の意味を理解しなかったようだった。

「たとえば?」

「夜の仕事とか……」

 口にした瞬間、蒼汰は自分で自分の声が嫌になった。

 

 夏海は一度だけ瞬きをした。それから、表情が動かなくなった。 

「……何それ」

「いや、するって言ってるんじゃない」

「じゃあ何?」

「可能性の話だよ」 

 蒼汰は、努めて冷静に言った。

「もし、奨学金の返済があって、給料だけじゃ暮らせなくなったら――」

「私が水商売するってこと!?」

「だから、そうなるって決めつけてるわけじゃない。俺はただ、最悪の場合を考えておいた方がいいって——」


 そこで夏海の声が震えた。

「じゃあ何?もし水商売で足りなかったら、風俗に行くかもしれないとでも言いたいの?」

「そういう極端な言い方するなよ」

「極端なのは蒼汰でしょ!」

 

 ふたりきりの教室に、夏海の声が響いた。

「声、大きいって」

「誰のせいよ!」

「俺は心配してるだけだろ」

「そんな心配されたくない……」

 夏海はパンフレットを閉じた。表紙には、笑顔の若い美容師が写っている。

 

「私が美容師になりたいって言ったら、学費が高いとか、給料が安いとか、辞める人が多いとか。それで今度は、借金返すために水商売とか風俗?」

「だから最悪の場合の話だよ」

「なんで最悪まで行くの?まだ何も起きてないじゃん」

「起きてからじゃ遅いこともある」

 

「じゃあ何?」

 夏海が泣きそうな顔をしながら、蒼汰を真っ直ぐ見据えた。

「大学に進学して、安定した会社に就職する。それ以外は全部危ないってこと!?」

「そんなこと言ってないだろ!」

「言ってるのと同じだよ!」 

 夏海はパンフレットを鞄の中に押し込んだ。紙をつかむ夏海の指に、いつもより強く力が入っていた。

 

「夏海のためを思って言ってるんだ」 

 蒼汰は、はっきりとそう言い切った。

 夏海が将来困るかもしれない。

 借金の返済に追われるかもしれない。

 選びたくもない仕事を選ばなければ生きていけなくなるかもしれない。

 

 ——そんな夏海を想像することが、蒼汰には怖かった。

 蒼汰の中では、筋が通っていた。

 だから、夏海が傷ついた顔をしている理由が、まったく分からなかった。

 

「私のため?」

 夏海が乾いた声で、小さく笑った。

「……じゃあ聞くけどさあ」

 夏海は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

「蒼汰、ずっと私の将来の心配してるけど、自分はどうなの?」

 今度は蒼汰が、答えに詰まった。

「蒼汰はいつも、失敗しないことばっかり考えてるよね?」

 

 夏海は静かに言った。

「……でも私は、自分で選んで失敗したい」

「意味分かんない」

「分かんなくていいよ……」

「よくないだろ」

「ほら。またそれ」

「何が?」

「私がそう思ってるってだけじゃ駄目なの?蒼汰が納得できる答えにしないといけないの?」


 蒼汰は言い返せず黙った。夏海は鞄を肩に掛けた。

「私、別に何も考えてないわけじゃないよ」

「……それは分かってる」

「蒼汰が言ってることだって、全部間違ってるとは思ってないよ。でもね……怖いからって、やめたくないの」

 夏海の声は強くなかった。むしろ、わずかに震えていた。それでも蒼汰には、これまで夏海が口にしてきたどの言葉よりも強く聞こえた。 

 

「私はどうしても、美容師になりたい」

 夏海はもう一度言った。その聞き慣れた言葉が、今日はなぜか胸の奥に重く残った。

 夏海は一度、声を詰まらせた。

「……本当に美容師になれるかなんて分かんない。途中で嫌になるかもしれないし……向いてないって言われるかもしれない……」

「だったら——」

「——でも、それを蒼汰に先に決められたくない!」

 

 夏海は鞄を肩に掛け直すと、そのまま教室の扉へ向かって歩きはじめた。ひとつに結んだ髪が、歩調に合わせて背中で小さく揺れた。

「夏海!」

 蒼汰が呼び止めると、夏海は扉の手前で足を止めた。けれど、蒼汰のほうには振り返らなかった。

「俺……本当に夏海のこと、心配してるだけだから……」

「……うん。それは分かってるよ、蒼汰。だから、余計につらいよ……」

 夏海はそのまま扉を開けて教室から出ていった。


 扉が閉まると、教室には蒼汰だけが残った。机の上には、自分のスマートフォンがあった。

 画面を点けると、さっきまで見ていた検索結果がそのまま残っていた。

 

 数字そのものは間違っていない。調べたことにも根拠はある。夏海を心配しているのも、本当だ。

 ——それなのに。

 夏海が最後に見せた表情だけは、どうしても説明がつかなかった。 


     *


 冬休みが明けて数日後。朝から細い雨が降っていた。

 雪になるほどではない。ただ、身体の芯まで染み込むような冷たい雨だった。

 

 放課後に、夏海から「少し話がしたい」とだけメッセージが来た。

 ——嫌な予感はした。

 それでも蒼汰は、「話し合えば解決できる」「正しいことを正しい順で並べれば、どうにかなる」と考えていた。


 駅から少し離れた通学路。夕暮れどきの鉛色(スレートグレー)の空の下で、街灯の淡い光だけが白く濡れていた。アスファルトには雨水が溜まり、歩くたび靴底から冷たく湿った音がした。


 夏海は透明な傘を差していた。日が落ちるにつれて、雨も風も次第に強くなっていた。傘を飛ばされまいと、甘橙色(オレンジ)の柄を両手で強く握りしめていた。

「……ごめんね。もう、別れよう」

 蒼汰は意味が分からなかった。

「なんで?」

 夏海は俯いた。

「……いろいろ」

「いろいろじゃ分からない」

「……そうだね」

「俺、何かした?」

「そういうんじゃなくて」

「じゃあ何で?」


「一緒にいると疲れるときがある……」

「どんなとき?」

「私が何か言うたび、すぐ正しい答えが返ってくるから」

「でも間違ってることをそのままにしたら——」

「……そういうところだよ」

「何が?」

 夏海は黙った。

「言ってくれないと分からない」

「……分かってほしいわけじゃないよ、蒼汰」

「じゃあどうしてほしいんだ!」


 夏海の唇が小さく震えた。

「別れたいだけ……」

「でも納得できない」

 ——その瞬間。

 夏海が顔を上げた。雨に滲んだ街灯の光が、彼女の瞳の中で淡く揺れていた。


「……なんでよ」

「え?」

「なんで別れることまで、蒼汰が納得しないといけないの?」

 蒼汰はもう、言葉が出なかった。

「……私はもう、疲れたの」

「だったら直す!」

「……違う」

「どこが悪かったか言ってくれれば——」

「だから違うの!」

 そこで初めて夏海が声を荒らげた。雨音に負けないくらい大きな声だった。


 蒼汰はしばらく何も言い返せず立ち尽くした。夏海は頬を濡らしながら続けた。

「……蒼汰はさ」

 夏海の声が震えていた。

「私のためって言うけど……結局は、蒼汰が納得できる答えにしたいだけなんじゃないの?」

「違う!」

「だったらさあ、たまには間違ってる私の横にいてよ!」


 蒼汰は答えられなかった。

「私、蒼汰と何か話すたびにテスト受けてるみたいだった……」

「そんなつもりじゃ——」

「分かってるよ」

 その一言が、蒼汰にはいちばん痛かった。

「悪気がないのも分かってる。私のためだと思ってたのも分かってる……」


 夏海が何か言おうとして、一瞬だけ唇を噛んだ。

「私ね……蒼汰のこと、嫌いになったわけじゃないんだよ……」

 その言葉に、蒼汰は一瞬だけ救われた。だからすぐに言った。

「だったら別れる必要ないだろ」

 夏海の顔が歪んだ。

「そうやって、また答えにする……」

 蒼汰は何も言えず、息を止めた。

「……好きでも、一緒にいると息苦しくなることってあるんだよ」

 

 夏海は泣きながら笑った。

「それが……つらかったの……」

 ふたりの間に沈黙が落ちた。

 傘を叩く雨の音、車が水飛沫を上げて通り過ぎていく音。遠くで鳴る踏切の音。それ以外、何も聞こえなかった。

 

 蒼汰はまだ何かを言おうとしていた。

 理由を知りたい。至らなかった点を直したい。

 夏海との関係を続けたい。

 終わるなら、せめて納得したい。

 けれど、そのすべてがまた夏海を追い詰める言葉になる気がして、蒼汰は口を閉じた。


「……だからね、蒼汰」

 夏海が肩を震わせながら掠れた声で、最後に言った。

「……そういうところだと思うよ」

 それだけ告げると夏海は、蒼汰から背を向けた。

「夏海……」

 一度だけ呼んだけれども、夏海の足は止まらなかった。傘の下で小さく震えている夏海の背中が、雨の向こうへ静かに消えていった。

 

 追いかければまだ間に合った。

 けれど、蒼汰は動けなかった。

 何を言えばいいのか、初めて分からなかった。


     *


 翌朝。目が覚めて最初の数秒だけは、いつも通りだった。スマートフォンを見る、布団から出る、制服に着替える。そこまでしてから蒼汰は、昨夜のことを思い出した。

 ——夏海とは、もう恋人ではない。

 そう思うと胸の真ん中が急に空洞になった。

 

 教室へ入る前、廊下の向こうに夏海の後ろ姿が見えた。昨日までなら追いついて、肩を軽く叩いていた。その癖だけが身体に残っていた。

 蒼汰は二歩進んだところで、「もう、それをしてはいけない」と、自分に言い聞かせて足を止めた。

 

 夏海は友達と話していた。何かを言われ、小さく笑っていた。昨日まで何度も自分に向けられていたのと、ほとんど同じ笑顔だけれど、夏海の目元はわずかに腫れていた。

 

 ——昨夜の涙の痕だろう。

 そう思った瞬間、蒼汰は夏海から目を逸らした。ふたたび顔を上げると、夏海たちの会話は何事もなかったように続いていた。 

 見慣れた笑顔が今は、自分とは何の関係もない場所で生まれている。

 その事実だけが、どうしようもなく苦しかった。

 

 教室の後ろで、誰かのスマートフォンから音楽が流れ始めた。蒼汰には、その曲が何なのか分かった。

 ――『紅い祈り』。

 初めて夏海とまともに話した日に、好きな曲として名前を挙げた曲だった。

 

『え、ほんと?私も好き』

 あの日の夏海の笑顔だけが、ひどく鮮明に浮かんだ。

 蒼汰は反射的に教室の前方を見た。

 ——その瞬間だった。

 友達と話していた夏海の声が、ほんのわずかに途切れた。夏海は音の流れてくる教室の後方を振り返らないまま、ただ一瞬だけ、目を伏せた。

 

 以前なら目が合ったかもしれない。どちらからともなく、少し笑ったかもしれない。

 ——けれど今は、何も起こらなかった。

 同じ教室で、同じ曲を聴いている。それなのに、二人のあいだには昨日まで存在しなかった距離があった。

 

 蒼汰は机の上へ視線を落とした。

 好きだった曲を嫌いになったわけではない。

 ただ、今は最後まで聴いていられる気がしなかった。


 それから蒼汰は、何度も夏海に連絡しようと思って、文章を作った。

 ちゃんと謝りたい、何でもいいから話したい、もう一度だけやり直したい。

 ——そう思っていた。

 しかし、送信しようとするたびに、夏海の言葉が浮かんだ。

『なんで別れることまで、蒼汰が納得しないといけないの?』

 結局、蒼汰は夏海にメッセージを送れなかった。

 

     *

 

 そして、春のクラス替えで、二人は別々の教室になった。蒼汰は大学進学を目指す進学クラスへ、夏海は美容専門学校への進学を見据えた総合クラスへと分かれた。

 

 同じ校舎にいるのに、顔を合わせることは急に減った。最初のうちは、それでいいと思った。

 けれど新しい教室の席に座り、見慣れない顔ばかりの中で最初のホームルームを受けていると、不意に妙な静けさを覚えた。

 

 以前なら、少し離れたところから夏海の笑い声が聞こえていた。

 授業が終われば、「蒼汰、一緒に帰ろ」と机の横に立たれることもあった。

 考え込んでいれば、「また、眉間に皺寄ってるよ」と笑われた。

 ——そのすべてが、もうこの教室にはなかった。

 会わなくて済むことと、いなくても平気なことは、同じではなかった。

 

 昼休み、渡り廊下の向こうに夏海を見かけた。

 友達と話しながら、美容専門学校のパンフレットを抱えて歩いていた。

 一瞬だけ目が合ったけれど、どちらからともなく視線を外した。それだけだった。

 

 ——本気で夏海のことを好きだった。

 それだけは、蒼汰の中では疑いようがなかった。ただ、あの別れのあと夏海が何を思っていたのかは、結局、訊けないままだった。

 

 あの冬までは、二人の未来はまだどこかで同じ場所へ続いていると信じていた。

 けれど春になって蒼汰はようやく実感した。二人の道は、もう別々の方向へ伸び始めていたのだと。


 それから卒業の日まで、二人がまともに言葉を交わすことはなかった。夏海は美容専門学校へ、蒼汰は東京の大学へと進んだ。

 ——そして。

 かつて同じ教室で、同じ音楽を聴き、同じ帰り道を歩いていた二人は、それぞれの場所へ進んでいった。


 正しいと思っていた言葉が、なぜ二人をここまで遠ざけたのか。その理由を、蒼汰はまだ知らなかった。


 善意も、根拠も、間違いではなかった。

 ただ、その頃の蒼汰は知らなかった。


 ――正しさにも、致死量があることを。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 本作は、小説家になろうで掲載している『僕と彼女の最適解』の前日譚にあたる物語です。


 ただし、本編を読んでいない方にも一本の青春恋愛・ヒューマンドラマとして読めるよう、高校時代の出会いから卒業まででひとつの物語として構成しました。


 本編の主人公・今井蒼汰が、朝比奈結衣と出会う数年前。

 まだ高校生だった蒼汰は、夏海という少女と出会い、恋をします。

 蒼汰は夏海のことを本気で大切に思っていました。

 だからこそ、失敗してほしくない。傷ついてほしくない。危険な道を選んでほしくない。


 その気持ちから、調べ、考え、正しいと思う答えを差し出し続けます。


 自分が調べた数字には根拠がある。

 夏海を心配していたことも嘘ではない。

 それなのに、なぜ大切な人を失ってしまったのか。

 その答えを探すことが、後の蒼汰の人生へとつながっていきます。


 本作を読んだあとに『僕と彼女の最適解』を読んでいただくと、「紅い祈り」や「……そういうところだと思うよ」といった言葉も、少し違った意味を持って見えてくるかもしれません。


 本作だけで読んでくださった方にも、何かひとつ心に残るものがあれば嬉しいです。

 最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
青春じゃないですか! まぶしい。まぶしすぎる。 「二人の距離が急に縮まったら」って、私には最初から十分過ぎるほど近く見えました。 「付き合わない?」 いや、もう完全に付き合ってる距離感でしょ。 そし…
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