残照に尾を曳いて
週末、陽人は家へ向けて車を走らせていた。
窓の外を、冬枯れの街路樹が流れていく。あの封筒を置いてから、まだ一週間ほどしか経っていなかった。
バックミラーに目をやる。2台後ろに、黒い車が1台。あの冬の夜から、ずっと同じ距離にいる。
2日前、宗玄はいつものように陽人を見据えていた。けれど、その目にかつての鋭さはなかった。
信号で停まる。フロントガラスの手前で、紅い縁の眼鏡がその色を拾っていた。
――勝手な真似をすれば、二人とも消す。
「……決めた」
青に変わった。
アクセルを踏んだ。
◇
その夜、陽人は自室で携帯を開いた。
朔夜の名前を選ぶ。画面を少し遡ると、1月の一文が残っていた。
『――蛍とまた会えたのは、お前のお陰だ。ありがとう』
しばらく眺めてから、入力欄に指を戻す。打っては消し、また打ち直す。
『来週末、三人でどこか遊びに行きませんか』
送信する。すぐに返事が来た。
『蛍と二人で行けばいいだろう』
陽人は息を吐いた。予想していた返事だった。
『三人で行きたいんです』
今度は、少し間があった。
『……分かった。蛍も了承した』
◇
ベッドに横になってから、しばらく朔夜は考えていた。
もし俺が陽人なら、蛍と二人で遊びに行く。
あいつは真面目だから、俺に一言断るくらいのことはするかもしれない。
だが、それでも俺まで誘う理由にはならない。
なぜ三人なんだ。
――蛍。
ふと、頭をよぎるものがあった。
つい先日、別邸を訪れた時に浮かんだことだ。
いや、違う。もっと、ずっと前から、考えかけては打ち消してきたことだ。
俺は、父さんとも、母さんとも、本当に血が繋がっているのか。
蛍は、父親の違う妹のはずだ。
もし、俺が母さんの息子でなかったとしたら、蛍とは――。
朔夜は固く目を瞑った。
今まで蛍に抱いてきたものに、名前がつきそうな気がして――。
仮定の話は、無意味だ。
答えなど、出ない。
――蛍とは、これまで通りで、いい。
結局、陽人が何を考えているのか分からないまま、当日を迎えることになった。
◇
約束の日は、雲ひとつなく晴れた。風は冷たく、吐く息がまだ白かった。
入場ゲートの前で待っていた陽人は、人波の向こうに二人を見つけて手を上げた。
「陽人くん!」
駆け寄ってくる蛍の後ろを、朔夜がゆっくり歩いてくる。休日だというのに、シャツの釦を一番上まで留めていた。
「おはようございます、朔夜さん」
「……ああ」
ゲートの奥から、陽気な音楽と歓声が流れてくる。蛍はそちらを見上げたまま、しばらく動かなかった。
「蛍?」
「あ、ごめん。……私、遊園地って初めてで」
陽人は一瞬、言葉に詰まった。それから、何でもないように笑ってみせる。
「そっか。じゃあ、今日は全部乗ろう」
「……俺もだ」
ぽつりと落ちた声に、蛍と陽人が同時に振り向いた。
「……なんだ」
「いえ、何でもないです! じゃあ今日は楽しみましょう」
陽人はチケットを3枚差し出した。
◇
最初に乗ったコーヒーカップで、蛍がハンドルを回しすぎた。
カップは止まる気配もなく回り続け、降りた時には朔夜の顔から血の気が引いていた。
「……二度と乗らない」
「兄さん、ごめんってば」
笑いながら謝る蛍の隣で、陽人も肩を震わせている。
次に蛍が指さしたのはジェットコースターだった。
「なんでお前はそういうのばっかりなんだ」
「面白そうだと思って」
「二人だけで行け。俺は保護者だと思ってくれていい」
「まだ30歳でしょ?」
「……もう30だ。20代のお前たちと一緒にするな」
「大丈夫ですよ、朔夜さん」
陽人が左腕を掴み、朔夜を引っ張る。それを見た蛍も右腕を掴みジェットコースターへ連行しようとする。
「お前ら、やめろ!」
「あっ、珍しく兄さんが焦ってる!」
「楽しい――こほん、貴重な思い出になりそうだね」
「陽人……」
睨みながらも、朔夜はずるずると引っ張られていく。
けれど乗り場の手前で、その腕は二人の手からするりと抜けた。
結局、ジェットコースターには蛍と陽人が乗った。朔夜は小さく息を吐き、近くのベンチで二人が戻るのを待っていた。
◇
いくつかのアトラクションを回ったあと、三人は園内のクレープ店に立ち寄った。
メニューを眺めた蛍が、迷わず苺のクレープを指さす。
「今日は僕が誘ったので」
そう言って、陽人が財布を取り出した。朔夜は甘いものは要らないと言い、自販機の方へ向かった。
蛍と陽人が店に並ぶ。先に焼き上がった一つを、陽人は蛍に手渡した。
「先に食べてて」
「うん、ありがとう」
缶コーヒーを片手に、朔夜が先に丸テーブルの椅子に座っていた。蛍もその向かいに腰を下ろす。
「……また苺にしたのか」
「うん。美味しそうでしょ?」
蛍が答えるや否や、テーブル越しに伸びた指が、いちばん上の苺をつまみ上げていた。
「あ!?」
「さっき、カップを回しすぎただろう。仕返しだ」
朔夜はそれを口に放り込み、指先についたクリームに眉を寄せた。
「もう!」
頬を膨らませる蛍を横目に、朔夜は缶コーヒーを開けた。一口飲んで、もう一度手を伸ばす。
「残りは私のだってば!」
「まだあるだろう」
蛍が取られまいとクレープを右へ左へと逃がす。その攻防の途中で、ふと二人の目が合った。
それから、どちらからともなく、噴き出した。
その光景を、陽人は店の前から見ていた。
受け取ったばかりのクレープは、包み紙越しにも温かかった。その温もりが手の中で冷めていくのに気づいたのは、しばらく経ってからだった。
包み紙を持ち直して、テーブルへ向かう。
「お待たせ」
声をかけると、二人の笑い声がぴたりと止んだ。
朔夜は何事もなかったようにコーヒーを飲んだ。その向かいで、蛍が片手でクレープを持ったまま、反対の手をひらひらと振った。
「おかえり、陽人くん」
陽人は手を振り返して、蛍の隣の椅子に腰を下ろした。
しばらくして、「あ」と声を漏らす。
「蛍、ちょっと待って」
「ん?」
「クリーム、ついてるよ」
言いながら、蛍の口元へ手が伸びる。頬に近いところの白いクリームを、指先がそっと拭った。
「……取れた」
「……ありがとう」
くすぐったそうに、蛍は肩をすくめた。
陽人は紙ナプキンで指を拭い、そのまま自分のクレープに戻る。
その向こうで、缶を傾けかけた朔夜の手が止まっていた。
食べ終わると、蛍は包み紙を集めて立ち上がった。
「捨ててくるね」
ゴミ箱のほうへ駆けていく背中が、人の流れに紛れる。
テーブルには二人が残された。
園内の音楽が、どこか遠くで鳴っている。
沈黙を破ったのは陽人だった。
「……朔夜さん」
「なんだ」
「変なこと、聞いてもいいですか」
横顔を向けたままの朔夜に、陽人は体ごと向き直った。さっきまでの柔らかさは、その目から消えていた。
「……蛍のこと、どう思ってますか」
朔夜は缶を膝の上に下ろし、息を吐いた。
「……お前が好きなら、やるが」
「そうじゃ、なくて……」
静かな声だった。陽人は首を横に振る。
「僕が聞きたいのは、朔夜さんがどう思っているか、です」
まっすぐな目だった。朔夜はそれを受けたまま、しばらく黙っていた。
「……妹、だが」
返ってきた声は低かった。
「……嘘だ」
ほとんど聞き取れないほどの呟きが落ちる。
陽人は膝の上で指を組み、ひと呼吸置いてから口を開いた。
「……本当に、兄妹ですか」
朔夜の目が細くなった。
問いを置いたきり、陽人の視線は組んだ自分の指に落ちている。
朔夜は何も答えなかった。
「もう一度聞きます。朔夜さんは、蛍のこと、どう思ってるんですか」
顔を上げた陽人の目が、もう一度まっすぐ朔夜に向けられる。
その眼差しから――朔夜は目を伏せた。
陽人は組んでいた指をほどき、拳を握り締めた。
「あの、僕は――」
「お待たせ~」
軽い足取りで、蛍が戻ってきた。
朔夜は缶の残りを一息にあおり、立ち上がる。
「蛍。……行くか」
「うん。あっちに面白そうなのあったよ!」
弾んだ声で指をさす蛍の隣を、朔夜は足早に歩き出した。振り返らないその背中は、どこか逃げるようにも見えた。
陽人は椅子に座ったまま、遠ざかる二人を見送った。
少し先で、蛍がくるりと振り返る。おいでよ、と大きく手を振っていた。
陽人は手を振り返し、腰を上げた。
そして、二人の背中を追って駆け出した。
◇
夕方。
「最後に、あれ乗る?」
蛍が観覧車を指している。かなりベタな提案だ。
少しずつ伸びる影を追いかけるようにして、三人で列に並ぶ。
一番後ろに並んでいた陽人は、夕焼けに照らされながら、自分の前で他愛のない会話をする二人を眺めていた。
順番が来た。ゆっくりと降りてきたゴンドラに、蛍が乗り込む。
続いて朔夜が足を踏み出し――止まった。
振り返るなり、その手が陽人の襟首を掴む。
「――え!?」
次の瞬間、陽人はゴンドラの中へ押し込まれていた。
「ちょっと、待っ――」
乱暴に扉が閉まった。
二人は窓ガラスに張り付いた。地上に残った朔夜の姿が、上昇とともに遠ざかっていく。
係員が何か声をかけているのが見えた。朔夜は一度だけゴンドラを見上げると、背を向けて歩き出した。
「はあ……。あの人は全く……」
蛍が呆れたように肩を落とした。
「高いところが苦手なら、素直にそう言えばいいのに……」
「……そうだね」
蛍の見当違いな言葉に、陽人は苦笑した。
西日が大きな窓から差し込み、狭い室内と二人の顔を茜色に染めていく。
その中で蛍の横顔を見つめながら、さっきあの不器用な男に掴まれた襟首を、そっと正した。
――やっぱり、あなたは自分に嘘をつくんですね。
本当に兄妹かと聞いた時、あの人は目を伏せただけだった。
血のことも、自分の気持ちも。疑っているのに、確かめようとしない。
傷つくのが怖いから?
口にしたら、壊れるから?
でもそれは、家族という形に甘えているだけだ……。
ただの、兄妹じゃないくせに。
僕の気持ちを知っていて、きっと同じものを抱えているのに、戦いもせずに譲ってくる。
少し……ずるいと思う。
「あはは……。兄さん、あんなところにいる……」
陽人もその視線を追った。小さな背中が見える。
「……観覧車って、結構高いところまで上るんだね」
「え?」
「ジェットコースターは一瞬だったけど。見下ろすとちょっと怖いかも」
「陽人くんも、高いところ怖いんだ」
「……うん。そうみたい」
――ああ、そうか。
僕も、言うのが怖いんだ。今が壊れてしまうから。……あの人と、同じで。
それでも、僕はその外側にいるから。きっと、二人より単純なんだ。
「陽人くん」
「……ん?」
「今日、楽しかった?」
「うん。……楽しかったよ」
「よかった」
「蛍は?」
「楽しかった。……また、行きたい」
その呟きに、陽人は静かに頷いた。
「うん。……また、行こう」
それを聞いた蛍は、何も知らない顔で、嬉しそうに外を眺めている。
「……ねえ、蛍」
「うん?」
ゴンドラは、もうすぐ頂上に差しかかる。
「朝霧の水辺で言ってくれたこと、覚えてる?」
「……覚えてるよ」
景色を眺めたまま、蛍は答えた。
あの夜は、陽人の翳りを、ただ静かに受け入れてくれた。
「ホタルは、我儘を聞いてくれるんだよね」
「うん。……えっと?」
「……君に、聞いてほしい」
蛍が振り向いた。
――口づけした。
「……」
頬を紅くしたまま、蛍は何度も瞬きを繰り返した。その瞳を、陽人は逸らさずに見つめ返した。
「僕は、今も、君が好きだ」
「あ……えっ、と……」
「……応えなくていい。これは、僕が君に伝えたかったことだから」
◇
駐車場に着くと、蛍は先に助手席へ乗り込んだ。
朔夜が運転席へ回ろうとしたところで、背中に声がかかった。
「朔夜さん」
「……なんだ」
振り返ると、陽人がまっすぐにこちらを見ていた。
「今日は、来てくれてありがとうございました。……昼は、変なこと聞いて、すみませんでした」
言い終えると、少しばつの悪そうな顔になった。朔夜は答えず、陽人を見ている。
「それと」
陽人の目が、一瞬だけ助手席の窓へ向く。蛍はこちらに気づかず、シートベルトを引いていた。
「……僕は、言えました」
胸の奥が、微かに疼いた。
「……そう、か」
それだけ返して、運転席のドアを開けた。
エンジンをかけ、駐車場を出る。バックミラーの中で、陽人はまだ同じ場所に立っていた。角を曲がるまで、その姿は動かなかった。
運転しながら、朔夜は助手席に目をやった。
蛍はずっと遠い目をしながら、窓の外を流れる景色を眺めていた。




