目の前の答え
呼び出されるのはいつも、本邸から離れたこの小さな邸だった。
書斎は、昼でも薄暗かった。
陽人は封筒を手にしたまま、宗玄の前に立っていた。
封はすでに切ってある。中を確かめろと命じたのは、宗玄だった。
「……結果です」
宗玄は受け取らなかった。皺の深い指が、机の天板を二度叩く。置け、ということだ。
陽人は封筒を机に置いた。
宗玄の目は、封筒ではなく陽人の顔に向けられていた。
「顔に出ているな」
陽人は答えなかった。
「下がれ」
一礼して、書斎を出る。廊下の窓の向こうで、冬枯れの庭が白く光っていた。
あの二人の顔が浮かんだ。
◇
黒崎邸の玄関で、鷹取が呼び止めた。
「朔夜様。藤堂様より、言伝を預かっております」
「藤堂から?」
「先代様のご命日が近づいております。例年は藤堂様がお参りしておりましたが、今年は宗玄様のお側を離れられないとのことで……朔夜様にお願いできないか、と」
黒崎の墓に、朔夜は一度も参ったことがない。
――墓の前に立つのは、継いでからでいい。
そう言ったのは、父だった。
「……わかった。蛍も連れていく」
◇
黒崎家の墓所には、古い墓石がいくつも並んでいた。
鷹取が桶と柄杓を手に、少し離れて控えている。馬場と鹿島は、入口の石段の下で辺りを見張っていた。
朔夜は先代の墓に水をかけ、手を合わせた。隣で、蛍もまぶたを伏せる。吐く息が、白くほどけて消えた。
顔を上げた蛍が、ふと横を向いた。
「……あれ?」
視線の先に、一基の墓石があった。その中ではまだ新しく、角が鋭い。
――黒崎宗明。
「どうした、蛍」
「この人って、確か私のお父さんで……。北の、お母さんと一緒のお墓に眠ってるはずじゃ……」
「お前の話だと、そうだったな」
「じゃあ、あのお墓に眠ってるのって……」
蛍が朔夜を見上げる。
朔夜は答えなかった。
北の地の、名前のない白い墓石。花を供えながら、藤堂は言った。
――私の……大切な方たちの、お家です。
あの墓の前で、母さんは誰に手を合わせていたのか。
――……供えてくれるの?
花を供えたいと言った自分に、瑞希はそう聞き返した。
あの時の声が、なぜ揺れていたのか。
朔夜は、宗明の名から目を離せずにいた。
◇
墓所を出たところで、鷹取が足を止めた。
「この近くに、別邸がございます。お寄りになりますか」
別邸は、朔夜の記憶よりも小さかった。
閉め切られた家の中は、冷えた埃の匂いがした。廊下の軋む音も、柱の傷も覚えている。
蛍は戸口に立ったまま、知らない家に来たような顔で辺りを見回していた。
「……確か、ここだ」
廊下の突き当たりの扉を開ける。
子ども部屋だった。
この部屋で宿題を広げると、待ちきれない蛍が膝に這い上がってきた。
――宿題が終わってからな。
そう言うと、蛍は頬を膨らませて、図鑑を抱えたまま待っていた。
本棚には、まだ何冊かの図鑑と絵本が残っている。どれも埃を被っていた。
蛍は図鑑に手を伸ばした。表紙を手で払い、ページを捲っていく。
本棚の上には、写真立てが一つ飾ってあった。
幼い蛍を抱きしめて、微笑む瑞希。その隣で、少し照れくさそうにしている自分。
瑞希のもう片方の手は、少年の肩に置かれているだけだった。
蛍がページを捲る横で、朔夜は写真の前から動けずにいた。
◇
施設にいた頃、瑞希は子どもたちの世話を任されていた。
律も綾も、他の子どもたちも、あの手に頭を撫でられていた。褒められて、嬉しそうに笑っていた。
自分の頭に触れる時だけ、その手は迷うように一度、宙で止まった。
短い間。それから、壊れ物でも扱うように、そっと髪に置かれる。
撫でるというより、ただ置かれるだけの手。その指先は、いつも微かに震えていた。
「――朔夜、お前だけなんで瑞希さんに避けられてるか、知ってる?」
ある日の昼下がり、同じ年頃の少年が二人、面白がるように顔を覗き込んできた。
理由など、知らない。答えられないまま、朔夜はただ俯きながら拳を握りしめていた。
「教えてやろうか? 気味が悪いからだろ!」
「いつも無表情だもんな! だから自分の親にも嫌われてんだよ!」
次の瞬間、二人の体が横に吹き飛んだ。
律だった。
一言も発さないまま、律は二人を殴りつけていた。泣き声が上がり、大人たちが駆けつけてくる。引き剥がされた律は、肩で荒く息をしていた。
その夕方、律は小部屋に呼ばれていた。
朔夜は、黙って後を追った。閉じた扉の前に立ち、息を潜める。
「……律くん。どうして、あんなことをしたの?」
瑞希の、困ったような声が聞こえた。
しばらく沈黙があって、もう一度、瑞希の声がした。
「何か、理由があるんでしょう?」
律は、答えない。
朔夜には分かっていた。自分のために殴ってくれたのだと。
意を決して、ドアノブに手をかけた。
「……あんたの、せいだろ」
その手を、離した。
「あんたが、あいつを抱きしめないから!! それで、からかわれてるんだろ!!」
扉越しでも、律の声は震えていた。
「抱きしめてやれよ!! 母親じゃねえのかよ!!」
扉が乱暴に開いた。
飛び出した律は、扉の傍に立つ朔夜に気づかないまま、走り去っていった。
開け放たれた扉が、ゆっくりと戻っていく。その隙間から、瑞希の声が聞こえた。
「……ごめん……。ごめんね……」
誰に向けた言葉だったのか。
朔夜は中を覗けないまま、閉じていく扉を挟んで、その泣き声を聞いていた。
◇
「兄さん?」
蛍が、図鑑から顔を上げていた。
「……いや」
朔夜は写真立てから目を逸らした。
「……これ、お母さん?」
「ああ……」
蛍が写真を見つめる。思い出せない母を見るその目に、もどかしさが滲んでいた。
朔夜は、写真の中の自分の肩に目を戻した。
母さんが、俺を抱きしめなかったのは――。
◇
別邸を出ると、冬の日はもう傾きかけていた。
「鷹取。蛍を家まで送ってくれ」
「兄さんは?」
蛍が振り返る。
「本邸に寄る。墓参りの報告を、藤堂にしておく」
蛍の顔がこわばった。
本邸には、あの人がいる。
「……私も行く」
「蛍……」
朔夜は首を横に振った。
「父さんと、話したいことがある。一人で行かせてくれ」
蛍は何か言おうとして、朔夜の目を見て、唇を引き結んだ。
「……待ってるから」
それだけ言って、鷹取の開けた車のドアに身を滑り込ませた。馬場と鹿島も乗り込む。
一人、走り去る車を見送る。
朔夜は本邸へ足を向けた。
◇
本邸へ向かう間、朔夜は何度も問いを組み立てては崩した。
北の墓――母さんと一緒に眠っているのは、誰なのか。
なぜ、あの墓には名前が刻まれていないのか。
俺が花を手向けようとした時、母さんはなぜためらったのか。あの日、母さんは誰に謝っていたのか。
――俺は、誰なんだ。……父さんと、母さんの、息子ですか。
口の中で形にしただけで、喉の奥が詰まった。
それを訊けば、それを確かめれば――。
指先が冷えていく。
でも、答えがどうであれ、待ってくれてる人がいる。
朔夜は首を振る。もう、逃げたくない。
別邸の写真が浮かぶ。照れくさそうに笑う少年の自分が、今日は見知らぬ子どものように思えた。
本邸の門をくぐったのは、日が落ちてからだった。
出迎えたのは藤堂ではなく、見覚えのない黒服の男だった。追い返されることもなく、奥へと案内される。
座敷の奥に、宗玄が座っていた。
「……来たか」
その斜め後ろに、藤堂が控えている。こちらを一瞥しただけで、すぐに主の背へと目を戻した。
「……父さん。話したいことが――」
「お前とは、これだろう」
宗玄の視線が、畳の上へ落ちる。朔夜はその先を追った。
二人の間に、将棋盤が置かれていた。駒は、もう並べてある。
「父さん、俺は……」
朔夜は宗玄を見た。その目は、盤から離れなかった。
この人とは、語り合えない。これでしか。
「……わかりました」
朔夜は盤を挟んで、正面に座った。
二人は黙って駒を進めた。
盤を打つ音だけが、座敷に落ちる。朔夜の駒をつまむ指に、わずかに力がこもった。
――ずっと、どうしようもなく、不安だったことがある。
宗玄は盤面を一瞥しただけで、すぐに応じた。
――目の前にいる息子の存在を、疑いながら見てきた。
朔夜の指が、次の駒の上で止まる。少し迷ってから、指した。
――この席に座るたび、本当にここにいていいのか、わからなくなることがあった。いや、いつもそうだった。
乾いた音を立てて、宗玄の駒が朔夜の歩を取る。
――これは、私の血を引いているのか。何度、そう問いかけてきたことか。
朔夜は、取られた歩の跡を見つめていた。
――本当に、俺は黒崎朔夜なのか。本当は別の誰かが、この席に座っているはずだったんじゃないか。……けれど、息子でなくなれば、居場所もなくなる。それが、怖かった。
――問えば、30年が崩れる。
だから、訊かなかった。
だから、確かめなかった。
朔夜が視線を上げると、宗玄もこちらを見ていた。どちらからともなく、盤面へ目を落とす。
――父さんも、同じだったのかもしれない。
宗玄の指が、駒台の上で止まった。
――これは息子ではない。だというのに、必死に、この席にしがみついている。
――疑いながら、俺と同じように、信じたかったのだろうか。
――本当の息子は、生まれて1か月で死んだ。私が30年、息子と呼んできたのは、名も知らぬ赤の他人だ。
二人は、同時に目を伏せた。
――俺は、誰であろうと、父さんの息子でいたかった。
――私は、これを息子だと、思い込んでいたかった。
宗玄の手が、駒を持ち上げたまま宙で止まった。その指先が、かすかに震えていた。
朔夜が顔を上げる。
しばらくしてから老人は駒を盤に戻し、その手を膝の上に置いた。
「……お前は、私をどう思っている」
心臓を掴まれたようだった。
訊くはずだった問いと、同じ形をしていた。
気づけば、拳を握っていた。ゆっくりと、それをほどく。
「……あなたのことは」
目の前の老人を真っ直ぐに見た。
「……父だと、思っています」
宗玄は黙って、盤を見下ろしていた。
やがて、膝に置いた手を駒台へ移し、わずかに頭を下げた。
「……お前を、認めよう」
朔夜は滲みかけた視界で、盤面を見た。
まだ、どちらも、死んではいなかった。
◇
朔夜が帰った後も、宗玄は盤の前を離れなかった。藤堂は、背後に控えたままだった。
数日前、鑑定書を机に放った時、この男は紙を一目見ただけで血の気を失った。
「……初めから、私を欺いていたな」
お宮参りの朝だったという。祝い着にくるんだ赤子を、藤堂は主の腕に差し出した。ようやく授かり、世に公表までした跡取りを、今さら無かったことにはできなかったと。
主に同情した老人の嘘だった。
情は脆い。脆いものが、全てを狂わせる。
宗玄は、さっき駒台に置いた自分の手を見下ろしていた。




