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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
6章 ベテルギウスの落日
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目の前の答え

 呼び出されるのはいつも、本邸から離れたこの小さな邸だった。

 書斎は、昼でも薄暗かった。

 陽人は封筒を手にしたまま、宗玄の前に立っていた。

 封はすでに切ってある。中を確かめろと命じたのは、宗玄だった。

「……結果です」

 宗玄は受け取らなかった。皺の深い指が、机の天板を二度叩く。置け、ということだ。

 陽人は封筒を机に置いた。

 宗玄の目は、封筒ではなく陽人の顔に向けられていた。

「顔に出ているな」

 陽人は答えなかった。

「下がれ」

 一礼して、書斎を出る。廊下の窓の向こうで、冬枯れの庭が白く光っていた。

 あの二人の顔が浮かんだ。


 ◇


 黒崎邸の玄関で、鷹取が呼び止めた。

「朔夜様。藤堂様より、言伝を預かっております」

「藤堂から?」

「先代様のご命日が近づいております。例年は藤堂様がお参りしておりましたが、今年は宗玄様のお側を離れられないとのことで……朔夜様にお願いできないか、と」

 黒崎の墓に、朔夜は一度も参ったことがない。

 ――墓の前に立つのは、継いでからでいい。

 そう言ったのは、父だった。

「……わかった。蛍も連れていく」


 ◇


 黒崎家の墓所には、古い墓石がいくつも並んでいた。

 鷹取が桶と柄杓を手に、少し離れて控えている。馬場と鹿島は、入口の石段の下で辺りを見張っていた。

 朔夜は先代の墓に水をかけ、手を合わせた。隣で、蛍もまぶたを伏せる。吐く息が、白くほどけて消えた。

 顔を上げた蛍が、ふと横を向いた。

「……あれ?」

 視線の先に、一基の墓石があった。その中ではまだ新しく、角が鋭い。

 ――黒崎宗明。

「どうした、蛍」

「この人って、確か私のお父さんで……。北の、お母さんと一緒のお墓に眠ってるはずじゃ……」

「お前の話だと、そうだったな」

「じゃあ、あのお墓に眠ってるのって……」

 蛍が朔夜を見上げる。

 朔夜は答えなかった。

 北の地の、名前のない白い墓石。花を供えながら、藤堂は言った。

 ――私の……大切な方たちの、お家です。

 あの墓の前で、母さんは誰に手を合わせていたのか。

 ――……供えてくれるの?

 花を供えたいと言った自分に、瑞希はそう聞き返した。

 あの時の声が、なぜ揺れていたのか。

 朔夜は、宗明の名から目を離せずにいた。


 ◇


 墓所を出たところで、鷹取が足を止めた。

「この近くに、別邸がございます。お寄りになりますか」

 別邸は、朔夜の記憶よりも小さかった。

 閉め切られた家の中は、冷えた埃の匂いがした。廊下の軋む音も、柱の傷も覚えている。

 蛍は戸口に立ったまま、知らない家に来たような顔で辺りを見回していた。

「……確か、ここだ」

 廊下の突き当たりの扉を開ける。

 子ども部屋だった。

 この部屋で宿題を広げると、待ちきれない蛍が膝に這い上がってきた。

 ――宿題が終わってからな。

 そう言うと、蛍は頬を膨らませて、図鑑を抱えたまま待っていた。

 本棚には、まだ何冊かの図鑑と絵本が残っている。どれも埃を被っていた。

 蛍は図鑑に手を伸ばした。表紙を手で払い、ページを捲っていく。

 本棚の上には、写真立てが一つ飾ってあった。

 幼い蛍を抱きしめて、微笑む瑞希。その隣で、少し照れくさそうにしている自分。

 瑞希のもう片方の手は、少年の肩に置かれているだけだった。

 蛍がページを捲る横で、朔夜は写真の前から動けずにいた。


 ◇


 施設にいた頃、瑞希は子どもたちの世話を任されていた。

 律も綾も、他の子どもたちも、あの手に頭を撫でられていた。褒められて、嬉しそうに笑っていた。

 自分の頭に触れる時だけ、その手は迷うように一度、宙で止まった。

 短い間。それから、壊れ物でも扱うように、そっと髪に置かれる。

 撫でるというより、ただ置かれるだけの手。その指先は、いつも微かに震えていた。

「――朔夜、お前だけなんで瑞希さんに避けられてるか、知ってる?」

 ある日の昼下がり、同じ年頃の少年が二人、面白がるように顔を覗き込んできた。

 理由など、知らない。答えられないまま、朔夜はただ俯きながら拳を握りしめていた。

「教えてやろうか? 気味が悪いからだろ!」

「いつも無表情だもんな! だから自分の親にも嫌われてんだよ!」

 次の瞬間、二人の体が横に吹き飛んだ。

 律だった。

 一言も発さないまま、律は二人を殴りつけていた。泣き声が上がり、大人たちが駆けつけてくる。引き剥がされた律は、肩で荒く息をしていた。

 その夕方、律は小部屋に呼ばれていた。

 朔夜は、黙って後を追った。閉じた扉の前に立ち、息を潜める。

「……律くん。どうして、あんなことをしたの?」

 瑞希の、困ったような声が聞こえた。

 しばらく沈黙があって、もう一度、瑞希の声がした。

「何か、理由があるんでしょう?」

 律は、答えない。

 朔夜には分かっていた。自分のために殴ってくれたのだと。

 意を決して、ドアノブに手をかけた。

「……あんたの、せいだろ」

 その手を、離した。

「あんたが、あいつを抱きしめないから!! それで、からかわれてるんだろ!!」

 扉越しでも、律の声は震えていた。

「抱きしめてやれよ!! 母親じゃねえのかよ!!」

 扉が乱暴に開いた。

 飛び出した律は、扉の傍に立つ朔夜に気づかないまま、走り去っていった。

 開け放たれた扉が、ゆっくりと戻っていく。その隙間から、瑞希の声が聞こえた。

「……ごめん……。ごめんね……」

 誰に向けた言葉だったのか。

 朔夜は中を覗けないまま、閉じていく扉を挟んで、その泣き声を聞いていた。


 ◇


「兄さん?」

 蛍が、図鑑から顔を上げていた。

「……いや」

 朔夜は写真立てから目を逸らした。

「……これ、お母さん?」

「ああ……」

 蛍が写真を見つめる。思い出せない母を見るその目に、もどかしさが滲んでいた。

 朔夜は、写真の中の自分の肩に目を戻した。

 母さんが、俺を抱きしめなかったのは――。


 ◇


 別邸を出ると、冬の日はもう傾きかけていた。

「鷹取。蛍を家まで送ってくれ」

「兄さんは?」

 蛍が振り返る。

「本邸に寄る。墓参りの報告を、藤堂にしておく」

 蛍の顔がこわばった。

 本邸には、あの人がいる。

「……私も行く」

「蛍……」

 朔夜は首を横に振った。

「父さんと、話したいことがある。一人で行かせてくれ」

 蛍は何か言おうとして、朔夜の目を見て、唇を引き結んだ。

「……待ってるから」

 それだけ言って、鷹取の開けた車のドアに身を滑り込ませた。馬場と鹿島も乗り込む。

 一人、走り去る車を見送る。

 朔夜は本邸へ足を向けた。


 ◇


 本邸へ向かう間、朔夜は何度も問いを組み立てては崩した。

 北の墓――母さんと一緒に眠っているのは、誰なのか。

 なぜ、あの墓には名前が刻まれていないのか。

 俺が花を手向けようとした時、母さんはなぜためらったのか。あの日、母さんは誰に謝っていたのか。

 ――俺は、誰なんだ。……父さんと、母さんの、息子ですか。

 口の中で形にしただけで、喉の奥が詰まった。

 それを訊けば、それを確かめれば――。

 指先が冷えていく。

 でも、答えがどうであれ、待ってくれてる人がいる。

 朔夜は首を振る。もう、逃げたくない。

 別邸の写真が浮かぶ。照れくさそうに笑う少年の自分が、今日は見知らぬ子どものように思えた。


 本邸の門をくぐったのは、日が落ちてからだった。

 出迎えたのは藤堂ではなく、見覚えのない黒服の男だった。追い返されることもなく、奥へと案内される。

 座敷の奥に、宗玄が座っていた。

「……来たか」

 その斜め後ろに、藤堂が控えている。こちらを一瞥しただけで、すぐに主の背へと目を戻した。

「……父さん。話したいことが――」

「お前とは、これだろう」

 宗玄の視線が、畳の上へ落ちる。朔夜はその先を追った。

 二人の間に、将棋盤が置かれていた。駒は、もう並べてある。

「父さん、俺は……」

 朔夜は宗玄を見た。その目は、盤から離れなかった。

 この人とは、語り合えない。これでしか。

「……わかりました」

 朔夜は盤を挟んで、正面に座った。


 二人は黙って駒を進めた。

 盤を打つ音だけが、座敷に落ちる。朔夜の駒をつまむ指に、わずかに力がこもった。

 ――ずっと、どうしようもなく、不安だったことがある。

 宗玄は盤面を一瞥しただけで、すぐに応じた。

 ――目の前にいる息子の存在を、疑いながら見てきた。

 朔夜の指が、次の駒の上で止まる。少し迷ってから、指した。

 ――この席に座るたび、本当にここにいていいのか、わからなくなることがあった。いや、いつもそうだった。

 乾いた音を立てて、宗玄の駒が朔夜の歩を取る。

 ――これは、私の血を引いているのか。何度、そう問いかけてきたことか。

 朔夜は、取られた歩の跡を見つめていた。

 ――本当に、俺は黒崎朔夜なのか。本当は別の誰かが、この席に座っているはずだったんじゃないか。……けれど、息子でなくなれば、居場所もなくなる。それが、怖かった。

 ――問えば、30年が崩れる。

 だから、訊かなかった。

 だから、確かめなかった。

 朔夜が視線を上げると、宗玄もこちらを見ていた。どちらからともなく、盤面へ目を落とす。

 ――父さんも、同じだったのかもしれない。

 宗玄の指が、駒台の上で止まった。

 ――これは息子ではない。だというのに、必死に、この席にしがみついている。

 ――疑いながら、俺と同じように、信じたかったのだろうか。

 ――本当の息子は、生まれて1か月で死んだ。私が30年、息子と呼んできたのは、名も知らぬ赤の他人だ。

 二人は、同時に目を伏せた。

 ――俺は、誰であろうと、父さんの息子でいたかった。

 ――私は、これを息子だと、思い込んでいたかった。

 宗玄の手が、駒を持ち上げたまま宙で止まった。その指先が、かすかに震えていた。

 朔夜が顔を上げる。

 しばらくしてから老人は駒を盤に戻し、その手を膝の上に置いた。

「……お前は、私をどう思っている」

 心臓を掴まれたようだった。

 訊くはずだった問いと、同じ形をしていた。

 気づけば、拳を握っていた。ゆっくりと、それをほどく。

「……あなたのことは」

 目の前の老人を真っ直ぐに見た。

「……父だと、思っています」

 宗玄は黙って、盤を見下ろしていた。

 やがて、膝に置いた手を駒台へ移し、わずかに頭を下げた。

「……お前を、認めよう」

 朔夜は滲みかけた視界で、盤面を見た。

 まだ、どちらも、死んではいなかった。


 ◇


 朔夜が帰った後も、宗玄は盤の前を離れなかった。藤堂は、背後に控えたままだった。

 数日前、鑑定書を机に放った時、この男は紙を一目見ただけで血の気を失った。

「……初めから、私を欺いていたな」

 お宮参りの朝だったという。祝い着にくるんだ赤子を、藤堂は主の腕に差し出した。ようやく授かり、世に公表までした跡取りを、今さら無かったことにはできなかったと。

 主に同情した老人の嘘だった。

 情は脆い。脆いものが、全てを狂わせる。

 宗玄は、さっき駒台に置いた自分の手を見下ろしていた。

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