【挿話】あの星に願いを
御影本社の地下駐車場は、夜8時を過ぎると人の気配が消える。
陽人が自分の車の前まで来た時、柱の陰から煙が流れてきた。
「遅えよ。残業か、坊ちゃん」
「……律さん」
柱にもたれていた律が、携帯灰皿に灰を落とした。
「どうして、ここに」
「細かいことはいいだろ」
律は煙草を咥えたまま、陽人の車のボンネットに腰を預ける。
昼間の、蛍とのやり取りが頭をよぎる。
大好きだな、と言われて、否定もせずに口を閉ざした彼女のことを。
そして目の前の青年は、死んだと聞かされた彼女を、何週間も探し回っていた。
「……朔夜が蛍の兄貴でよかったな」
「え?」
「あれが恋敵だったら、勝てねえぞ」
陽人の手が、車のキーの上で止まった。
その目から、いつもの愛想が消えていた。
「……冗談だぞ、坊ちゃん」
「はい、わかってます」
陽人は一度目を伏せ、それから、少しだけ口元を緩めた。
「律さんの言うとおりです。……あの二人が、兄妹で、よかった」
その言葉は律に向けたものではなく、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「……まあ、いい。本題だ。頼みがある」
「頼み、ですか」
「雨宮繭って女が、どこかの施設に入ってないか。病院でも、療養所でもいい。御影の系列じゃなくても構わねえ」
陽人は眉を寄せた。聞き覚えのない名前だった。
「……律さんとは、どういう関係ですか?」
「知りたいのか?」
律の口の端が、にやりと吊り上がった。
「もう少し俺と仲良くなったら、教えてやるよ」
いつもの、人を食ったような笑みだった。けれど、その目だけが笑っていなかった。
陽人はしばらく、その目を見ていた。
「……個人情報ですよ」
「わかってる」
換気扇が低く唸っている。
陽人は溜息をつき、車のドアを開けた。
「調べるだけ、調べてみます。渡せるものがあるかは、わかりません」
「……悪いな」
律は片手だけ上げて、暗がりの向こうへ歩いていった。
◇
3日後の夜、律の携帯が震えた。
差出人は御影陽人。本文には、施設の名前と住所だけが並んでいた。
最後に一行、添えてある。
『これ以外は、何も渡せません』
律は画面を見つめたまま、動けなかった。
――生きていた。
◇
翌日の午後3時過ぎ。
都心から車で2時間。郊外の丘の上に、その病院はあった。
面会の受付は通らなかった。名前も、続柄も、名乗れるものが律には何もなかった。
どこへ行くでもなく、廊下を歩く。
角を曲がった先に、ガラス張りの広いスペースがあった。
「繭お姉ちゃん! 次これ読んで!」
低い本棚と、色とりどりのクッション。パジャマ姿の子どもたちが床に座り込み、一人の女を囲んでいる。
女は、膝の上に絵本を広げていた。
「うん、いいよ」
穏やかな声だった。子どもたちが身を乗り出して、ページを覗き込む。
その笑みは、夜中の赤城邸で、かつて律に向けられたものと、何も変わっていなかった。
「――こうして、お姫さまは、長い長い眠りから目を覚ましました。……おしまい」
「おひめさま、目が覚めてよかったね!」
「そうだね」
子どもの顔を覗き込みながら、彼女は本をぱたりと閉じる。
律は踵を返した。
◇
屋上の扉を押し開けると、冷えた風が吹きつけてきた。
柵の向こうに、低い街並みが広がっている。冬の西日が、並んだ屋根を薄い橙色に染めていた。
律はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
吐いた煙が、風にさらわれて消えていく。
「――ここ、禁煙ですよ」
背後で扉の開く音がした。
ストールを肩に巻いた繭が、扉の前に立っていた。
「……悪い」
律は短く答え、煙草を携帯灰皿に押しつけた。
そのまま、夕暮れの空へ視線を逃がした。
繭は柵まで歩いてきて、律から少し離れた場所に立った。律の横顔をしばらく見ていたが、やがて同じ空を見上げた。
「……わたし、記憶が無いんです」
律の眉が微かに動いた。
「昨日、両親が面会に来てくれました。すごく、心配してくれて。……でも、何も分からなくて」
ストールの端を、繭の指が握り込んでいた。
風が、二人の間を抜けていく。
繭がはっと顔を上げた。
「あ……初対面の人に、こんな話。困りますよね、すいません」
「いや……」
西の空が、藍色に沈み始めていた。屋根から橙色が引き、屋根から橙色が引き、窓の明かりがぽつぽつと点き始める。
「あっ、星……」
繭が空を指さした。
まだ明るさの残る西の低い空に、光がひとつだけ灯っていた。
「……星、好きなの?」
「はい」
指を下ろしても、繭の目はその光から離れなかった。
「……昔、星を教えてくれた人がいるんです」
律の目が、わずかに繭の方へ動いた。
「顔も名前も、思い出せないんですけど。大事な人だったと思うんです……」
律はまた空に目を戻した。
「……そいつには、会えたの?」
「いえ……」
俯く繭を見て、律は鼻で笑った。
「……最低だな、そいつ」
「え?」
「あんたにとって大事な奴なのに、会いに来ないんだろ」
繭は少し驚いたように律を見て、それから、また空に目を戻した。
「……もしかしたら、わたしのこと、忘れちゃったのかな」
「……」
「わたしも、その人のこと、覚えてないですし」
自嘲するように、繭は目を伏せた。
「……そんなことねえよ」
「えっ?」
律は柵に手を置いた。冷たい鉄が、掌に食い込んだ。
「忘れてたら、そいつ相当もったいねえぜ」
「そうでしょうか?」
「ああ。だから、忘れてない。……まあ、たぶん、だけど」
歯切れの悪い律の言葉に、繭はくすりと笑った。
律も、口の端を少し緩めた。
「……そいつに、会えるといいね」
「はい」
嬉しそうな返事だった。
その顔を見て、律は柵から手を離した。
「そろそろ行くわ」
扉へ向かって、数歩。
振り返らずに。
「……じゃあな、繭」
「――え?」
扉が閉まった。
空には、星がひとつ、またひとつ灯っていく。
「わたし、まだ名乗ってないのに――」




