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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
6章 ベテルギウスの落日
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【挿話】あの星に願いを

 御影本社の地下駐車場は、夜8時を過ぎると人の気配が消える。

 陽人が自分の車の前まで来た時、柱の陰から煙が流れてきた。

「遅えよ。残業か、坊ちゃん」

「……律さん」

 柱にもたれていた律が、携帯灰皿に灰を落とした。

「どうして、ここに」

「細かいことはいいだろ」

 律は煙草を咥えたまま、陽人の車のボンネットに腰を預ける。

 昼間の、蛍とのやり取りが頭をよぎる。

 大好きだな、と言われて、否定もせずに口を閉ざした彼女のことを。

 そして目の前の青年は、死んだと聞かされた彼女を、何週間も探し回っていた。

「……朔夜が蛍の兄貴でよかったな」

「え?」

「あれが恋敵だったら、勝てねえぞ」

 陽人の手が、車のキーの上で止まった。

 その目から、いつもの愛想が消えていた。

「……冗談だぞ、坊ちゃん」

「はい、わかってます」

 陽人は一度目を伏せ、それから、少しだけ口元を緩めた。

「律さんの言うとおりです。……あの二人が、兄妹で、よかった」

 その言葉は律に向けたものではなく、まるで自分に言い聞かせているようだった。

「……まあ、いい。本題だ。頼みがある」

「頼み、ですか」

「雨宮繭って女が、どこかの施設に入ってないか。病院でも、療養所でもいい。御影の系列じゃなくても構わねえ」

 陽人は眉を寄せた。聞き覚えのない名前だった。

「……律さんとは、どういう関係ですか?」

「知りたいのか?」

 律の口の端が、にやりと吊り上がった。

「もう少し俺と仲良くなったら、教えてやるよ」

 いつもの、人を食ったような笑みだった。けれど、その目だけが笑っていなかった。

 陽人はしばらく、その目を見ていた。

「……個人情報ですよ」

「わかってる」

 換気扇が低く唸っている。

 陽人は溜息をつき、車のドアを開けた。

「調べるだけ、調べてみます。渡せるものがあるかは、わかりません」

「……悪いな」

 律は片手だけ上げて、暗がりの向こうへ歩いていった。


 ◇


 3日後の夜、律の携帯が震えた。

 差出人は御影陽人。本文には、施設の名前と住所だけが並んでいた。

 最後に一行、添えてある。

『これ以外は、何も渡せません』

 律は画面を見つめたまま、動けなかった。

 ――生きていた。


 ◇


 翌日の午後3時過ぎ。

 都心から車で2時間。郊外の丘の上に、その病院はあった。

 面会の受付は通らなかった。名前も、続柄も、名乗れるものが律には何もなかった。

 どこへ行くでもなく、廊下を歩く。

 角を曲がった先に、ガラス張りの広いスペースがあった。

「繭お姉ちゃん! 次これ読んで!」

 低い本棚と、色とりどりのクッション。パジャマ姿の子どもたちが床に座り込み、一人の女を囲んでいる。

 女は、膝の上に絵本を広げていた。

「うん、いいよ」

 穏やかな声だった。子どもたちが身を乗り出して、ページを覗き込む。

 その笑みは、夜中の赤城邸で、かつて律に向けられたものと、何も変わっていなかった。

「――こうして、お姫さまは、長い長い眠りから目を覚ましました。……おしまい」

「おひめさま、目が覚めてよかったね!」

「そうだね」

 子どもの顔を覗き込みながら、彼女は本をぱたりと閉じる。

 律は踵を返した。


 ◇


 屋上の扉を押し開けると、冷えた風が吹きつけてきた。

 柵の向こうに、低い街並みが広がっている。冬の西日が、並んだ屋根を薄い橙色に染めていた。

 律はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

 吐いた煙が、風にさらわれて消えていく。

「――ここ、禁煙ですよ」

 背後で扉の開く音がした。

 ストールを肩に巻いた繭が、扉の前に立っていた。

「……悪い」

 律は短く答え、煙草を携帯灰皿に押しつけた。

 そのまま、夕暮れの空へ視線を逃がした。

 繭は柵まで歩いてきて、律から少し離れた場所に立った。律の横顔をしばらく見ていたが、やがて同じ空を見上げた。

「……わたし、記憶が無いんです」

 律の眉が微かに動いた。

「昨日、両親が面会に来てくれました。すごく、心配してくれて。……でも、何も分からなくて」

 ストールの端を、繭の指が握り込んでいた。

 風が、二人の間を抜けていく。

 繭がはっと顔を上げた。

「あ……初対面の人に、こんな話。困りますよね、すいません」

「いや……」

 西の空が、藍色に沈み始めていた。屋根から橙色が引き、屋根から橙色が引き、窓の明かりがぽつぽつと点き始める。

「あっ、星……」

 繭が空を指さした。

 まだ明るさの残る西の低い空に、光がひとつだけ灯っていた。

「……星、好きなの?」

「はい」

 指を下ろしても、繭の目はその光から離れなかった。

「……昔、星を教えてくれた人がいるんです」

 律の目が、わずかに繭の方へ動いた。

「顔も名前も、思い出せないんですけど。大事な人だったと思うんです……」

 律はまた空に目を戻した。

「……そいつには、会えたの?」

「いえ……」

 俯く繭を見て、律は鼻で笑った。

「……最低だな、そいつ」

「え?」

「あんたにとって大事な奴なのに、会いに来ないんだろ」

 繭は少し驚いたように律を見て、それから、また空に目を戻した。

「……もしかしたら、わたしのこと、忘れちゃったのかな」

「……」

「わたしも、その人のこと、覚えてないですし」

 自嘲するように、繭は目を伏せた。

「……そんなことねえよ」

「えっ?」

 律は柵に手を置いた。冷たい鉄が、掌に食い込んだ。

「忘れてたら、そいつ相当もったいねえぜ」

「そうでしょうか?」

「ああ。だから、忘れてない。……まあ、たぶん、だけど」

 歯切れの悪い律の言葉に、繭はくすりと笑った。

 律も、口の端を少し緩めた。

「……そいつに、会えるといいね」

「はい」

 嬉しそうな返事だった。

 その顔を見て、律は柵から手を離した。

「そろそろ行くわ」

 扉へ向かって、数歩。

 振り返らずに。

「……じゃあな、繭」

「――え?」

 扉が閉まった。

 空には、星がひとつ、またひとつ灯っていく。

「わたし、まだ名乗ってないのに――」


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