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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
6章 ベテルギウスの落日
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言えるうちに

 その夜、陽人はまたあの部屋に呼び出されていた。

 本棚と酒樽。小さなテーブルと、椅子が二つ。会社を出てからずっと後ろにいた黒い車は、邸の門の前に停まったきり動かない。

「……御影」

 宗玄は窓際に立ったまま、こちらを見なかった。

「……何でしょうか」

 返事の代わりに、宗玄はテーブルへ歩み寄った。グラスを二つ並べ、瓶を傾ける。鈍い深紅が、それぞれの底に溜まっていった。

「飲んでみろ」

 差し出されたグラスの向こうで、鋭く細められた目がこちらを見ていた。

 酒はさほど得意ではなかった。ただ、その目に気圧されるように、グラスを受け取った。

 少し、口を付ける。

「……渋い、ですね」

 宗玄は答えず、自分のグラスを傾けた。

「朔夜さんとも、飲むんですか?」

 宗玄は静かに首を振った。

 それきり、グラスの中に目を落としている。部屋に、空調の低い音だけが残った。

「お前は、親を疑ったことがあるか」

 唐突な問いだった。

 父の顔が浮かぶ。女遊びを武勇伝と呼んで笑う顔。その名前を名乗りたくなくて、母の姓を使っていた頃のこと。

 けれど、あの人が自分の父親であることを、疑ったことはなかった。

「……無い、ですけど」

「そうか」

 宗玄はもう一口、ワインを含んだ。

「幸せなことだ」

 褒められたのか、哀れまれたのか、陽人には分からなかった。

 テーブルの上に、封筒が一つ置かれた。厚みはほとんどない。

「調べろ。御影の研究所なら、すぐだろう」

「……何を、ですか」

「朔夜と、私だ」

 陽人の指が、封筒の手前で止まった。

 宗玄は、それ以上何も言わなかった。


 ◇


 1月も終わりに近づいていた。

 赤城ビルの非常階段は、昼間でも薄暗かった。

 律は踊り場の手すりにもたれ、煙草に火を点けた。吐き出した煙が、風に千切れて消えていく。

 ――あの日の社長室を、思い出していた。

 半日、朔夜をここに留めておけ。それが、宗玄に命じられた仕事だった。

 今、黒崎で役員会が開かれてる――そう告げると、朔夜は黙って立ち上がった。

 こちらを、見向きもしなかった。

 契約を踏み倒したのはそっちのくせに。

 肩を掴むと、ようやく振り返った。いつもの、すました顔で。

 気づけば、胸ぐらを掴んで突き飛ばしていた。

 煙草の灰が、音もなく落ちた。

 それから、秘書室の床に座り込んでいる男を見た。何も映さない、涸れきった目。机の上に残された、赤いノート。

 勝った、とは思えなかった。

 黒崎蛍は、死んだことにされていた。それでも北の果てから、髪を切って、名前を隠して、東京まで戻ってきた。

 兄に会うために。

 ノクターンで差し出された手を、律は取らなかった。それでもあいつは、次の朝も同じ場所で待っていた。

『――今でも、兄さんの友達ですよね』

 周年の夜、舞台袖のカーテンの陰から、抱き合う二人を見た。

 自分は、何をしていたのか。結局、飼い主の――宗玄の手のひらの上で吠えていただけだ。その間に、あの二人は、自分の足で互いの元へ辿り着いていた。

 ちっぽけだ、と思った。

 律は煙草を灰皿に押しつけた。

 周年の夜から、サイドミラーに黒い車が映らない。朔夜を助手席に乗せて逃がしたのは自分だ。宗玄の耳に入っていないはずがない。それなのに、呼び出しも、咎める電話の一本もなかった。

 放し飼いにされている。そう思うことにした。その方が、まだ気味の悪さを飲み込める。

 赦されるとは思っていない。赦してほしいのかどうかも、よく分からない。

「……ふん」

 自嘲するように、律は鼻を鳴らした。

 足は、黒崎ビルに向かっていた。


 ◇


 黒崎ビルのエントランスに入ると、受付嬢が律に気づいた。

 黒崎朔夜に会いたいと告げると、一瞬、戸惑った様子だったが、すぐに内線へ手を伸ばした。

 短い確認の後、社長室へどうぞと案内された。


 最上階の廊下は、あの日と同じだった。

 ただ、秘書室の前に黒服は立っていない。開いたままの扉の奥に、小さな机が見えた。椅子はきちんと机に収まっている。

 律はその前を通り過ぎ、社長室の前まで来た。

 ノックしようとして、手が止まった。

 ……中が、何やら騒がしい。

 珍しく、朔夜の怒鳴るような声が聞こえる。

「……入るぞ」

 扉を開ける。

 目に飛び込んできたのは、デスクの奥に立つ朔夜。右腕に蛍、左腕に綾。両腕を、それぞれ別の女に抱え込まれている。

「兄さん!! 今日はもう午後休取りますよ!! フラフラじゃないですか!!」

「そうよ、朔夜!! 今日いい天気だし外でランチしましょ!!」

「あっ、いいなあ~」

「もちろん蛍ちゃんもよ? 家族三人、水入らずでね?」

「ふざけるな! まだ決裁承認が――」

 そこでようやく、朔夜は入口に立つ律に気づいた。助けを乞うような目が、こちらを向く。

「――律!!」

「……黒崎の社長ってのは、良いご身分なんだな」

 扉を閉めた。

 数歩も行かないうちに、背後で扉が勢いよく開いた。

「待ってください、律さん!」

 蛍だった。

「……兄さんを引き剥がすのを手伝ってください!!」

「何でだよ!!」


 ◇


 朔夜は最低限の業務だけ終えると、蛍と綾に押し切られ、午後休を使う羽目になった。

 天気がいいから、という綾の一声で、弁当を買って近くの公園で食べることになった。話があって来た手前、帰るわけにもいかない。律も渋々付き合うことになった。

 コンビニで、蛍が弁当をかごに入れていく。そのかごの中に、律は缶ビールを数本放り込んだ。

「えっ?」

「あいつ、隙を見て会社に戻る気だぞ。飲ませとけば、戻れなくなる」

 律は、弁当の棚の前で眉間に皺を寄せている朔夜を、顎でしゃくった。

「念には念を、だ」


 ◇


 コンビニから歩いて数分の公園は、ベンチのあたりだけ日だまりになっていた。4人は木のテーブルに弁当とビールを並べ、ベンチに腰を下ろした。

 相変わらず朔夜の左隣を死守する綾。その向かいで、律は蛍の隣に座り、缶ビールを開けた。

 謝りに来たというのに、まるでそんな空気ではない。

「あら、お酒あるじゃない!」

「律さんが買ってくれました。……飲ませたら働けなくなるので」

「なるほど? 気が利くわね」

 律は自分用に開けた缶ビールを、綾に渡した。

「……朔夜に飲ませてやれ」

「律!?」

「はい、朔夜。直接飲ませてあげるわ」

「――っ!! んん――!!」

 缶を口元に当てられ、無理矢理流し込まれる。

 とても、大企業のCEOの姿ではなかった。

 そのやり取りを見て、律は静かに目を伏せた。

「……変わらねえな」

 3人の目が、律に向いた。

「変わらねえな、お前らは」

 それから律は新しい缶を開けて、口をつけた。

「……律さんもでしょ?」

「いや」

「変わってしまったことがあっても、変わらないものもあるんじゃないですか」

「……」

 律は答えなかった。蛍と、ようやく解放された朔夜と、缶を持ったままの綾を、順番に見る。

「……悪かったな、色々」

 綾が、瞬きをした。

「綾。お前の親父さんのこと、あんな言い方をした」

「……お父様には、訊いたわ」

 綾は缶をテーブルに置いた。

「泣きながら、謝られた。……確かに、私たちは買われたのかもしれない。でも、あの人がくれたものは、お金じゃ測れなかった。それが分かったから、もういいわ」

 隣で、朔夜の箸が止まった。

「……金が、動いていたのか」

「ああ。表向きは、施設への寄付ってことになってる」

 それだけ答えて、律は隣に目を向けた。

「蛍。朝霧の時も、ノクターンでも、お前の手を取らなかった」

「……次の日には、ノクターンで握ってくれました」

 蛍の返事に、律は鼻を鳴らした。

「死んだと思ってたのに、東京まで戻ってきやがって。……大したもんだと思ったよ」

 律は、最後に朔夜を見た。

「役員会の日は、悪かった」

 朔夜はしばらく、律を見ていた。

 それから、手元の缶を置いた。

「あの日、聞きそびれたことがある。……北辰のことだ」

 律の指が、缶の上で止まった。

 蛍が、兄の横顔を見た。

「……ここで話すことじゃねえ」

 律の声は低かった。

 朔夜が何か言いかけた、その時。

「はい、そこまで!」

 綾が両手を打ち鳴らした。

「仕事の話はここまでよ。今日は午後休なんだから。食べましょ!」

「……水入らずの場を、重くして悪かったな」

 苦虫を噛み潰したような顔の律を見て、綾が口元を緩める。

「あら、律。あなたも家族になりたいの?」

「んなわけねえだろ」

「ペット枠なら空いてるわよ」

「ふざけんな! 誰がなるか!」


 ◇


 弁当が空になる頃には、日が少し傾き始めていた。

 律は空き缶と容器を一つの袋にまとめると、ベンチから腰を上げた。

「おい、蛍。ゴミ捨てに行くぞ。手伝え」

「え? そんなに量、ないですよ」

「いいから来い」

 蛍は首を傾げながらも、律の後をついていった。

 綾はちらりと律の背中を見て、何も言わなかった。


 ◇


 二人の背中が遠ざかると、ベンチは急に静かになった。

 朔夜の頬は、わずかに赤い。律の思惑どおり、会社に戻れる顔ではなかった。

 沈黙を破ったのは、綾だった。

「……ねえ、朔夜。結婚の話、どうなってるの?」

 朔夜は答えなかった。

 綾は、テーブルの上の缶を指先で転がした。

「蛍ちゃんに話してから、ちゃんと言うって言ってたわよね」

「……言えなかった」

 蛍と二人で食事をするはずだった夜は、果たされないまま流れた。

「結婚しようって言ったの、本気?」

 朔夜の目が、公園の入口へ向かう小さな背中を追った。

 答えは、すぐには返ってこなかった。

「……その方が、いいと思って……」

「やっぱりね」

 綾は深く溜息を吐いて、空を仰いだ。

「あなたも律も、ほんと世話の焼ける幼馴染だわ」

 朔夜は膝の上で、指を組んだ。

「綾。お前の気持ちを、利用した。……すまなかった」

 綾は空を見上げたまま、しばらく黙っていた。

「知ってたわよ、そんなこと」

 声は、思っていたより静かだった。

「わかってた。でも、嬉しかった。……知ってて、いいって言ったの。私も、ずるかった」

 綾は、ようやく朔夜の方を向いた。

「お互い様ね?」

 風が吹いて、葉の落ちた枝が乾いた音を立てた。

 朔夜は綾の顔を見て、それから目を伏せた。

「……何か、したいことはあるか」

「え?」

「詫びになるとは思っていない。……お前が言うなら、全部やる」

 綾は目を瞬かせた。それから、呆れたように笑った。

「全部って。あなた、そういうところよ」

 綾は少しだけ、朔夜の方へ身を寄せた。

「二人が戻ってくるまで。肩、貸して」

 朔夜が返事をする前に、綾の頭が、肩に乗った。

 いつかの暗がりで、この男が自分の肩にもたれて眠っていたのを、綾は思い出す。

 目を閉じたまま、小さく息を吐いた。

「逃げ道にされる結婚なら、いらないわ。……でも、私があなたを好きなのは、変わらないから」

 朔夜は、何も言わなかった。


 ◇


 公園の入口に、ゴミ箱が並んでいた。

 律は袋を提げたまま、足を止めた。

「……あの部屋で、ノートを見た」

「ノート?」

「閉じ込められてたあいつを見に行った時だ。机の上にあった。ランプのこととか、祝いのこととか」

 蛍の顔が、みるみる赤くなった。

「み、見たんですか!?」

「置きっぱなしにしてる方が悪い」

 律はゴミ箱の蓋を押し上げ、空き缶の袋を放り込んだ。

「不正の責任だが……俺は、宗玄が朔夜に被せると思ってた」

 蓋が、音を立てて閉まる。

「だが、被ったのはお前だった。……役員会で、宗玄に何か言ったんだろ」

 蛍は答えなかった。

「朔夜を庇ったのか」

「……兄さんを、悪く言われたので」

 律は短く笑った。

「お前、あいつのこと大好きだな」

 蛍は何も言わず、ベンチの方に目を向けた。朔夜の肩に、綾が頭を預けている。朔夜は動かず、前を見たままだった。

 風が、短い髪を揺らした。

「……言ってやれよ」

「えっ……?」

「言えるうちに、な」

 律はもう、蛍を見ていなかった。傾きかけた空を見上げている。

 朔夜が戻ってこられたのは、あいつが強かったからじゃない。手を離さなかった奴がいたからだ。

 ――俺は、離した。

 煙草を探りかけた指を、律はポケットの中で握り込んだ。


 ◇


 その夜、蛍は台所で夕食の皿を洗っていた。

 背後のソファで、朔夜が新聞を広げている。

「蛍」

「なに?」

「前に、大事な話があると言っただろう」

 蛍の手が、泡のついた皿を持ったまま止まった。

 あの夜、携帯の画面で見せられた、綺麗な店。果たされなかった約束。

「……うん」

「あれは、無くなった」

 振り返ると、朔夜は新聞に目を落としたままだった。けれど、その目は記事を追っていなかった。

「綾とのことだ。……俺が、駄目にした」

 蛍はすぐには返事ができなかった。

 胸の奥で、何かがほどけた。ほどけたことに気づいて、それがひどく後ろめたかった。

「……そっか」

 それしか言えなかった。

 おめでとう、の代わりに用意していた言葉は、どこにもなかった。

 ――言えるうちに、な。

 公園で聞いた声が、耳の奥に残っていた。

「兄さん。あの……」

「なんだ」

「あの、えっと……」

 泡のついた皿を握ったまま、続きが出てこない。

 朔夜は新聞を畳んで、立ち上がった。

「言えないなら、別にいい。……風呂に入る」

「あ……うん」

 足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。浴室の戸が閉まる音がした。

 蛍は皿を流しに置いた。蛇口をひねる。

 言えるうちに、と言われたばかりなのに。

「また今度……言えばいっか」

 水の音が、言わなかった言葉ごと、排水口へ流れていった。


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