言えるうちに
その夜、陽人はまたあの部屋に呼び出されていた。
本棚と酒樽。小さなテーブルと、椅子が二つ。会社を出てからずっと後ろにいた黒い車は、邸の門の前に停まったきり動かない。
「……御影」
宗玄は窓際に立ったまま、こちらを見なかった。
「……何でしょうか」
返事の代わりに、宗玄はテーブルへ歩み寄った。グラスを二つ並べ、瓶を傾ける。鈍い深紅が、それぞれの底に溜まっていった。
「飲んでみろ」
差し出されたグラスの向こうで、鋭く細められた目がこちらを見ていた。
酒はさほど得意ではなかった。ただ、その目に気圧されるように、グラスを受け取った。
少し、口を付ける。
「……渋い、ですね」
宗玄は答えず、自分のグラスを傾けた。
「朔夜さんとも、飲むんですか?」
宗玄は静かに首を振った。
それきり、グラスの中に目を落としている。部屋に、空調の低い音だけが残った。
「お前は、親を疑ったことがあるか」
唐突な問いだった。
父の顔が浮かぶ。女遊びを武勇伝と呼んで笑う顔。その名前を名乗りたくなくて、母の姓を使っていた頃のこと。
けれど、あの人が自分の父親であることを、疑ったことはなかった。
「……無い、ですけど」
「そうか」
宗玄はもう一口、ワインを含んだ。
「幸せなことだ」
褒められたのか、哀れまれたのか、陽人には分からなかった。
テーブルの上に、封筒が一つ置かれた。厚みはほとんどない。
「調べろ。御影の研究所なら、すぐだろう」
「……何を、ですか」
「朔夜と、私だ」
陽人の指が、封筒の手前で止まった。
宗玄は、それ以上何も言わなかった。
◇
1月も終わりに近づいていた。
赤城ビルの非常階段は、昼間でも薄暗かった。
律は踊り場の手すりにもたれ、煙草に火を点けた。吐き出した煙が、風に千切れて消えていく。
――あの日の社長室を、思い出していた。
半日、朔夜をここに留めておけ。それが、宗玄に命じられた仕事だった。
今、黒崎で役員会が開かれてる――そう告げると、朔夜は黙って立ち上がった。
こちらを、見向きもしなかった。
契約を踏み倒したのはそっちのくせに。
肩を掴むと、ようやく振り返った。いつもの、すました顔で。
気づけば、胸ぐらを掴んで突き飛ばしていた。
煙草の灰が、音もなく落ちた。
それから、秘書室の床に座り込んでいる男を見た。何も映さない、涸れきった目。机の上に残された、赤いノート。
勝った、とは思えなかった。
黒崎蛍は、死んだことにされていた。それでも北の果てから、髪を切って、名前を隠して、東京まで戻ってきた。
兄に会うために。
ノクターンで差し出された手を、律は取らなかった。それでもあいつは、次の朝も同じ場所で待っていた。
『――今でも、兄さんの友達ですよね』
周年の夜、舞台袖のカーテンの陰から、抱き合う二人を見た。
自分は、何をしていたのか。結局、飼い主の――宗玄の手のひらの上で吠えていただけだ。その間に、あの二人は、自分の足で互いの元へ辿り着いていた。
ちっぽけだ、と思った。
律は煙草を灰皿に押しつけた。
周年の夜から、サイドミラーに黒い車が映らない。朔夜を助手席に乗せて逃がしたのは自分だ。宗玄の耳に入っていないはずがない。それなのに、呼び出しも、咎める電話の一本もなかった。
放し飼いにされている。そう思うことにした。その方が、まだ気味の悪さを飲み込める。
赦されるとは思っていない。赦してほしいのかどうかも、よく分からない。
「……ふん」
自嘲するように、律は鼻を鳴らした。
足は、黒崎ビルに向かっていた。
◇
黒崎ビルのエントランスに入ると、受付嬢が律に気づいた。
黒崎朔夜に会いたいと告げると、一瞬、戸惑った様子だったが、すぐに内線へ手を伸ばした。
短い確認の後、社長室へどうぞと案内された。
最上階の廊下は、あの日と同じだった。
ただ、秘書室の前に黒服は立っていない。開いたままの扉の奥に、小さな机が見えた。椅子はきちんと机に収まっている。
律はその前を通り過ぎ、社長室の前まで来た。
ノックしようとして、手が止まった。
……中が、何やら騒がしい。
珍しく、朔夜の怒鳴るような声が聞こえる。
「……入るぞ」
扉を開ける。
目に飛び込んできたのは、デスクの奥に立つ朔夜。右腕に蛍、左腕に綾。両腕を、それぞれ別の女に抱え込まれている。
「兄さん!! 今日はもう午後休取りますよ!! フラフラじゃないですか!!」
「そうよ、朔夜!! 今日いい天気だし外でランチしましょ!!」
「あっ、いいなあ~」
「もちろん蛍ちゃんもよ? 家族三人、水入らずでね?」
「ふざけるな! まだ決裁承認が――」
そこでようやく、朔夜は入口に立つ律に気づいた。助けを乞うような目が、こちらを向く。
「――律!!」
「……黒崎の社長ってのは、良いご身分なんだな」
扉を閉めた。
数歩も行かないうちに、背後で扉が勢いよく開いた。
「待ってください、律さん!」
蛍だった。
「……兄さんを引き剥がすのを手伝ってください!!」
「何でだよ!!」
◇
朔夜は最低限の業務だけ終えると、蛍と綾に押し切られ、午後休を使う羽目になった。
天気がいいから、という綾の一声で、弁当を買って近くの公園で食べることになった。話があって来た手前、帰るわけにもいかない。律も渋々付き合うことになった。
コンビニで、蛍が弁当をかごに入れていく。そのかごの中に、律は缶ビールを数本放り込んだ。
「えっ?」
「あいつ、隙を見て会社に戻る気だぞ。飲ませとけば、戻れなくなる」
律は、弁当の棚の前で眉間に皺を寄せている朔夜を、顎でしゃくった。
「念には念を、だ」
◇
コンビニから歩いて数分の公園は、ベンチのあたりだけ日だまりになっていた。4人は木のテーブルに弁当とビールを並べ、ベンチに腰を下ろした。
相変わらず朔夜の左隣を死守する綾。その向かいで、律は蛍の隣に座り、缶ビールを開けた。
謝りに来たというのに、まるでそんな空気ではない。
「あら、お酒あるじゃない!」
「律さんが買ってくれました。……飲ませたら働けなくなるので」
「なるほど? 気が利くわね」
律は自分用に開けた缶ビールを、綾に渡した。
「……朔夜に飲ませてやれ」
「律!?」
「はい、朔夜。直接飲ませてあげるわ」
「――っ!! んん――!!」
缶を口元に当てられ、無理矢理流し込まれる。
とても、大企業のCEOの姿ではなかった。
そのやり取りを見て、律は静かに目を伏せた。
「……変わらねえな」
3人の目が、律に向いた。
「変わらねえな、お前らは」
それから律は新しい缶を開けて、口をつけた。
「……律さんもでしょ?」
「いや」
「変わってしまったことがあっても、変わらないものもあるんじゃないですか」
「……」
律は答えなかった。蛍と、ようやく解放された朔夜と、缶を持ったままの綾を、順番に見る。
「……悪かったな、色々」
綾が、瞬きをした。
「綾。お前の親父さんのこと、あんな言い方をした」
「……お父様には、訊いたわ」
綾は缶をテーブルに置いた。
「泣きながら、謝られた。……確かに、私たちは買われたのかもしれない。でも、あの人がくれたものは、お金じゃ測れなかった。それが分かったから、もういいわ」
隣で、朔夜の箸が止まった。
「……金が、動いていたのか」
「ああ。表向きは、施設への寄付ってことになってる」
それだけ答えて、律は隣に目を向けた。
「蛍。朝霧の時も、ノクターンでも、お前の手を取らなかった」
「……次の日には、ノクターンで握ってくれました」
蛍の返事に、律は鼻を鳴らした。
「死んだと思ってたのに、東京まで戻ってきやがって。……大したもんだと思ったよ」
律は、最後に朔夜を見た。
「役員会の日は、悪かった」
朔夜はしばらく、律を見ていた。
それから、手元の缶を置いた。
「あの日、聞きそびれたことがある。……北辰のことだ」
律の指が、缶の上で止まった。
蛍が、兄の横顔を見た。
「……ここで話すことじゃねえ」
律の声は低かった。
朔夜が何か言いかけた、その時。
「はい、そこまで!」
綾が両手を打ち鳴らした。
「仕事の話はここまでよ。今日は午後休なんだから。食べましょ!」
「……水入らずの場を、重くして悪かったな」
苦虫を噛み潰したような顔の律を見て、綾が口元を緩める。
「あら、律。あなたも家族になりたいの?」
「んなわけねえだろ」
「ペット枠なら空いてるわよ」
「ふざけんな! 誰がなるか!」
◇
弁当が空になる頃には、日が少し傾き始めていた。
律は空き缶と容器を一つの袋にまとめると、ベンチから腰を上げた。
「おい、蛍。ゴミ捨てに行くぞ。手伝え」
「え? そんなに量、ないですよ」
「いいから来い」
蛍は首を傾げながらも、律の後をついていった。
綾はちらりと律の背中を見て、何も言わなかった。
◇
二人の背中が遠ざかると、ベンチは急に静かになった。
朔夜の頬は、わずかに赤い。律の思惑どおり、会社に戻れる顔ではなかった。
沈黙を破ったのは、綾だった。
「……ねえ、朔夜。結婚の話、どうなってるの?」
朔夜は答えなかった。
綾は、テーブルの上の缶を指先で転がした。
「蛍ちゃんに話してから、ちゃんと言うって言ってたわよね」
「……言えなかった」
蛍と二人で食事をするはずだった夜は、果たされないまま流れた。
「結婚しようって言ったの、本気?」
朔夜の目が、公園の入口へ向かう小さな背中を追った。
答えは、すぐには返ってこなかった。
「……その方が、いいと思って……」
「やっぱりね」
綾は深く溜息を吐いて、空を仰いだ。
「あなたも律も、ほんと世話の焼ける幼馴染だわ」
朔夜は膝の上で、指を組んだ。
「綾。お前の気持ちを、利用した。……すまなかった」
綾は空を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「知ってたわよ、そんなこと」
声は、思っていたより静かだった。
「わかってた。でも、嬉しかった。……知ってて、いいって言ったの。私も、ずるかった」
綾は、ようやく朔夜の方を向いた。
「お互い様ね?」
風が吹いて、葉の落ちた枝が乾いた音を立てた。
朔夜は綾の顔を見て、それから目を伏せた。
「……何か、したいことはあるか」
「え?」
「詫びになるとは思っていない。……お前が言うなら、全部やる」
綾は目を瞬かせた。それから、呆れたように笑った。
「全部って。あなた、そういうところよ」
綾は少しだけ、朔夜の方へ身を寄せた。
「二人が戻ってくるまで。肩、貸して」
朔夜が返事をする前に、綾の頭が、肩に乗った。
いつかの暗がりで、この男が自分の肩にもたれて眠っていたのを、綾は思い出す。
目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
「逃げ道にされる結婚なら、いらないわ。……でも、私があなたを好きなのは、変わらないから」
朔夜は、何も言わなかった。
◇
公園の入口に、ゴミ箱が並んでいた。
律は袋を提げたまま、足を止めた。
「……あの部屋で、ノートを見た」
「ノート?」
「閉じ込められてたあいつを見に行った時だ。机の上にあった。ランプのこととか、祝いのこととか」
蛍の顔が、みるみる赤くなった。
「み、見たんですか!?」
「置きっぱなしにしてる方が悪い」
律はゴミ箱の蓋を押し上げ、空き缶の袋を放り込んだ。
「不正の責任だが……俺は、宗玄が朔夜に被せると思ってた」
蓋が、音を立てて閉まる。
「だが、被ったのはお前だった。……役員会で、宗玄に何か言ったんだろ」
蛍は答えなかった。
「朔夜を庇ったのか」
「……兄さんを、悪く言われたので」
律は短く笑った。
「お前、あいつのこと大好きだな」
蛍は何も言わず、ベンチの方に目を向けた。朔夜の肩に、綾が頭を預けている。朔夜は動かず、前を見たままだった。
風が、短い髪を揺らした。
「……言ってやれよ」
「えっ……?」
「言えるうちに、な」
律はもう、蛍を見ていなかった。傾きかけた空を見上げている。
朔夜が戻ってこられたのは、あいつが強かったからじゃない。手を離さなかった奴がいたからだ。
――俺は、離した。
煙草を探りかけた指を、律はポケットの中で握り込んだ。
◇
その夜、蛍は台所で夕食の皿を洗っていた。
背後のソファで、朔夜が新聞を広げている。
「蛍」
「なに?」
「前に、大事な話があると言っただろう」
蛍の手が、泡のついた皿を持ったまま止まった。
あの夜、携帯の画面で見せられた、綺麗な店。果たされなかった約束。
「……うん」
「あれは、無くなった」
振り返ると、朔夜は新聞に目を落としたままだった。けれど、その目は記事を追っていなかった。
「綾とのことだ。……俺が、駄目にした」
蛍はすぐには返事ができなかった。
胸の奥で、何かがほどけた。ほどけたことに気づいて、それがひどく後ろめたかった。
「……そっか」
それしか言えなかった。
おめでとう、の代わりに用意していた言葉は、どこにもなかった。
――言えるうちに、な。
公園で聞いた声が、耳の奥に残っていた。
「兄さん。あの……」
「なんだ」
「あの、えっと……」
泡のついた皿を握ったまま、続きが出てこない。
朔夜は新聞を畳んで、立ち上がった。
「言えないなら、別にいい。……風呂に入る」
「あ……うん」
足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。浴室の戸が閉まる音がした。
蛍は皿を流しに置いた。蛇口をひねる。
言えるうちに、と言われたばかりなのに。
「また今度……言えばいっか」
水の音が、言わなかった言葉ごと、排水口へ流れていった。




