王へ、駒へ(後編)
その日の夕方、黒崎邸の台所には、久しぶりに二人分の包丁の音が響いていた。
「ちょっと蛍ちゃん、じゃがいもの面取りが雑よ。煮崩れるじゃない」
「崩れてるくらいが、味が染みて美味しいんですよ?」
「言うようになったわねえ」
リコは呆れたように肩をすくめ、手際よく玉ねぎを刻んでいく。醤油とみりんの匂いが、少しずつ部屋に満ちていった。
献立を決めたのは蛍だった。肉じゃが。この家の台所で、最初に作った料理だ。
「そうそう。忘れるところだったわ」
リコが、持ってきた紙袋の底に手を入れた。
まな板の横に、緑と橙の野菜が、どさりと置かれる。
蛍の顔から、すうっと血の気が引いた。
「今日は特別に、これも持ってきてあげたのよ。ご飯をお残しした罰として、兄妹連帯責任よ♡」
◇
朔夜はリビングの窓際で、携帯を耳に当てていた。
呼び出し音が続き、やがて留守番電話の案内に切り替わる。
通話を切った。画面を見下ろしたまま、しばらく指が止まる。それから短い文を打ち込み、送信した。
『――蛍とまた会えたのは、お前のお陰だ。ありがとう』
画面は、それきり静かなままだった。
◇
7時を過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。
馬場と鹿島が、揃って頭を下げて入ってくる。その後ろに、一人だけ硬い面持ちの男が立っていた。
「……お招きいただき、恐縮です」
鷹取がその場で深く腰を折った。
朔夜は少しの間、黙って鷹取を見ていた。それから自分の手で、向かいの椅子を引いた。
「座れ。お前には、借りがある」
鷹取はしばらく椅子を見つめていたが、もう一度一礼してから腰を下ろした。
全員が席につき、食卓を囲む。
蛍は久しぶりに、自分で作った晩御飯を口にした。
肉じゃがは、この食卓で朔夜が初めて「美味しい」と言った味だ。蛍が泣いた味でもあった。少し煮崩れたそれを、どこか懐かしく感じながら口へ運ぶ。
食事が半ばを過ぎた頃、朔夜の箸が止まった。
皿の端に、ピーマンが寄せられている。
向かいで、蛍の箸も止まっていた。こちらの皿の端には、人参が寄っている。
目が合った。
「兄さん」
「ああ」
それだけで通じた。朔夜のピーマンが蛍の皿へ、蛍の人参が朔夜の皿へ、一切れずつ渡っていく。
「ちょっと、あなたたち!!」
箸を握ったまま、リコが二人を交互に睨みつけた。
「出されたものは、ちゃんと食べなさいよ!!」
「交換しても、栄養的には問題ない」
朔夜は涼しい顔で、蛍の皿から来た人参を口に運んだ。
「ちゃんと二人で、残さず食べますから」
蛍も澄ました顔で、ピーマンを一切れ頬張る。
リコの箸の先が、わなわなと震えた。
「いい歳して、全く……!!」
その向かいで、馬場と鹿島が顔を見合わせ、揃って深く頷いた。これが見たかったのだと言わんばかりに、頬が緩みきっている。
鷹取だけが、箸を持ったまま、そのやり取りを静かな目で見ていた。
本邸の食卓でも、幼い朔夜はそれを食べられずにいた。皿の端に寄せるか、無理矢理口に押し込むか、そのどちらかだった。
癖は、あの頃のままだった。けれど今は、皿の上のものを分け合える相手がいる。
鷹取はふっと息を吐き、自分の皿に目を落とした。
◇
食事が終わり、リコたちが帰り支度を始めた。
靴を履き終えた鷹取が、玄関で振り返った。
「藤堂様は、しばらく宗玄様のお側を離れられないと伺っております。……その間、この家のことは、私にお申し付けください」
蛍は朔夜を見上げた。兄は驚いた様子もなく、ただ頷いた。
「頼む」
鷹取が深く一礼し、夜の中へ出ていく。閉じた扉を見たまま、朔夜が言った。
「近々、本邸に行くつもりだ。藤堂にも、挨拶しておきたい」
「……うん」
「それと、父さんと話がしたい」
蛍は兄の横顔を見た。
「お前のことを、どう思っているのか。……俺のことも」
少しの間があった。
「将棋の相手はしてきたが、話をしたことは、一度もなかった気がする」
蛍は何も言わず、兄の袖をそっと引いた。
リビングのランプは、昨夜と同じ場所に置かれていた。朔夜がスイッチを入れ、ソファに腰を下ろす。蛍もその隣に座った。
不規則な光が、二人の膝の上で揺れる。
朔夜が胸ポケットに手を入れた。取り出されたのは、四つ折りの紙だった。
角が擦れて丸くなり、折り目が白く毛羽立っている。何度も開いては、閉じたのだろう。
「……それ、まだ持ってたの?」
「捨てられるか」
朔夜が紙を開いた。丸みを帯びた字が、ランプの明滅の中に浮かぶ。
『――あなたが教えてくれた一等星は、まだ輝く』
紙の文字を手でなぞり、しばらく見つめている。
蛍はランプの光に目を移した。
「……お母さんとお父さんが眠っているお墓に、行ってきたよ」
朔夜が顔を上げた。
「藤堂さんが、連れていってくれた。川沿いの道を上った奥の、木の下の白いお墓」
「……あそこか」
兄の声が、ひどく遠いところから聞こえた。
「雪に埋もれてて、川も凍ってた。兄さんが話してくれた夏の夜のこと、私、やっぱり思い出せなかった。でも……」
膝の上で、蛍は両手を重ねた。
「川の音を聞いてたら、兄さんの声が聞こえた気がしたの。『蛍』が一番明るい一等星だよ、って」
朔夜は何も言わなかった。手の中の紙を、もう一度丁寧に折り直した。
墓の前で、小指を差し出したことを思い出す。結ばれないままの、指切りを――
「「――あの」」
声が重なった。
「……なんだ」
「そっちこそ」
ランプの光が、二人の間で揺れている。朔夜はしばらく黙っていた。
「……明日も、飯を作ってくれるか」
その穏やかな目を見て、蛍は言いかけていた言葉を――墓前での約束を、喉の奥にしまった。
「……うん。でも、毎日は無理だよ」
「そうか」
朔夜が、息だけで笑った。
四つ折りの紙が、胸ポケットに戻される。
窓の低いところで、糸のように細い月が沈みかけていた。
◇
会社を出た陽人は、自宅へ向けて車を走らせていた。
赤信号で停まる。助手席の携帯を取り上げ、届いたままのメッセージをもう一度開いた。
『――蛍とまた会えたのは、お前のお陰だ。ありがとう』
返信の欄に、指を置く。何も打たないまま、画面を伏せた。
フロントガラスの手前で、紅い縁の眼鏡が信号の色を拾っていた。
バックミラーに目をやる。2台後ろに、黒い車が1台停まっている。会社の駐車場を出た時から、ずっと同じ距離にいた。
時刻は、夜10時を回ろうとしていた。
◇
――12月24日の夜。
「……僕って、目立つんだよね?」
細い路地の奥で車を停め、バックミラーに映る眼鏡姿の自分に、陽人は苦笑した。
建物の隙間から、広場の樹の頂がのぞいている。枝の先まで光をまとった樹の、てっぺんの星だけが、この暗い路地まで届いていた。
陽動を買って出る。不安な顔をした蛍を何とか説得した。
今日はクリスマスイブだった。贈り物の一つも用意していない。今の自分に渡せるものといえば――。
「……何度別れたとしても、また会えるよ」
陽人は、蛍の紅い眼鏡をそっと外した。
縁のなくなった目が、まっすぐにこちらを見上げている。頬に触れると、蛍はきつく目を閉じた。
――しても、いいんだろうか。
睫毛が、かすかに震えていた。
「……」
陽人は少し顔を引いた。自分の蒼い眼鏡を外し、蛍の耳にそっと掛ける。手の中に残った紅は、自分で掛けた。
「……どう? 目立つ?」
「……似合ってる、よ」
助手席を降りた蛍が、一度だけ振り返った。
「――必ず、また会おう」
坂を下りていく小さな背中を見届けてから、アクセルを踏んだ。
大通りへ出ると、光が車内に流れ込んできた。
窓の外を、腕を組んだ男女が行き交っている。
毎年この時期になると、誘いが来た。イブを一緒に、と言われるたびに、笑って、時には嘘をついて、断ってきた。
――この四日間、誰も僕を見ていなかった。
バックミラーに目をやる。紅い縁は、自分の顔にはどうにも似合っていない気がした。後方の交差点に、黒い車の鼻先が現れていた。
わざと速度を落とし、電飾の並ぶ通りを走る。歩道の人波から、何人かがこちらを振り返った。
脇道へ入る。黒塗りの車も、ついてくる。
鏡の中で、樹の頂の星がだんだんと小さくなっていく。代わりに、背後のヘッドライトが眩しさを増していった。
助手席には、誰もいない。空いた席を一瞥して、溜息をついた。
――あの時、なんで踏みとどまったんだろう。
少しだけ、唇を触った。
「……しとけばよかったかな」
細い道で撒いたと思った黒い車に、大通りの先で挟まれた。
窓越しに名前を確かめられ、空の助手席を照らされ、蛍の行方を問われた。首を傾げてとぼけてみせると、黒服は舌打ちをして、無線に短く何かを告げた。
それから運転席のドアを外から引き開けた。左の手首を掴まれ、外へ引きずり出される。捻り上げられた骨が軋んだ。
「……まあいい。どのみち、お前も連れてこいとの命令だ」
「僕も?」
「宗玄様がお待ちだ」
気づけば、車の周りを数人の黒服に囲まれていた。
「ついてきてもらおう」
◇
連れてこられたのは、宗玄が所有する邸のひとつだった。
殺風景な部屋だった。壁際に本棚と酒樽。棚の近くに、小さなテーブルと椅子があるだけだ。
背中を押されるようにして奥へ進む。暗がりに、男が一人立っていた。
「……来たか」
黒崎宗玄。こうして向き合うのは、三度目になる。プレゼンの場で値踏みされた時。黒崎の社長室で、蛍が死んだと告げられた時。
あの時と同じ、圧のある佇まいだった。
「……僕に、何のご用でしょうか」
「ふむ……」
宗玄は陽人を眺めていた。品定めするような、冷たい目。
それから背後にある黒革の椅子に腰を下ろした。
「いい目だな」
「え?」
「真っ直ぐな目をしている」
低い声が続いた。
「……黒崎蛍は、生きているな?」
陽人の表情が、一瞬だけ強張った。
「君は、分かりやすいな」
宗玄の声は静かだった。
「あれは朔夜に会いに、東京の近くまで来ている。違うか」
陽人は答えなかった。表情を、それ以上は動かさなかった。
宗玄はしばらく陽人を見つめていた。
「……会わせたいか?」
「……っ」
陽人は男を見た。
顔に刻まれた皺の深さが、この人の生きてきた時間を語っている。20年と少ししか生きていない若造の胸の内など、たやすく見透かされるのだろう。
陽人は黙ったまま、目を伏せた。
――蛍が、死ぬかもしれない中、命を懸けてここまで戻ってきた理由。
自分ではない。
朔夜に会うためだ。
それは分かっていた。
そして朔夜もまた、蛍を何より大切にしている。
自分がそうだったように、あるいはそれ以上に、蛍に会いたいに決まっている。
二人の間にあるものを、陽人はずっと見てきた。共に過ごした年月は短くても、互いを想うそれは、どんな言葉の定義にも収まらないほど深い。
それは、自分が容易に踏み込めるものではないと、わかっていた。
陽人が口を開きかけた時だった。
「……会わせたくないのか?」
「……え?」
思わず顔を上げた。細められた宗玄の目と、視線がぶつかる。
「お前の気持ちを、考えてみよう」
宗玄はわざとらしく顎に手を添えた。
「お前にとって、黒崎蛍は大事だ。……黒崎朔夜は、邪魔だ」
「そんなこと――」
「あれは、朔夜を庇った」
宗玄は肘掛けを、指先で一度だけ叩いた。
「罰を受けたその身で、戻ってきた。朔夜に会うためにな。……その男のために怒り、泣いていた」
「……」
「朔夜がいなければ、すべて、お前の手に入っていた」
陽人の喉が、小さく鳴った。
「違うか?」
「……」
「今、朔夜は私の手の内にある。いつでも消せる」
「……馬鹿なこと、言わないでください」
「妹が死んだと聞いて、後を追った。それだけの話だ。お前が罪の意識を感じる必要はない」
「……」
「素直になれ。もっと、本心に耳を傾けてみろ」
心臓を直接握られているようだった。これまで取り繕ってきた笑顔を剥がされ、その裏にあるものを無理やり引きずり出される。
「……私は、お前の『それ』を責めない」
素直になってもいいのだろうか。抗わなくてもいいのだろうか。
この人は、自分の中心にある暗がりを見抜いてくる。
――黒崎朔夜。あの人がいなければ、高校のあの夏のあとも、蛍とずっと一緒にいられたかもしれない。
引きずり続けているこの葛藤も、初めから存在しなかった。
僕のために怒って、泣いて、今も隣で笑ってくれていたかもしれない。
こんなふうに、苦しむことも、なかった。
そこまで、考えた。
けれど――。
陽人は静かに、息を吐いた。
「……会わせたい、です」
「理由を聞こうか」
「あなたには、嘘も誤魔化しも通じなさそうなので。本心で話します」
陽人は宗玄の目を、正面から見据えた。宗玄は何も言わなかった。
「……僕は、蛍さんが好きです」
潤んだ目は、どこまでもまっすぐだった。
「一生懸命で、温かくて、諦めが悪くて。……それから、一途で」
声が揺れた。陽人は奥歯を噛んで、続けた。
「ひとつ、わかったことがあります。僕の好きな蛍さんがいるのは――たったひとりのために、怒って、泣いて、命を懸けるほど必死になれる蛍さんがいるのは……朔夜さんがいたからです」
一筋、涙が落ちた。
「今の僕がいるのも、黒崎朔夜さんがいたからです」
経営者を目指したのも、あの人の話を聞いたからだった。
「僕は、あの二人が好きです。二人とも、大切な人です。お互いを想っていることも含めて。だから……」
ゆっくりと、息を整える。
「……会わせたい、です」
宗玄は、涙が頬を伝い落ちるのを最後まで黙って見届けていた。
「……蛍だけだと思っていたが。まさか、朔夜までとは」
「……」
「お前も強情なようだ。……いいだろう」
宗玄の口元が、わずかに歪んだ。
「条件がある」
陽人は顔を上げた。
「お前が、私の駒になれ。そうすれば、二人を会わせてやる」
淡々とした声だった。
「黒服には、朔夜にも蛍にも手を出させない。……だが、従わなければ。あるいは裏切れば、容赦はしない」
陽人はしばらく黙っていた。
やがて、頷いた。
「……分かりました」
「お前には黒服をつける。どこへ行こうと、誰と会おうと、私には分かる」
宗玄の視線が、陽人の鼻にかかった紅い縁の上で止まった。
「勝手な真似をすれば、二人とも消す」
身体の脇で、陽人は拳を握りしめた。捻られた左の手首が、鈍く痛んだ。
「……分かりました」
――解放されたのは、2日後の夕方だった。
邸の外に、自分の車が置かれていた。運転席に座り、携帯を開く。神代からの着信とメッセージが、何件も溜まっていた。
『――ノクターンでみんな待っとるよ。蛍ちゃん、会いたがってまっせ?』
画面を見つめたまま、陽人は目を伏せた。
◇
後ろの車に、クラクションを鳴らされた。
信号は、とうに青に変わっていた。
陽人は携帯を助手席に戻し、アクセルを踏んだ。
バックミラーの中で、黒い車も同じだけ距離を詰めてきていた。




