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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
6章 ベテルギウスの落日
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68/73

王へ、駒へ(前編)

 玄関の鍵を開けると、中は暗かった。

 2か月近く、誰も帰らなかった家の匂いがした。乾いた空気と、うっすら積もった埃。

 蛍が手探りで玄関の明かりを点けた。

 白い光の下で、兄の上着が目に入った。胸元から肩にかけて、濃い染みが広がっている。舞台袖で縋りついた時の、自分の涙と化粧だった。

「……あ」

 血の気が引いた。綾が選んだ上着だ。どう見ても、安いものではない。

「ご、ごめんなさい。これ、クリーニングで落ちるかな……」

 朔夜は自分の胸元を見下ろした。それから、何でもないことのように靴を脱いだ。

「……落ちなくていい」

「でも」

「おかえり、蛍」

 言葉が、喉で詰まった。

「……ただいま、兄さん」

 先に上がった朔夜が、リビングの真ん中で足を止めた。

 テーブルの上に、透明な箱がひとつ置かれている。蛍が朝霧から持ち帰った、最初のランプだった。

 朔夜の指がスイッチを押した。

 不規則な光が灯る。ホタルの明滅に合わせて、暗い部屋の輪郭が浮かんでは沈んだ。

 その灯りの中で、蛍は兄の横顔を見た。

 頬がこけていた。袖口から覗く手首に、骨の形が浮いている。会場ではスポットライトと仕立てのいいスーツに紛れて、そこまで気づけなかった。

「……兄さん。私がいない間、大丈夫……じゃなかった、よね?」

「……ああ」

 朔夜が椅子を引いて腰を下ろす。蛍もその向かいに座った。

 ランプだけが明滅を繰り返している。

「……怖かった」

 ランプを見つめたまま、朔夜が口を開いた。組まれた両手の指に、力がこもっている。

「……お前が死んだと聞かされた時、朝霧の時と同じだと思った。俺があの町に着いた時、お前はもう、ぎりぎりのところにいた」

 声が途中で掠れた。朔夜は唇を引き結び、息を吐き直した。

「今度こそ、間に合わなかったと思った……」

 組んだ指の関節が、白く浮いていた。

 兄がこんなふうに自分の感情を口にするのを、蛍は初めて聞いた。

 心配しているなら、そう言えばいいのに。東京に来たばかりの頃、リコにそう愚痴をこぼしたことがある。遠回しに「食事は摂れているか」と聞くだけで、あとは黙って背中で待っている人だった。

 その人が今、怖かったと言っている。

 蛍は椅子を立ち、テーブルを回り込んだ。朔夜の傍らにしゃがみ込み、白くなった手の上に自分の手を重ねる。冷たかった。

「私は、生きてるよ」

 朔夜の指がぴくりと動いた。

「たくさんの人に、助けてもらった。藤堂さんと、鷹取さん。リリィさんに、神代さんに、綾さん。……律さんも」

 律の名前のところで、朔夜の目が揺れた。

「それから――」

 重ねていた手に、少し力が入った。

「……陽人くん。ずっと私のこと探してくれて、見つけてくれて。一緒に隠れながら、逃げてくれた」

「……そうか」

 ――また、あいつが。

 17歳の蛍を死の淵から引き戻したのも。北から戻る蛍の手を引いて走ったのも。

 それが感謝なのか、悔しさなのか、それとも名前のつかない別の何かなのか。朔夜には判別がつかなかった。つかないまま、重ねられた妹の手の温度だけを感じていた。

「兄さん?」

「……いや。あいつには、もう一度ちゃんと礼を言わないといけないな」

 朔夜の手が、蛍の手を握り返した。

「……そうだね。夜遅いし、今日はもう寝よう。話したいこと、明日にしよう」

「……ああ。そうだな」

 それ以上、二人は何も言わなかった。


 ◇


 翌朝。

 マンションの外に出ると、朝の冷たく乾いた空気が頬を撫でた。

 車の脇に立っていたのは、馬場と鹿島だった。

 二人の姿を認めるなり、揃って深く腰を折る。顔を上げた馬場の目が赤い。鹿島に肘でつつかれて、慌てて鼻をすすった。

「お、おはようございます、社長。蛍様」

「……朝から泣くな」

「「な、泣いておりません!!」」

 鹿島が後部座席のドアを開けた。

「会長がお呼びです。出社されたら、まず会長室へ、と」

 二人は車に乗り込むと、鹿島の運転で黒崎ビルに向かった。


 ◇


 黒崎ビルに着くと、鹿島は正面ではなく裏口に車をつけた。

 正面のロビーを避けたのは、人目を気にしてのことだろう。誰の顔も見ないまま、二人は最上階へ上がった。

 エレベーターの扉が開く。

 社長室の隣に、秘書室がある。昨日の夕方まで、朔夜が閉じ込められていた部屋だ。扉の前に、もう黒服は立っていなかった。

 廊下の突き当たりが会長室だった。

「……入れ」

 ノックへの返事は、扉越しにもよく通った。

 中は薄暗かった。ブラインドが下ろされ、壁際には本棚と古い柱時計。秒針の音だけが響く部屋の奥、ローテーブルの向こうの肘掛椅子に、黒崎宗玄が座っていた。

「座れ」

 促されるまま、二人は向かいに腰を下ろした。

 宗玄の目が朔夜から蛍へ移り、そこで止まった。短くなった髪を、値踏みするように眺めている。朔夜に向けたそれより、いくらか長かった。

「用件は二つだ」

 視線が、二人を捉える。

「朔夜。社長権限の停止を解く。明日から、元の席に戻れ」

 朔夜の肩が、微かに動いた。

「それから、黒崎蛍。懲戒解雇は撤回する。籍も元に戻しておいた」

 蛍は膝の上で指を握り込んだ。

 赦されたわけではない。手の届く場所に、置き直されただけだ。

「……北辰建設の件は」

「私が預かる。お前たちが首を突っ込む話ではない」

 片付いた、とは言わなかった。

 役員会議室の長い机。答えられない問いを、一人で浴び続けた午後。遅れて扉を開けた兄に、この人は「失敗作だ」と言った。

 そして北の崖で、鷹取の手に無理やり動かされて書いた自分の名前。

 ――命じたのは、あなただ。

 喉元までせり上がった言葉を、蛍はいったん飲み込んだ。

「無かったことにする。それで構わんな」

「……撤回は、お受けします」

 蛍は顔を上げた。

「でも、無かったことには、なりません」

 部屋の空気が張った。隣で、朔夜がこちらの横顔を見たのがわかった。

「……もう、お前たちには手を出さん」

 温度のない声で言い放つ。

「私に二言は無い。……話は以上だ」

 宗玄が椅子の背にもたれた。朔夜はその姿を、黙って見ていた。

 この人の息子として本邸に上がってから、父の言葉に否と言ったことは一度もなかった。

 戻れと言われたなら、戻ればいい。それがこれまでの自分だった。

「……父さん」

 朔夜が顔を上げた。

「社長に戻るかどうかは、社員の皆に聞いてから決めさせてください」

 宗玄の眉が、わずかに寄った。

「私は朝霧の件を見抜けず、役員の前で説明一つできませんでした。その責を、秘書一人に負わせた。……閉じ込められている間、会社を回していたのは社員です。その人たちに、私がもう一度あの席に座っていいのか、聞きたいんです」

「王が、駒に伺いを立てるのか」

 3年余り前の月次会議で、朔夜を射抜いたのと同じ声だった。

「彼らにも、意思があります。誰についていくかを選ぶ権利も」

 朔夜は目を逸らさなかった。

 沈黙が落ちた。

 蛍は息を詰めて二人を見ていた。兄の横顔に、迷いはなかった。

 宗玄はしばらく朔夜を見据えていたが、やがて目を閉じた。

「……好きにしろ」

 まるで興味が無いかのような、淡々とした声だった。


 ◇


 社長室に戻ると、朔夜はジャケットを脱がないまま、デスクの受話器を取った。

 内線の脇に、普段はまず使うことのないボタンが一つある。全館への一斉放送用のものだった。朔夜がそれを押すところを、蛍は一度も見たことがなかった。

 指が、ボタンの上で一度止まった。

 押された。

 天井のスピーカーから、呼び出しの合図が、ビル中に鳴り渡った。


 8階、経営企画部。

 資料を捲っていた竹内の手が、止まった。

『……急にすまない。黒崎朔夜だ』

「……社長?」

 思わず漏れた声に、隣にいた梅野が顔を上げる。

『業務中だが、少しだけ時間をもらいたい』

 キーボードを叩く音が、ひとつ、またひとつと途切れていく。

『この2か月、私は社長の席を空けていた。朝霧の件で負うべき責任も、果たせなかった』

 その場にいた全員が、天井のスピーカーを見上げた。自分の席の松岡だけは、椅子の背にもたれて腕を組んだまま、パソコンの画面を睨んでいる。

『その間、会社を支えていたのは皆だった』

 一拍、間が空いた。

『……申し訳なかった』

「……ふん」

 松岡は、画面から目を離さなかった。ただ、組んだ腕の指先が、ジャケットの袖を強く掴んでいた。


 1階、エントランス。

 モップを押していたおタキが、ふと天井を仰いだ。

『黒崎蛍は、自分から辞めたのではない。私が負うべきだったものを背負わされて、この会社を去った。……守れなかったのは、私だ』

 モップの柄が、おタキの手から滑り落ちた。床で乾いた音が跳ねる。

『本日、会長から、社長権限の停止を解くと言われた。黒崎蛍も、秘書に戻る』

 4年近く前、このロビーの隅のソファで泣き腫らした目をしていた少女。苺の飴玉を口に含んで、もう少し頑張ってみます、と頭を下げた子。

 ひと月前、その子の字が書かれた紙を、前掛けのポケットに入れて最上階まで運んだ。あの子だと直感で分かった。何があったのかは、今も知らない。それでも、ここへ戻ってくる。

「……よかったねぇ」

 拾い上げたモップの柄を、おタキは両手で握りしめた。


 2階、社員食堂。

 昼の仕込みの湯気が立ち込める厨房で、リコは大鍋をかき混ぜていたお玉を、ぴたりと止めた。

『……閉じ込められている間、私は途中から、何もかも諦めていた。そんな私が、このまま社長の席に戻っていいのか、分からない』

 リコはお玉を鍋の縁に置いた。

 毎晩、上から下げられてくる盆。手のつけられていない椀。冷え切ったまま戻ってくる煮物。ある日、椀の底から出てきた紙切れ。

「……そういえば、お説教がまだだったわね」

 呆れたように、口の端が上がった。その目元は、少し濡れていた。


 15階、総務部。

 電話中だった園田は、受話器を耳に当てたまま、相手の声を聞いていなかった。生駒は、落としたボールペンを拾うのも忘れていた。

『そんな私に、もう一度社長を務める資格があるとは思えない。……それでも』

 スピーカーの向こうで、声が途切れた。

 フロアの誰もが、続きを待っていた。

『……私は、この会社が好きなんだと思う』

 園田の眼鏡の奥で、何かが揺れた。

『たった十数年だが、この会社で働く皆を見てきた。会社のために働いている人がいる。この会社を守ろうとしてくれた人がいる』

「……社長」

 生駒の声が、震えていた。

『その人たちのいるこの会社を、私はやはり、自分の手で経営したい』

 成瀬はデスクの上で指を組んだまま、目を閉じていた。

 いつか、会議室で頭を下げた青年を思い出していた。あんまり無理するなよ、と言った自分の声も。

「……朔夜君」

 どのフロアの社員も、手を止め、口を閉ざし、その放送に耳を傾けていた。

『許されるなら、もう一度、社長をやらせてほしい。反対なら、そう言ってほしい。遠慮はいらない。社長室の扉は、今日一日、開けておく――』


 ――一呼吸置いてから、朔夜は告げた。

「……返事を、待っている」

 社長室の中で、受話器が静かに置かれた。

 朔夜は背を伸ばし、長く息を吐いた。額に、薄く汗が滲んでいる。

 それからその部屋の扉を、自分の手で開け放った。

「兄さん。……私も、ここにいていいか、聞かなきゃ」

 朔夜の眉が寄った。

「お前は、撤回されたと――」

「北辰建設を業者の一覧に入れたのは、私だから」

 蛍は兄の言葉を遮った。

「撤回したのは会長でしょう。皆が決めたことじゃない。……私も、皆の返事を聞きたい」

 朔夜はしばらく蛍を見ていた。何か言いかけて、やめる。

 それから、黙って道を空けた。

「……廊下で、待ってる」

 蛍は兄の横をすり抜け、社長室を出た。


 ◇


 最上階の廊下は静かだった。

 エレベーターホールの手前で足を止め、壁に背を預ける。開け放たれた扉の向こうに、ソファの端に腰を下ろした兄の横顔が見えた。

 視線をずらすと、秘書室の扉があった。自分の机があった部屋。兄が2か月近く閉じ込められていた部屋。

 ――4年近く前の春、エントランスに立った最初の朝を思い出す。おはようございます、と言っても、誰にも届かなかった声。目を逸らして、足早に通り過ぎていく社員たちの背中。

 11月の朝、黒服に挟まれて正面玄関を出た時も、見えたのは同じ背中ばかりだった。

 あれから一度も、誰とも顔を合わせていない。

 蛍は、握った指に力を込めた。

 その時、エレベーターの到着音が鳴った。

 扉が、ゆっくりと開く。

 最初に降りてきたのは、松岡だった。脇に、書類の束を抱えている。

 その後ろに、竹内と梅野が続く。さらに成瀬と、その陰から園田と生駒が顔を覗かせた。

 壁際の蛍を見つけると、松岡は露骨に眉をひそめた。

「……何やってんだ、お前」

「皆さんを、待ってました」

 蛍は壁から背を離した。

「私、何も言えないまま、いなくなって……。だから、私がここにいていいのかも――」

「突っ立ってるくらい、『秘書』は暇なんだな?」

 蛍の言葉を遮って、松岡はそのまま横を通り過ぎた。数歩行ったところで、振り返りもせずに顎で社長室を示す。

「何ぼさっとしてんだ。お前も来い」

 竹内と梅野が、蛍の背中を軽く押した。

 蛍は社員たちの後について、社長室へ戻った。


 開け放たれた扉を、松岡はノックもせずにくぐった。

 ソファの端から朔夜が立ち上がる。入ってきた社員たちの顔を、一人ずつ見た。

 松岡はその前を素通りし、奥の社長デスクまで歩いていく。抱えていた書類の束が、デスクに叩きつけられた。乾いた音が響く。

 表紙に、見覚えのある文字があった。

 ――『リュシオライト 第二期展開案』

「2か月も止まってたんだ。さっさと承認してもらうからな」

 松岡はデスクの向こうの革張りの椅子を、顎でしゃくった。

「……謝るくらいなら、俺がその座り心地のいい席に座ってもいいんだぜ?」

 蛍が眉を寄せた。

「松岡さんの秘書かあ……」

「冗談だよ!! ていうか、露骨に嫌な顔すんな!!」

 竹内と梅野が揃って吹き出した。園田が肩を震わせ、成瀬が口元を押さえている。

 朔夜の口元も、わずかに緩んでいた。この部屋に笑い声が響くのを、何か月ぶりかに聞くような目で、社員たちの顔を一人ずつ映していた。

 松岡がふいと顔を背けた。

「……あんた以外に、誰がやんだよ」

 デスクの上の企画書を、指先で叩く。

「こっちは通したい企画が、山ほどあるんだ」

後ろで成瀬が、黙って頷いた。ほかの皆も、それに続いた。

朔夜は一歩前に出て、その場の全員に頭を下げた。

「……ありがとう」

 顔を上げた時、その目の縁が赤かった。

 いつの間にか扉にもたれていた松岡が、そっぽを向いたまま口を開いた。

「……おかえり」

 目は、蛍の方を見ていなかった。

「……ただいま、です」

 その返事を皮切りに、園田が蛍へ抱きついた。

「妹!! 急に退職って聞いて、びっくりしたんだよ!?」

 反対側の腕には、生駒がしがみついている。

「……心配かけて、ごめんね」

「ほんとだよ!!」

「も~、心配したんだから!!」

 頬を膨らませる生駒の隣で、成瀬が目を細めていた。その後ろから竹内と梅野が覗き込む。蛍の周りに、自然と輪ができていく。

 朔夜は一歩下がって、それを見ていた。

 隣に、いつの間にか松岡が立っていた。横目で、朔夜を見る。

「……ちゃんと土産、持って帰ってきたんだな」

「ああ。……約束どおり、最高の土産だろう」

 蛍を囲む輪の中から、成瀬が手招きした。朔夜が近づくと、肩へ腕を回され、そのまま中央へ引き入れられていく。

 輪の中心で笑う兄妹を、松岡は少し離れたところから眺めていた。

「……あんたにとっては、最高だろうがな」

 誰に聞かせるでもなく、松岡は一人呟いた。


 ――その後も、社長室を訪れる者は続いた。

 経理の若手が、人事の課長が、名前も知らない子会社の担当者が。一人で来る者もいれば、連れ立って来る者もいた。言葉は違っても、皆、その席に朔夜が戻るのを待っていた。秘書の蛍にも、そこにいてほしいと言ってくれた。

 ただ、誰もが来たわけではなかった。

 役員の誰も、扉の前には現れなかった。部長の席からも、何人かは最後まで腰を上げなかった。


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