王へ、駒へ(前編)
玄関の鍵を開けると、中は暗かった。
2か月近く、誰も帰らなかった家の匂いがした。乾いた空気と、うっすら積もった埃。
蛍が手探りで玄関の明かりを点けた。
白い光の下で、兄の上着が目に入った。胸元から肩にかけて、濃い染みが広がっている。舞台袖で縋りついた時の、自分の涙と化粧だった。
「……あ」
血の気が引いた。綾が選んだ上着だ。どう見ても、安いものではない。
「ご、ごめんなさい。これ、クリーニングで落ちるかな……」
朔夜は自分の胸元を見下ろした。それから、何でもないことのように靴を脱いだ。
「……落ちなくていい」
「でも」
「おかえり、蛍」
言葉が、喉で詰まった。
「……ただいま、兄さん」
先に上がった朔夜が、リビングの真ん中で足を止めた。
テーブルの上に、透明な箱がひとつ置かれている。蛍が朝霧から持ち帰った、最初のランプだった。
朔夜の指がスイッチを押した。
不規則な光が灯る。ホタルの明滅に合わせて、暗い部屋の輪郭が浮かんでは沈んだ。
その灯りの中で、蛍は兄の横顔を見た。
頬がこけていた。袖口から覗く手首に、骨の形が浮いている。会場ではスポットライトと仕立てのいいスーツに紛れて、そこまで気づけなかった。
「……兄さん。私がいない間、大丈夫……じゃなかった、よね?」
「……ああ」
朔夜が椅子を引いて腰を下ろす。蛍もその向かいに座った。
ランプだけが明滅を繰り返している。
「……怖かった」
ランプを見つめたまま、朔夜が口を開いた。組まれた両手の指に、力がこもっている。
「……お前が死んだと聞かされた時、朝霧の時と同じだと思った。俺があの町に着いた時、お前はもう、ぎりぎりのところにいた」
声が途中で掠れた。朔夜は唇を引き結び、息を吐き直した。
「今度こそ、間に合わなかったと思った……」
組んだ指の関節が、白く浮いていた。
兄がこんなふうに自分の感情を口にするのを、蛍は初めて聞いた。
心配しているなら、そう言えばいいのに。東京に来たばかりの頃、リコにそう愚痴をこぼしたことがある。遠回しに「食事は摂れているか」と聞くだけで、あとは黙って背中で待っている人だった。
その人が今、怖かったと言っている。
蛍は椅子を立ち、テーブルを回り込んだ。朔夜の傍らにしゃがみ込み、白くなった手の上に自分の手を重ねる。冷たかった。
「私は、生きてるよ」
朔夜の指がぴくりと動いた。
「たくさんの人に、助けてもらった。藤堂さんと、鷹取さん。リリィさんに、神代さんに、綾さん。……律さんも」
律の名前のところで、朔夜の目が揺れた。
「それから――」
重ねていた手に、少し力が入った。
「……陽人くん。ずっと私のこと探してくれて、見つけてくれて。一緒に隠れながら、逃げてくれた」
「……そうか」
――また、あいつが。
17歳の蛍を死の淵から引き戻したのも。北から戻る蛍の手を引いて走ったのも。
それが感謝なのか、悔しさなのか、それとも名前のつかない別の何かなのか。朔夜には判別がつかなかった。つかないまま、重ねられた妹の手の温度だけを感じていた。
「兄さん?」
「……いや。あいつには、もう一度ちゃんと礼を言わないといけないな」
朔夜の手が、蛍の手を握り返した。
「……そうだね。夜遅いし、今日はもう寝よう。話したいこと、明日にしよう」
「……ああ。そうだな」
それ以上、二人は何も言わなかった。
◇
翌朝。
マンションの外に出ると、朝の冷たく乾いた空気が頬を撫でた。
車の脇に立っていたのは、馬場と鹿島だった。
二人の姿を認めるなり、揃って深く腰を折る。顔を上げた馬場の目が赤い。鹿島に肘でつつかれて、慌てて鼻をすすった。
「お、おはようございます、社長。蛍様」
「……朝から泣くな」
「「な、泣いておりません!!」」
鹿島が後部座席のドアを開けた。
「会長がお呼びです。出社されたら、まず会長室へ、と」
二人は車に乗り込むと、鹿島の運転で黒崎ビルに向かった。
◇
黒崎ビルに着くと、鹿島は正面ではなく裏口に車をつけた。
正面のロビーを避けたのは、人目を気にしてのことだろう。誰の顔も見ないまま、二人は最上階へ上がった。
エレベーターの扉が開く。
社長室の隣に、秘書室がある。昨日の夕方まで、朔夜が閉じ込められていた部屋だ。扉の前に、もう黒服は立っていなかった。
廊下の突き当たりが会長室だった。
「……入れ」
ノックへの返事は、扉越しにもよく通った。
中は薄暗かった。ブラインドが下ろされ、壁際には本棚と古い柱時計。秒針の音だけが響く部屋の奥、ローテーブルの向こうの肘掛椅子に、黒崎宗玄が座っていた。
「座れ」
促されるまま、二人は向かいに腰を下ろした。
宗玄の目が朔夜から蛍へ移り、そこで止まった。短くなった髪を、値踏みするように眺めている。朔夜に向けたそれより、いくらか長かった。
「用件は二つだ」
視線が、二人を捉える。
「朔夜。社長権限の停止を解く。明日から、元の席に戻れ」
朔夜の肩が、微かに動いた。
「それから、黒崎蛍。懲戒解雇は撤回する。籍も元に戻しておいた」
蛍は膝の上で指を握り込んだ。
赦されたわけではない。手の届く場所に、置き直されただけだ。
「……北辰建設の件は」
「私が預かる。お前たちが首を突っ込む話ではない」
片付いた、とは言わなかった。
役員会議室の長い机。答えられない問いを、一人で浴び続けた午後。遅れて扉を開けた兄に、この人は「失敗作だ」と言った。
そして北の崖で、鷹取の手に無理やり動かされて書いた自分の名前。
――命じたのは、あなただ。
喉元までせり上がった言葉を、蛍はいったん飲み込んだ。
「無かったことにする。それで構わんな」
「……撤回は、お受けします」
蛍は顔を上げた。
「でも、無かったことには、なりません」
部屋の空気が張った。隣で、朔夜がこちらの横顔を見たのがわかった。
「……もう、お前たちには手を出さん」
温度のない声で言い放つ。
「私に二言は無い。……話は以上だ」
宗玄が椅子の背にもたれた。朔夜はその姿を、黙って見ていた。
この人の息子として本邸に上がってから、父の言葉に否と言ったことは一度もなかった。
戻れと言われたなら、戻ればいい。それがこれまでの自分だった。
「……父さん」
朔夜が顔を上げた。
「社長に戻るかどうかは、社員の皆に聞いてから決めさせてください」
宗玄の眉が、わずかに寄った。
「私は朝霧の件を見抜けず、役員の前で説明一つできませんでした。その責を、秘書一人に負わせた。……閉じ込められている間、会社を回していたのは社員です。その人たちに、私がもう一度あの席に座っていいのか、聞きたいんです」
「王が、駒に伺いを立てるのか」
3年余り前の月次会議で、朔夜を射抜いたのと同じ声だった。
「彼らにも、意思があります。誰についていくかを選ぶ権利も」
朔夜は目を逸らさなかった。
沈黙が落ちた。
蛍は息を詰めて二人を見ていた。兄の横顔に、迷いはなかった。
宗玄はしばらく朔夜を見据えていたが、やがて目を閉じた。
「……好きにしろ」
まるで興味が無いかのような、淡々とした声だった。
◇
社長室に戻ると、朔夜はジャケットを脱がないまま、デスクの受話器を取った。
内線の脇に、普段はまず使うことのないボタンが一つある。全館への一斉放送用のものだった。朔夜がそれを押すところを、蛍は一度も見たことがなかった。
指が、ボタンの上で一度止まった。
押された。
天井のスピーカーから、呼び出しの合図が、ビル中に鳴り渡った。
8階、経営企画部。
資料を捲っていた竹内の手が、止まった。
『……急にすまない。黒崎朔夜だ』
「……社長?」
思わず漏れた声に、隣にいた梅野が顔を上げる。
『業務中だが、少しだけ時間をもらいたい』
キーボードを叩く音が、ひとつ、またひとつと途切れていく。
『この2か月、私は社長の席を空けていた。朝霧の件で負うべき責任も、果たせなかった』
その場にいた全員が、天井のスピーカーを見上げた。自分の席の松岡だけは、椅子の背にもたれて腕を組んだまま、パソコンの画面を睨んでいる。
『その間、会社を支えていたのは皆だった』
一拍、間が空いた。
『……申し訳なかった』
「……ふん」
松岡は、画面から目を離さなかった。ただ、組んだ腕の指先が、ジャケットの袖を強く掴んでいた。
1階、エントランス。
モップを押していたおタキが、ふと天井を仰いだ。
『黒崎蛍は、自分から辞めたのではない。私が負うべきだったものを背負わされて、この会社を去った。……守れなかったのは、私だ』
モップの柄が、おタキの手から滑り落ちた。床で乾いた音が跳ねる。
『本日、会長から、社長権限の停止を解くと言われた。黒崎蛍も、秘書に戻る』
4年近く前、このロビーの隅のソファで泣き腫らした目をしていた少女。苺の飴玉を口に含んで、もう少し頑張ってみます、と頭を下げた子。
ひと月前、その子の字が書かれた紙を、前掛けのポケットに入れて最上階まで運んだ。あの子だと直感で分かった。何があったのかは、今も知らない。それでも、ここへ戻ってくる。
「……よかったねぇ」
拾い上げたモップの柄を、おタキは両手で握りしめた。
2階、社員食堂。
昼の仕込みの湯気が立ち込める厨房で、リコは大鍋をかき混ぜていたお玉を、ぴたりと止めた。
『……閉じ込められている間、私は途中から、何もかも諦めていた。そんな私が、このまま社長の席に戻っていいのか、分からない』
リコはお玉を鍋の縁に置いた。
毎晩、上から下げられてくる盆。手のつけられていない椀。冷え切ったまま戻ってくる煮物。ある日、椀の底から出てきた紙切れ。
「……そういえば、お説教がまだだったわね」
呆れたように、口の端が上がった。その目元は、少し濡れていた。
15階、総務部。
電話中だった園田は、受話器を耳に当てたまま、相手の声を聞いていなかった。生駒は、落としたボールペンを拾うのも忘れていた。
『そんな私に、もう一度社長を務める資格があるとは思えない。……それでも』
スピーカーの向こうで、声が途切れた。
フロアの誰もが、続きを待っていた。
『……私は、この会社が好きなんだと思う』
園田の眼鏡の奥で、何かが揺れた。
『たった十数年だが、この会社で働く皆を見てきた。会社のために働いている人がいる。この会社を守ろうとしてくれた人がいる』
「……社長」
生駒の声が、震えていた。
『その人たちのいるこの会社を、私はやはり、自分の手で経営したい』
成瀬はデスクの上で指を組んだまま、目を閉じていた。
いつか、会議室で頭を下げた青年を思い出していた。あんまり無理するなよ、と言った自分の声も。
「……朔夜君」
どのフロアの社員も、手を止め、口を閉ざし、その放送に耳を傾けていた。
『許されるなら、もう一度、社長をやらせてほしい。反対なら、そう言ってほしい。遠慮はいらない。社長室の扉は、今日一日、開けておく――』
――一呼吸置いてから、朔夜は告げた。
「……返事を、待っている」
社長室の中で、受話器が静かに置かれた。
朔夜は背を伸ばし、長く息を吐いた。額に、薄く汗が滲んでいる。
それからその部屋の扉を、自分の手で開け放った。
「兄さん。……私も、ここにいていいか、聞かなきゃ」
朔夜の眉が寄った。
「お前は、撤回されたと――」
「北辰建設を業者の一覧に入れたのは、私だから」
蛍は兄の言葉を遮った。
「撤回したのは会長でしょう。皆が決めたことじゃない。……私も、皆の返事を聞きたい」
朔夜はしばらく蛍を見ていた。何か言いかけて、やめる。
それから、黙って道を空けた。
「……廊下で、待ってる」
蛍は兄の横をすり抜け、社長室を出た。
◇
最上階の廊下は静かだった。
エレベーターホールの手前で足を止め、壁に背を預ける。開け放たれた扉の向こうに、ソファの端に腰を下ろした兄の横顔が見えた。
視線をずらすと、秘書室の扉があった。自分の机があった部屋。兄が2か月近く閉じ込められていた部屋。
――4年近く前の春、エントランスに立った最初の朝を思い出す。おはようございます、と言っても、誰にも届かなかった声。目を逸らして、足早に通り過ぎていく社員たちの背中。
11月の朝、黒服に挟まれて正面玄関を出た時も、見えたのは同じ背中ばかりだった。
あれから一度も、誰とも顔を合わせていない。
蛍は、握った指に力を込めた。
その時、エレベーターの到着音が鳴った。
扉が、ゆっくりと開く。
最初に降りてきたのは、松岡だった。脇に、書類の束を抱えている。
その後ろに、竹内と梅野が続く。さらに成瀬と、その陰から園田と生駒が顔を覗かせた。
壁際の蛍を見つけると、松岡は露骨に眉をひそめた。
「……何やってんだ、お前」
「皆さんを、待ってました」
蛍は壁から背を離した。
「私、何も言えないまま、いなくなって……。だから、私がここにいていいのかも――」
「突っ立ってるくらい、『秘書』は暇なんだな?」
蛍の言葉を遮って、松岡はそのまま横を通り過ぎた。数歩行ったところで、振り返りもせずに顎で社長室を示す。
「何ぼさっとしてんだ。お前も来い」
竹内と梅野が、蛍の背中を軽く押した。
蛍は社員たちの後について、社長室へ戻った。
開け放たれた扉を、松岡はノックもせずにくぐった。
ソファの端から朔夜が立ち上がる。入ってきた社員たちの顔を、一人ずつ見た。
松岡はその前を素通りし、奥の社長デスクまで歩いていく。抱えていた書類の束が、デスクに叩きつけられた。乾いた音が響く。
表紙に、見覚えのある文字があった。
――『リュシオライト 第二期展開案』
「2か月も止まってたんだ。さっさと承認してもらうからな」
松岡はデスクの向こうの革張りの椅子を、顎でしゃくった。
「……謝るくらいなら、俺がその座り心地のいい席に座ってもいいんだぜ?」
蛍が眉を寄せた。
「松岡さんの秘書かあ……」
「冗談だよ!! ていうか、露骨に嫌な顔すんな!!」
竹内と梅野が揃って吹き出した。園田が肩を震わせ、成瀬が口元を押さえている。
朔夜の口元も、わずかに緩んでいた。この部屋に笑い声が響くのを、何か月ぶりかに聞くような目で、社員たちの顔を一人ずつ映していた。
松岡がふいと顔を背けた。
「……あんた以外に、誰がやんだよ」
デスクの上の企画書を、指先で叩く。
「こっちは通したい企画が、山ほどあるんだ」
後ろで成瀬が、黙って頷いた。ほかの皆も、それに続いた。
朔夜は一歩前に出て、その場の全員に頭を下げた。
「……ありがとう」
顔を上げた時、その目の縁が赤かった。
いつの間にか扉にもたれていた松岡が、そっぽを向いたまま口を開いた。
「……おかえり」
目は、蛍の方を見ていなかった。
「……ただいま、です」
その返事を皮切りに、園田が蛍へ抱きついた。
「妹!! 急に退職って聞いて、びっくりしたんだよ!?」
反対側の腕には、生駒がしがみついている。
「……心配かけて、ごめんね」
「ほんとだよ!!」
「も~、心配したんだから!!」
頬を膨らませる生駒の隣で、成瀬が目を細めていた。その後ろから竹内と梅野が覗き込む。蛍の周りに、自然と輪ができていく。
朔夜は一歩下がって、それを見ていた。
隣に、いつの間にか松岡が立っていた。横目で、朔夜を見る。
「……ちゃんと土産、持って帰ってきたんだな」
「ああ。……約束どおり、最高の土産だろう」
蛍を囲む輪の中から、成瀬が手招きした。朔夜が近づくと、肩へ腕を回され、そのまま中央へ引き入れられていく。
輪の中心で笑う兄妹を、松岡は少し離れたところから眺めていた。
「……あんたにとっては、最高だろうがな」
誰に聞かせるでもなく、松岡は一人呟いた。
――その後も、社長室を訪れる者は続いた。
経理の若手が、人事の課長が、名前も知らない子会社の担当者が。一人で来る者もいれば、連れ立って来る者もいた。言葉は違っても、皆、その席に朔夜が戻るのを待っていた。秘書の蛍にも、そこにいてほしいと言ってくれた。
ただ、誰もが来たわけではなかった。
役員の誰も、扉の前には現れなかった。部長の席からも、何人かは最後まで腰を上げなかった。




