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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
5章 凍てつく冬、導くは聖夜の星
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星垂る夜(ほたるよる)

 黒崎周年パーティ当日。

 夕刻の17時。黒崎宗玄は会場ホテルに出立した。

 付き添いには宗玄直属の黒服たち、それから側近である藤堂の姿もあった。

 ——黒崎ビルは、蛍たちの予想通り、警備の手が弱くなっていた。


 ◇


 宗玄たちが会場に着いたのは17時半だった。

 まだ来賓の訪れていない会場の大きな窓際に宗玄は立ち、外を眺めていた。

 夕暮れは過ぎ、空はしんと静かな夜の闇に包まれようとしている。

「……藤堂」

「はい」

 左側に控えていた藤堂が短く返事をした。

「……お前は、夜は好きか?」

 唐突な問いに、藤堂は宗玄を見る。

「……どちらかと言えば好きです。静かですから。それに、星も見えましょう」

 藤堂はテーブルの上に置いてあるワインをグラスに注ぎ、主に差し出した。

 宗玄はそれを受け取る。

「星以外にも見えるものはあるだろう」

「……と言いますと?」

「欲、だ」

 藤堂は黙って、主の横顔を見つめた。

「昼は、人は人の目を気にする。自分を取り繕い、余計なことは口にしない。……だが、夜は違う」

 グラスに口を付ける。

「夜は、すべてを曝け出す」

「……本音が出ると?」

「そうだ。夜になると、人が何を欲しているのか、手に取るようにわかる」

 窓の外で、街の灯りがひとつ、またひとつと増えていく。

「……それが分かれば、その人物を掌握できる」

「さようでございますか」

 藤堂が静かに頷く。

「……宗玄様。ひとつお聞かせ願えますか?」

「なんだ」

「あなたの欲……望みは何ですか」

「……」

 宗玄は束の間動きを止めた。窓硝子に映る自分の顔を、見るともなく見ている。

 主の答えを聞く前に、藤堂は自分から口を開いていた。

「では……私めの欲を曝け出してもよいでしょうか」

「ああ……」

「私は、長年あなた様に仕えてきました。それでも、まだ距離があるように感じるのです」

 そして、静かに目を伏せた。

「あなたを、知りたいのです」


 ◇


 会場は18時から入場となっていた。大手企業や関連会社、広報や政界など、様々な来賓が次々と訪れる。

 宗玄は会場の中心で、淡々と挨拶を交わしていた。

 程なくして時刻は十八時半となり、プログラムが始まった。

 宗玄の形式的な挨拶から始まり、黒崎のこれまでの歴史が司会者から語られる。

「——さて、本日のプログラムですが」

 司会者が、マイクを握り直した。

「……ここで、プログラムにない項目をひとつ、追加させていただきます」

 会場に、ざわめきが走る。

「皆様に楽しんでいただきたく、急遽サプライズをご用意いたしました。どうぞ、壇上にご注目ください」

 来賓たちが、何事かと顔を上げる。

「黒崎グループの、今後の抱負をお話しいただきます。黒崎様——」

 スポットライトが壇上を照らし、一人の人物が歩み出た。

「——黒崎蛍様です」

 中央に立つその姿を、宗玄は見据える。

「……ふむ」

 宗玄は小さく息を吐くと、グラスの中のワインを飲み干した。



 ◇


「……ほんまに、通ってもうたなあ」

 舞台袖の暗がりに、神代が戻ってきた。司会者に段取りを伝えてきたところだった。

「すんなりいったわ。主催側に電話一本入れたら、それで終いや」

「そうだったんですか?」

「せや。……陽人君の言うた通りやね。ビルより、人目のある会場の方が、あの人は手ぇ出されへん、て」

 陽人は答えず、左の袖口を指で引き下げた。

 作戦を変えようと言い出したのは、3日前の自分だった。蛍に理由を問われて、表に出た方が安全だから、とだけ答えた。

『……それに、驚かせられるでしょ?』

『レセプションでサプライズ登場した本人が言うと、説得力が違うね』

 そう言って笑った蛍が、今、光の中に立っている。


 ◇


 壇上の中心で、パーティドレスを身に纏った蛍は、黒崎の抱負を語っていた。

 その視線は会場全体へ向けられつつも、時折、ただ一人の男を鋭く射抜いていた。

 ——黒崎宗玄。

 その男もまた、蛍から目を逸らすことなく、刺さるような冷たい視線を向けている。

 今まで正面から目の合わなかった男と、ようやく目を合わせることができた。

 同じ『黒崎』を名乗っていながら、自分にとって父親ではない。

 だが、兄さん——朔夜と宗玄は実の親子。自分たちを陥れた、血の通わない男。

 蛍は一度だけ目を伏せ、会場を見渡した。

 来賓たちの顔の向こうに、黒崎の仲間の顔がよぎる。

 ……困っていた時に手を差し伸べてくれた成瀬。兄に一途で、気さくに話しかけてくれる園田と生駒。復興プロジェクトの足掛かりとして引っ張ってくれた松岡、それに竹内と梅野。辛いときに寄り添ってくれた、掃除のおタキさん。笑いながら、時には真剣についてきてくれる馬場や鹿島、他の黒服たち——。

 同じ方向を向いて、走ってきた人たちだった。

「私が黒崎に来たのは、まだ学生の頃でした。数字の読み方も、会議での振る舞い方も、何ひとつ知りませんでした」

 静まり返った会場に、蛍の声だけが通っていく。

「それでも今日まで働いてこられたのは、黒崎に、支えてくれる人たちがいたからです。朝霧町の復興も、私一人の力ではありませんでした」

 一呼吸おいて、蛍は続けた。

「黒崎の利益は、数字だけではないと、私は思っています。人の暮らしを支えること。町に灯りを残すこと。数字に載らない価値も、黒崎の力として育てていきたい。それが、私のこれからの目標です」

 蛍の視線が、まっすぐ宗玄に向いた。

 宗玄の表情は、動かなかった。

「——私は、これからも黒崎で働きたいと思っております。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 深く頭を下げる。

 拍手が起こった。最初はまばらに、やがて会場を満たすほどに。

 頭を下げたまま、蛍はその音を聞いていた。足が震えていることに、ようやく気づいた。


 ◇


 壇上からはけ、ステージの袖口に戻った蛍。

 薄暗い裏口から表会場へ。足早に向かおうとしていた、その時だった。

「——よくやった」

 背後から、低い声が聞こえた。

 足が、止まる。心臓が跳ねる。

 それは、蛍が今一番聞きたかった声だった。

 ゆっくりと、振り返る。目を見開く。

「……蛍」

 壁際のカーテンの奥。仕立てのいいスーツ。少し痩せたものの、切れ長だが穏やかな目。その目がわずかに潤んでいる。

 ——黒崎朔夜が立っていた。

「……よくやったな、蛍」

「あ……ああ……っ」

 膝から崩れそうになった蛍を支えるように、朔夜が抱き留めた。

「蛍……生きてるんだな……」

「兄さん……! うん……、うん……っ!!」

 少しの間、二人は互いの存在を確認するように、抱きしめていた。


 ◇


 時は少し遡る。

 17時45分。黒崎ビル、最上階。

 秘書室の扉が開き、掃除婦のおタキがバケツを提げて入ってきた。見張りの黒服は見慣れた顔をちらりと確かめただけで、扉を閉める。

 おタキがモップを床に下ろした時、扉の外で短く鈍い音がした。

 扉が再び開く。

 立っていたのは、黒服の男だった。

「朔夜様」

「お前は……鷹取?」

「警備は寝かせました。さあ、参りましょう。……おタキさんも」

「あたしもかい?」

 三人が廊下に出ると、扉の脇で見張りの男が床に崩れていた。

「専用エレベーターを使います」

「あれはカードがなければ——」

 鷹取は胸ポケットから一枚のカードを抜き出した。記された名は、藤堂だった。

「……藤堂が?」

「無断で拝借いたしました。——ということに、しておいてください」

 朔夜は鷹取の顔を見た。表情は、少しも動かなかった。

「今宵は会長の祝宴に人手が割かれております。好機は、今しかございません」

 三人は役員専用エレベーターに乗り込んだ。表示の数字が、一気に下っていく。

「朔夜様。一階へ着いたら、まっすぐ走り抜けてください」

 一階へ着く。時刻は十八時。退勤する社員と、宗玄の黒服たちが入り交じるフロント。

 扉が開くなり、鷹取が駆け出した。朔夜とおタキも、その背を追う。

 退勤する人の波を縫って、正面玄関へ向かう。あと十数歩というところで、柱の脇に立っていた黒服が、こちらに顔を向けた。

「——黒崎朔夜だ!!」

 声が、ロビーに響き渡った。

「止まれ!!」

「逃がすな!!」

 四方から黒服が集まってくる。退勤途中の社員たちが、何事かと足を止めた。

 鷹取が前に出て、一人の腕を捻り上げる。だが、次々と押し寄せる黒服を一人では捌ききれない。

「あんたたち、寄ってたかって何してんだい!!」

 おタキが手にしていたスプレーを黒服の顔に吹きかけた。

「このババア!!」

 男がおタキへ手を伸ばしかけた、その時だった。

 太い腕が、背後から黒服の首に回った。

「うちのおタキさんに、何しようとしてんのよ!!」

 白い調理服のまま、リコが男を羽交い締めにしていた。黒服がいくらもがいても、その腕はびくともしない。

「リコ……!?」

「毎日毎日、人の作ったご飯残して!! 戻ってきたら、たっぷり説教だからね!!」

 掃除婦と食堂の調理員が、黒服とやり合っている。その光景に固まっていた社員たちの中から、一人が飛び出した。

「お前らも!! 押さえるの手伝えよ!!」

 経営企画部の松岡が、一人の黒服に体ごとぶつかり、組み付いた。

 松岡の叫びに、竹内と梅野が続く。それを皮切りに、周りの社員たちも何人かが黒服に取りすがっていった。

 朔夜の前に、まっすぐ道ができる。

「パーティに行くんだろ? 土産話、楽しみにしてるぜ——『社長』?」

 黒服に組み付いたまま、松岡がにやりと笑った。

 朔夜が力強く頷く。

「……ああ。最高の土産話を持って帰ってくる」

 告げて、床を蹴る。

 自動ドアが開く。2か月ぶりの外気が、冷たく肌を刺す。

 走る先。短く、クラクションが鳴る。

 灰色の車。

 開いた助手席のドア。下ろされた後部座席の窓。

 律と綾。二人の顔が見えた。

「「——朔夜!!」」

 朔夜は迷わず、助手席へと飛び乗った。


 ビルが見えなくなった頃、律がバックミラー越しに後部座席を見た。

「綾。あれ、渡せ」

「はいはい」

 後ろから、衣装袋が差し出された。中には深い紺のスーツと、糊の効いたシャツ。生地に触れただけで、値の張るものだと分かる。

「お前が選んだのか。……高そうだな」

「もちろん、請求するわよ?」

 綾は身を乗り出し、助手席を覗き込んだ。

「社長に戻った、あなたにね」

 ハンドルを握ったまま、律が鼻で笑った。


 ◇


 腕の中で、蛍の肩はまだ震えていた。

 朔夜は何も言わず、その背に腕を回したままでいた。濃紺の胸元に、蛍の額が押しつけられている。布越しに、熱いものが滲んでくるのが分かった。

 舞台の向こうから、司会の声と拍手が遠く聞こえる。

 震えが少しずつ収まっていく。それを待ってから、朔夜はゆっくりと身体を離した。

 短くなった髪を撫でる。

 理由は、聞かなくても分かった。自分に会うために、切ったのだと。

「……言いたいことは色々あるだろうが」

「それは、家に帰ってからにしましょう」

 化粧が少し崩れた顔で、蛍が笑う。

「来賓への挨拶は、お前に任せる。今夜は、お前が主役だ」

「はい」

 ――舞台袖の奥。積み上げられた機材の陰に、律は背を預けていた。

 そこから、兄妹が抱きしめ合い、兄が妹の頭を撫でる姿が見える。

 今、生きていることを確かめ合っている。その光景から、なぜか目が離せなかった。

 やがて、律は目を伏せた。

「……そうか。俺は——」

 誰にも聞こえない声で、呟く。

 互いのために、必死になった二人が。そこにいるだけでいいと、赦し合っている二人が。

「……こいつらが、少しだけ羨ましかったんだ」


 ◇


 来賓の挨拶へ、表へ出て行った蛍の背を見送った朔夜。

 その背とすれ違うように、一人の老紳士がこちらへ向かってきた。

「……坊ちゃま」

 藤堂だった。パーティに相応しい装いに身を包み、背筋の伸び方も以前と変わらない。

「ビルの騒ぎは収まりました。鷹取が押さえたのでしょう。黒服は引き上げ、社員の皆様もお怪我なく、無事にお帰りになったそうです」

「……そうか」

 朔夜の肩から、力が抜けた。

「私のセキュリティカードなど、一式は鷹取に預けております。……私はしばらく、宗玄様のお側におります」

「父さんの?」

「はい。蛍様の件で、宗玄様を裏切ったことになっておりますから」

 朔夜は、目の前の老人を見た。

 蛍が生きて、ここにいる。それを叶えたのが誰だったのか、ようやく分かった。

「……藤堂」

 続く言葉を探しているうちに、藤堂は深く腰を折っていた。

「いずれ、改めて」

 顔を上げないまま踵を返し、老人は会場の喧騒の中へ戻っていった。


 ◇


 周年パーティは終盤に差し掛かっていた。

 火照った頬を冷ましたくて、蛍は奥のテラスへ出た。

 テラスには、誰もいなかった。

 会場の喧騒が硝子越しに遠ざかり、夜風がむき出しの肩を撫でる。月のない空に、星がいくつか滲んでいた。

 蛍は手すりにもたれ、深く息を吐いた。今になって、指先が冷えていることに気づく。

 背後で、扉の開く音がした。

「兄さん? それとも、陽人く——」

 振り返った蛍の声が、途中で途切れた。

 黒崎宗玄が、そこに立っていた。

「……期待した顔ではなかったようだな」

 扉が閉まり、喧騒が完全に遮られる。宗玄は蛍の隣には並ばず、数歩離れた位置で足を止めた。

「ビルの方が騒がしかったと、報告は受けている」

 蛍の背筋が強張った。

 宗玄はそれ以上何も言わず、星の少ない空を見上げている。朔夜を連れ戻させる気配は、どこにもなかった。

「お前は、あの女に似ている」

 ――売女の娘が。

 耳の奥で、古い声がした。黒い服の大人たち。線香の匂い。幼い自分を見下ろしていた、誰か。

「……血は、選べない」

 宗玄は蛍に背を向けた。

「……母を、侮辱しないでください」

 蛍は手すりを握りしめた。冷たい鉄が、掌に食い込む。

 夜風が二人の間を通り過ぎ、植え込みの葉がかすかに揺れた。

 宗玄が振り返った。

「……お前が死んだと聞かされてから、朔夜は食わず、眠らず、窓の外ばかり見ていたそうだ」

 蛍の息が止まった。

「馬鹿な男だ。たかが一人の女を失ったくらいで、死人のようになるとは」

 鉄を握る指に、力がこもる。

「……兄を馬鹿にするのも、やめてください」

 宗玄は、蛍の声など届かなかったかのように続けた。

「情など、余計なものだ。……脆いくせに、厄介でもある」

 それ以上、蛍は言葉を継げなかった。兄がどんな日々をを過ごしたのか、今、初めて知った。それを語っているのが、そうさせた張本人だということも。

「……不確定要素というのは、いつの世にも、あるものだ」

 低い声が、夜気に落ちた。

「御影の倅。まだ何も知らぬ若造だ。……だが、尾を引いて空を横切るものを、一度見上げたが最後、人は目を逸らせなくなる」

 宗玄の目が、蛍を捉えた。

「お前も、そうだろう」

「……」

 蛍は答えなかった。沈黙が、答えになっていると分かっていた。

「……それに、お前だ」

 その目が、蛍の顔をなぞる。値踏みするように。あるいは、別の誰かの面影を探すように。

「取るに足らぬ小さな光だと思っていた。……存外、消えぬものだ」

 宗玄は、皺の刻まれた手を握りしめた。

「だが、それも掌握してみせよう」

 蛍は手すりから手を離し、まっすぐに立った。

「……黒崎で、お待ちしております」

「……ああ」

 宗玄は扉へ向かった。すれ違いざま、蛍の顔を見ることはなかった。

 扉が開き、閉まる。わずかな間だけ流れ込んだ喧騒が、また遠ざかった。

 詰めていた息を、蛍はようやく吐き出した。膝から力が抜けそうになるのを、背後の鉄柵にすがって堪える。

 掌に、鉄の跡が赤く残っていた。

 再び、扉が開いた。

「……蛍」

 今度こそ、聞き慣れた声だった。


 ◇


 夜9時を過ぎ、パーティも終わった。

 陽人は蛍を車に乗せ、黒崎のマンションへ向かった。

「陽人くん、色々してくれてありがとう」

「どういたしまして。……二人が再会できて、よかった」

 ハンドルを握ったまま、陽人が答えた。

 その後方にもう一台。律と綾、そして朔夜を乗せた車が付いていく。

 朔夜は、ハンドルを握る律の横顔を見た。律も朔夜を一瞥し、ふっと口元を緩めた。

「……少しはマシな目になったじゃねえか」

「……お前もな」

 それを聞きながら、後部座席の陰で、綾は静かに微笑んでいた。


 ◇


 マンションの前で二台の車が停まり、蛍と朔夜が降りた。

 紺の生地に、白っぽい跡と、黒く滲んだ筋がついている。肩口まで、ぼんやりと広がっていた。

 血の気が引いた。

「兄さん、スーツ……! これ、綾さんが選んだって……」

 朔夜は自分の胸元を見下ろした。

「……ああ」

「ごめんなさい、私——」

「いい」

 汚れた襟を、朔夜の指が軽く払った。

「お前が生きて、ここにいる。それに比べたら、安いもんだ」

 マンションに着くと、二台の車は蛍と朔夜を降ろした。

「律。あなた朔夜に言わなきゃいけないことがあるんじゃないの?」

 綾が運転席の律に声をかける。

「……ねえよ」

「いえ、言うべきだわ」

「綾」

 朔夜が綾を止めた。

「……聞かなくてもわかっている。無理強いさせるな」

「なんでそんなに律に甘いのよ!」

 綾は昔のように不満そうに頬を膨らませた。

 律は逃げるように、運転席の窓を閉めた。

 綾はやれやれとため息をついてから、朔夜に目を向けた。

「じゃあね、朔夜。蛍ちゃん。……クリーニング代も上乗せするわね」

 後部座席の窓が閉まり、車が走り出す。

 それを見送ってから、陽人も「そろそろ帰ります」と、運転席の窓から手を振った。

 エンジンがかかる。

「陽人」

 朔夜の声に、顔を上げる。

「はい」

「……ありがとう」

 窓から顔を覗かせた陽人が、微笑んだ。

「……僕の方こそ。二人とも、ありがとう」

 窓が閉まり、車は夜の闇へ溶けていった。

 月のない夜。澄んだ冬の空気の中で、蛍と朔夜は顔を見合わせる。

「……おかえり、蛍」

「ただいま。……それに兄さんも、おかえり」

 朔夜は静かに頷いた。

「……ああ。ただいま」

 2か月ぶりの我が家へ、二人は並んで入っていった。

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