第42話「消えた訴状」
王都に降り続く秋の雨は、止む気配をいっこうに見せなかった。
王立苦情処理局の執務室は、まるで時間が凍りついてしまったかのような静寂に支配されている。
窓辺に力なく立ち尽くしていたエリシアは、やがて何かから逃れるように重い足取りで自分の机へと戻ってきた。
机の片隅にはあの匿名陳情の薄い羊皮紙と、縫い目が無惨に裂けた純白の絹の手袋がぽつりと置かれている。
『苦情を消しているのは、苦情を受け取る側そのものである』
その無機質な一文が、逃げ場を失った彼女の心を執拗に責め立て続けていた。
「止まっても火は消えない」というユリウスの宣告が、耳の奥にこびりついてどうしても離れない。
自分がここで恐怖に負けて目を背ければ、ディートハルトのように理不尽に踏み潰される弱者がさらに増えていく。
しかし守る手順を持たないまま突き進めば、また誰かの人生を致命的に壊してしまうかもしれない。
進むことも退くことも許されない絶望の中で、彼女に残された道はただ一つしかなかった。
それは自分を破滅の淵へと追いやった記録という海へ、再び息を止めて深く潜ることである。
彼女は震える指先で裂けた手袋を静かに引き出しの中へ隠し、新しい羽ペンを白く細い手で強く握りしめた。
生身の人間と向き合うことは恐ろしくても、紙の上の数字と文字にならまだ向き合える。
感情を排した無機質な論理の世界に没頭している間だけは、自分が完全に壊れてしまうのを防げると思いたかったのだ。
エリシアはまず、過去数年間にわたって処理されてきた膨大な案件記録をすべて保管庫から運び出させた。
彼女の机の上だけでは到底足りず、執務室の床にまで古い書類の束がいくつもの塔のようにうず高く積み上げられる。
彼女が必死に探そうとしているのは、アルヴェイン伯に繋がる新たな不正の決定的な証拠などではない。
あの匿名陳情が不気味に示唆していた、消された苦情の痕跡そのものを探し出そうとしているのだ。
数時間が経過し、部屋の隅に置かれた蝋燭の炎が短く揺れ始めた頃だった。
無心で古い書類をめくり続けていたエリシアの指先が、ある特定の記録の束の前でふと不自然に止まった。
そこに広がっていたのは明白な黒い矛盾の跡などではなく、あまりにも不可解な白い空白であった。
過去数年分もの膨大な記録を洗い直してみると、ある特定の性質を持つ苦情だけが極端に少ないのである。
たとえば王都の物流を独占している巨大商会に関する、理不尽な取引の遅延や不当な価格の吊り上げを訴えるような陳情。
あるいは一部の有力な教会支部が深く関わっている、不透明な寄付金の強要や農村での土地の徴発に関する抗議。
それらの影響力が大きくてトラブルが頻発して然るべき事案についてのみ、訴えの数が不自然なほどに極端に薄いのだ。
まるで誰かが意図的に特定のジャンルの声を拾いこぼしているかのように。
「誰かが後から個別の案件を一つずつ消したのではない……」
エリシアの青ざめた唇から、掠れた声がポツリと漏れ落ちた。
もし局の内部で誰かが個別に不要な書類を破棄していれば、受付の台帳や地方の発送記録との間に必ず数字の矛盾が生じるはずである。
しかし彼女が今確認している限り、すべての台帳の数字は完璧なまでに整合性が取れているのだ。
それはつまり苦情が王都へ届いてから消されたのではなく、入り口の段階で巧妙に音もなく弾かれていることを意味している。
無力な民が声を上げようとした瞬間に、ある種の苦情だけがシステムそのものによって無力化され闇へと吸い込まれているのだ。
その完璧で体系的な隠蔽の構造に気づいた瞬間、エリシアの背筋を悪寒が駆け抜けた。
これほどまでに巨大で精緻な網の目を、王国全土にわたって見つからずに張り巡らせることなど果たして可能なのだろうか。
彼女の混乱した頭の中に、優雅に微笑みを浮かべるあのアルヴェイン伯の姿がぼんやりと浮かび上がる。
確かに彼は王宮内で絶大な権力を握る有力者であり、地方の騎士団すら己の意のままに動かす恐ろしい黒幕であった。
しかしこれほどの規模で王国の情報伝達システムそのものを歪め、民の切実な声を入り口で完全に遮断するなど異常である。
一人の伯爵の財力や権力だけでどうにかなる仕掛けではないことは、彼女の明晰な頭脳がはっきりと理解していた。
これはもっと深い闇の底にある、王国の中枢そのものを腐らせている得体の知れない怪物の影なのだ。
「まさか、そんなはずはない……」
エリシアは首を横に振り、自分の導き出した仮説を必死に否定した。
もしこの国を根底から狂わせている怪物がアルヴェイン伯以上の存在だとしたら、一体誰がそんなことをしているのか。
その正体を想像すること自体が、今の致命的に傷ついた彼女にとっては耐え難い恐怖だったのだ。
だから彼女は両手で顔を深く覆い、必死に自分の思考を安全な方向へと無理やり引き戻そうとする。
「すべてはアルヴェイン伯の仕業だ。彼の影響力が王宮の隅々にまで及んでいるからに違いない」
エリシアは自分に言い聞かせるように、その都合の良い解釈へとすがりついた。
そうでも思わなければ、自分の立っている確かな地面そのものが音を立てて崩れ去ってしまいそうだったからだ。
ディートハルトという無実の青年を犠牲にしてまで暴き出した悪が、ただの小さなトカゲの尻尾でしかなかったなどと絶対に認めたくはない。
だがどれほど自分を必死に誤魔化そうとしても、目の前に広がる白い空白の記録は決して消えてはくれない。
エリシアは浅く不規則な呼吸を繰り返しながら、再び机の上の古い書類へと執拗に視線を落とした。
もはやこの不気味な空白が何を意味しているのか、その真相の扉を開け放つのが恐ろしくてたまらない。
それでも彼女は狂気じみた異様な集中力で、記録の不自然な抜けをひたすら別の真新しい羊皮紙へと書き出し並べ始めた。
誰がどうやってこの完璧な隠蔽システムを作り上げたのか、その決定的な証拠を数字の束から引きずり出すために。
インクにまみれた指先が小刻みに震え続けていても、彼女は羽ペンを激しく動かす手を決して止めようとはしなかった。
ここで立ち止まって生身の恐怖と真っ直ぐに向き合えば、ディートハルトの絶望の声が再び耳の奥でこだましてしまうからだ。
「私はただ事実を並べるだけでいい。それ以外のことは今は何も考えなくていいのだから」
虚ろな呟きを落としながら、彼女はただひたすらに論理の壁を自分の中に高く築き上げていく。
窓の外では容赦のない雨が、王都の闇をさらに深く沈め続けている。
エリシアは裂けた手袋を失った無防備な素手のまま、底知れぬ絶望の淵へと静かに足を踏み入れていたのである。




