第41話「匿名陳情」
王都全体を重く覆う空は今日も沈んだ鉛色に染まっていた。
王立苦情処理局の薄暗い執務室は、まるで時間が止まってしまったかのように冷たい静寂に包まれている。
エリシアの机の上には各地方から寄せられた未処理の陳情書が、依然として崩れそうなほど高く積み上げられていた。
かつての彼女であればその紙の山を前にして、迷いなく羽ペンを走らせて次々と不正の矛盾を鮮やかに暴き出していたはずである。
しかし今の彼女は椅子に深く腰掛けたまま、一番上にある書類に落とした視線をただあてもなく彷徨わせているだけだった。
書類をめくろうとして指先に少しでも力を込めると、あのディートハルトの青白く痩せこけた絶望の顔が鮮明に脳裏に蘇る。
正しいことをした結果として無実の彼を破滅させてしまった痛みが、鋭い棘となって彼女の心を激しく抉り続けているのである。
ふと彼女の視線は、机の片隅に置かれたままになっている純白の絹の手袋へと力なく引き寄せられた。
指先の縫い目が無惨に裂けて自分の血が酸化し茶色く変色したその手袋は、彼女の完璧な論理の鎧が修復不可能なほど壊れたことの証であった。
自分はまた誰かの人生を致命的に踏み潰してしまうのではないか。
その恐ろしい予感が呪いのように彼女の手を竦ませて、実務官としての次の一手を打つことを完全に拒絶させていた。
そんな重苦しい思考の泥沼から逃れるように、エリシアは積まれた書類の中から一通の奇妙な封筒を無意識に引き抜いた。
差出人の名前も住所も記されていないその粗末な封筒は、他の正式な陳情書とは明らかに異なる異様な空気を放っている。
彼女は微かに震える指先で封を切ると、中から折り畳まれた薄い羊皮紙を一枚だけそっと取り出した。
そこには震えるような下手な文字ではなく、定規で測ったかのように冷たく整った筆跡で短い文章が記されていた。
『苦情を消しているのは、苦情を受け取る側そのものである』
そのたった一行の無機質な言葉を目にした瞬間、エリシアの心臓が警鐘のようにドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
それは地方役人の小さな不正ではない。民の声を拾い上げるはずの仕組みそのものが、根底から深く腐っているという恐ろしい示唆だった。
紙の余白にはいくつか具体的な地名や商会の名前が羅列されており、その中にはアルヴェイン伯の配下らしき名も散見される。
しかしそれらの断片的な情報を繋ぎ合わせても、アルヴェイン伯という一人の権力者の力だけでできる規模の隠蔽ではない。
もっと組織的で体系的な巨大な何かが、長年にわたって民の切実な声を入り口の段階で巧妙に弾き落としてきた可能性があるのだ。
かつての彼女であればこの巨大な謎を前にして、知的な興奮と正義感で胸を熱くしていたに違いない。
点と点をつなぎ合わせて完璧な論理を構築し、見えない巨悪の尻尾を掴み出すことこそが彼女の唯一の存在価値だったからだ。
しかし今のエリシアには、この底知れぬ巨大な闇の蓋を自分の手で開け放つことへの圧倒的な恐怖しか湧いてこなかった。
もしこの告発が真実であるならば、それを暴いた時に現場は一体どうなるのだろうか。
自分は告発者を守るための具体的な手順を何一つ持っていないのに、ただ正しさを振りかざして真実を白日に晒していいのだろうか。
「これ以上、正しさの犠牲者を出してはいけない」
エリシアはひどく掠れた声で誰にともなく呟き、その手の中で匿名陳情書の薄い紙をくしゃりと力強く握りしめた。
真実から目を背けることは実務官としての敗北を意味するが、これ以上誰かの人生を壊すくらいなら止まった方がましだと思えた。
しかしそれは本当に「止まる」のではなく、「どう動けば守れるか」を考えるための一歩でなければならない——そう気づきながらも、今の彼女にはその答えが全くわからなかった。
執務室の重い木製の扉がノックの音もなく開かれ、ユリウスが静かな足音を立てて入ってきた。
彼の鋭い眼光は机の上に乱雑に広げられたままの書類と、エリシアの血の気のない青ざめた横顔を的確に捉えている。
彼は何も言わずにエリシアの机の前に歩み寄ると、自分の手にしていた新しい監査資料の束をことりと静かに置いた。
「アルヴェイン伯の余波で各地方から寄せられる陳情の数が以前の倍に増えている。お前がここで止まっている余裕はないはずだ」
エリシアは握りしめていた匿名陳情書をゆっくりと机の上に置き、虚ろな瞳で彼の大きな背中を見上げた。
「私はもう次の一手を打つことが恐ろしいのです。私が完璧な論理を組み立てて巨悪を追い詰めれば追い詰めるほど、必ずどこかで無実の人間が理不尽に踏み潰されていく。あの青年のように全てを奪われてしまう人が出るくらいなら、私はここで止まっていた方がいいのではないですか」
ユリウスは腕を組んで彼女の言葉を最後まで静かに聞いていたが、その表情には一切の同情の色も浮かばなかった。
「止まるなら勝手に止まればいい。お前が自分の正義の代償に怯えてここで目を閉じるのはお前の自由だ。ただし、お前が止まっても火は消えない。お前が暴き出したアルヴェイン伯の火種は、今この瞬間も確実に広がっている。お前がここで怯えて立ち止まっている間にも、あの時と同じように守られない弱い人間が次々と燃やされていくんだ」
止まっても火は消えない。
その短くも残酷な宣告は、エリシアの胸の奥に深く突き刺さって彼女の細い呼吸を完全に止めた。
何もしなければこれ以上新たな犠牲者を生むことはないという彼女の淡い逃避は、彼によって根本から無惨に打ち砕かれたのだ。
彼女が不正に立ち向かうことを放棄した瞬間に、その火はより一層の激しい勢いを増して無力な人々を呑み込んでいくのである。
しかし——止まらないとしたら、次はどうすれば守れるのか。
その問いに答えを持たないまま動くことへの恐怖が、依然として彼女の手を縛っていた。
ユリウスはそれ以上何も語ることはなく、重い足取りで背を向けて執務室を出て行ってしまった。
冷たい静寂だけが残された部屋の中で、エリシアは机の上の匿名陳情書と裂けた手袋を交互に見つめ続ける。
進めば誰かがしわ寄せを受け、立ち止まれば火種が罪なき人々を焼き尽くす。
どちらを選んでも傷つく人が出るという絶望的な現実が、彼女の細い両肩に重くのしかかっていた。
エリシアはゆっくりと立ち上がり、鉛色の空が広がる窓辺へと力なく歩み寄る。
彼女は自分の信じてきた論理の正しさが、人間を救うどころかただの凶器でしかなかったことをすでに痛いほど理解していた。
正しさだけでは決して人を守れないという残酷な現実を前にして、彼女の有能な問題解決者としての誇りはひどく色褪せて見えた。
しかし、では何が必要なのか——その問いの答えを彼女はまだ持っていない。
だが自分が一度火をつけてしまった以上、この焼け野原から安全な場所へ一人で逃げ出すことだけは絶対に許されないのだ。
その答えの出ない問いに激しく心を押し潰されそうになりながらも、彼女は暗い窓の外から決して目を逸らすことができなかった。




