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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第40話「火種は消えていない」



王都全体を重く包み込んでいた冷たい秋の雨は、ようやくその激しい勢いを静かに潜めていた。

厚く垂れ込めていた鉛色の雲の隙間から、頼りない薄日が王宮の白い尖塔を力なく照らし出している。


だがエリシアの心だけは、まだ雨の中から出ていなかった。

机の上の陳情書は、昨日の位置から一枚も動いていなかった。


地方の村から届いた水利権を巡る悲痛な訴えや、不当な税の徴収を告発する震える文字で書かれた手紙。

それらはすべて血の通った生身の人間たちが、最後の希望を託して遠い王都へ送り届けてきた切実な声の結晶である。


しかし今の彼女は机の前に座ることすらできず、その紙の束の横をすり抜けるようにして窓辺へと向かった。


窓枠の片隅には、裂けた白い手袋がそのまま置かれていた。

針を通しかけた跡だけが残り、最後まで縫い閉じられてはいない。


完璧だった自分の心が修復不可能なほどに無惨に壊れてしまったことを、その小さな裂け目が静かに証明しているからである。


先ほど法務局から、地方駐屯騎士団の不正に関与した者たちの正式な処分決定の通知が局へ届いていた。

アルヴェイン伯の配下へ繋がる事務ラインの責任者たちは、王国法に則って厳正に裁かれ地方へと左遷されたのである。


書類の上だけで見ればエリシアが組み上げた完璧な論理の罠は、見事に巨悪の一角を崩し去ったと言える。

これまでの彼女であれば自分の正しさが完全に証明されたことに、深い安堵と静かな高揚感を覚えていたはずだった。


しかし今の彼女の胸の内には、正義を成し遂げたという勝利の甘い余韻など微塵も存在していない。


今回の告発で実際に処分されたのは、末端の実行犯と中間の事務官たちだけであったからだ。

すべての不正の糸を巧妙に引いていたはずの巨大な黒幕であるアルヴェイン伯自身は、見事に無傷のまま王宮の奥深くに鎮座している。

彼らはトカゲの尻尾切りのように手下の何人かをあっさりと切り捨てただけで、その強大な権力の基盤は何一つ揺らいでいなかった。


表向きの案件そのものは無事に収束したように見えるが、エリシアにはそれが本当の終わりだとは到底思えなかったのである。


何よりエリシアの心を最も深く絶望させているのは、自分が無自覚に振りかざした正しさの残酷な代償であった。

どれほど完璧な証拠を揃えて巨悪を追い詰めたとしても、現場に残る鬱屈した怒りは必ず一番弱い場所へと向かう。

あの実直で善良だった青年ディートハルトは、彼女の独善的な正義のせいで未来の全てを理不尽に奪われてしまったのだ。


執務室の重い木製の扉が軋む音を立てて静かに開き、ユリウスがゆっくりと入ってきた。

彼の大きな手には王都の別の物流業者から押収された新たな監査資料の束が握られていたが、エリシアの背中を見ると歩みを止めた。


窓辺で命を失った石像のように立ち尽くす彼女の細い肩は、今にも崩れ落ちそうなくらいに弱々しく震えている。


ユリウスは彼女の抱えている深い絶望と自己嫌悪の正体を、痛いほど正確に見抜いていた。

しかし彼は安易な慰めの言葉をかけることもなく、ただ静かに机の端へ新しい書類の束をことりと置いた。


「法務局からの通知は見たな。アルヴェイン伯の配下の連中は見事に一掃された。お前の鮮やかな告発の勝利だ」


彼の声は平坦で感情を交えないものであったが、その裏には確かな冷徹な事実が静かに横たわっている。


エリシアは窓の外を見つめたまま、微かに自嘲するように薄い唇を歪めた。


「勝利だなんてとんでもないことです。切り捨てられたのは末端だけです。アルヴェイン伯も腐敗の土壌も何一つ消せず残ったままです。それなのに私は関係のない人間だけを犠牲にしました」


掠れた声でひどく痛ましそうに告白する彼女に、ユリウスは同情も否定もせずにただ静かに立ち尽くしていた。


「お前のやり方では現場の弱い人間を守れなかった。それは紛れもない事実だ。だが強大なアルヴェイン伯の足元に風穴を開けたこともまた事実だ」


ユリウスは腕を組んで壁に寄りかかり、厳しい視線を彼女の頼りない背中へと向けた。


「すべてが終わったような顔をしているが、案件の書類が片付いただけで現実は何も終わっていない。火種はまだ残っているんだ。お前がここで立ち止まろうが絶望して泣き喚こうが、あの伯爵が作り出した巨大な歪みは次々と新しい火の粉を撒き散らし続ける」


火種はまだ残っている。

その重く鋭い言葉は、エリシアが直面している逃げ場のない現実を容赦なく突きつけていた。


自分がここで目を逸らせば、ディートハルトの犠牲はただ踏み潰されただけで終わってしまう。

しかし今の彼女には、その巨大な火種に再び立ち向かうための武器も盾も何も残されていなかったのである。


「私はどうすればよかったのでしょうか。彼を救うためには一体何をすれば正解だったのですか」


エリシアが振り絞った声は、深い谷底から響いてくるように細く頼りないものだった。


ユリウスはしばらく沈黙したのち、静かに長く息を吐き出して彼女に背を向けた。


「それを探すのがお前のこれからの仕事だ。正しさだけでは足りないと知ったのなら次に必要なものを見つけ出せ」


彼はそれだけを短く言い残すと、重い足取りで執務室を出て行ってしまった。


冷たく残されたエリシアは一人きりの静寂の中で、彼の重い言葉の意味をゆっくりと噛み締める。


これまでの彼女はただ完璧な論理の定規で世界を測ることだけが、自分の存在価値のすべてだと思い込んでいた。

しかしその冷たい定規は、人間の複雑な感情や醜い悪意を測ることは決してできなかったのである。


彼女はゆっくりと振り返り、窓辺に置かれたままの裂けた白い手袋を再び見つめた。


秋の薄日を浴びて白く光るその絹の手袋は、かつて彼女が身に纏っていた冷徹な実務官としての誇りだった。

しかしその鎧はディートハルトの乾いた絶望によって完全に打ち砕かれ、もう二度と彼女を安全には守ってくれない。


これからは無防備な生身のまま、泥臭い現実の痛みや理不尽な感情と直接向き合っていかなければならないのだ。


迷いなく正義の剣を振り下ろしていた有能な問題解決者としての彼女は、ここで完全に息絶えたのである。


エリシアは机の上に積み上げられた未処理の陳情書の山へと、重い足取りでゆっくりと近づいていく。

一番上に置かれた無機質な紙の束にそっと指先を触れると、そこから誰かの痛ましい悲鳴が聞こえてくるような気がした。


自分はこの紙の向こう側にいる血の通った人間たちと、これからどうやって正しく向き合えばいいのだろうか。


「正しさだけでは足りない。では次に必要なものとは何か」


エリシアは誰に問いかけるともなく、その問いを静かに胸の中に刻んだ。

それがどれほど途方もなく困難な道であるかは、今の彼女にも痛いほどよくわかっていた。


窓の外では再び冷たい雨がひっそりと降り始め、王都の世界を重く沈んだ灰色の景色に染め上げていた。

今はまだ答えの出ない無数の問いに激しく押し潰されそうになりながらも、彼女は逃げずにそこに踏みとどまるしかなかったのである。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。

物語としても大きな節目に入りました。

エリシアの行く先を見届けたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると嬉しいです。

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