第39話「崩れた均衡」
王都の空を覆う重い鉛色の雲は、エリシアの心の中にある深く暗い鬱屈をそのまま映し出しているようだった。
王立苦情処理局の執務室にある自分の机の前に、彼女はまるで命を失った石像のように微動だにせず座り続けている。
机の上には各地方から寄せられた新しい陳情書や複雑な監査資料が、いつものように高く積み上げられていた。
これまでであれば彼女は席に着くやいなや羽ペンを手に取り、次々と書類の矛盾や嘘を鮮やかに暴き出していたはずである。
しかし今はその文字の羅列がただの無意味な黒い染みにしか見えず、明晰だったはずの頭の中に全く入ってこないのだ。
書類に目を落とそうとするたびに、あのうらぶれた宿場町で出会った青年の青白く痩せこけた顔が鮮明に蘇ってくる。
「あなたは間違っていません。だからこそ余計にきついんです。正しいことをして俺は全部失いました」
ディートハルトの乾ききった諦めの声が、逃れられない呪いの幻聴となって彼女の耳の奥で何度も残酷にこだましている。
彼女はたまらず両手で耳を塞ぎ、目をきつく閉じてその痛ましい記憶を振り払おうとした。
しかし感情を排して築き上げてきた鉄壁の自己像が完全に崩壊した今、その試みは全くの徒労に終わってしまう。
エリシアは小さく震える息を吐き出すと、机の引き出しからそっと一つの布切れを取り出した。
それはあの雨の降る泥濘の路地で彼女がよろけた際に、無惨にも縫い目が裂けてしまった純白の絹の手袋である。
宿舎に戻ってから泥汚れは丁寧に洗い落としたものの、指先の小さな裂け目はそのまま手つかずになっていた。
彼女は傍らにある裁縫箱を引き寄せて細い銀の針に白い糸を通し、手袋のほころびを自らの手で繕おうと試みる。
こんな単純な作業なら数分もあれば元通りの真っ白な状態に直せるはずだ——そのはずなのに。
しかし針を持った彼女の指先は小刻みに頼りなく震え続け、滑らかな絹地の狙った場所にどうしても針先を刺すことができない。
まるで自分の心の中のほころびそのものが、この修復を激しく拒絶しているかのようだった。
何度か布地をすくい込もうとして失敗したもどかしさに焦って力を込めた瞬間、鋭い針先が彼女の細い指を浅く突き刺した。
「あっ……」
エリシアの血の気のない唇から短い悲鳴が漏れ、指先から滲み出した小さな赤い血の玉が純白の絹地にぽつりと落ちる。
白い布地にゆっくりと広がっていくその赤い染みは、彼女がディートハルトの人生に負わせた決して消えない傷跡のようだった。
彼女は激しく震える手から針を取り落とし、血の滲んだ手袋をただ茫然と見つめることしかできなかった。
この白い手袋は、彼女が外界の不条理な感情から自分を守るための絶対に破れてはならない強固な鎧だったのだ。
感情を持たない冷徹な実務官として振る舞うことで、彼女は誰からも好かれない自分の正しさを一人で貫いてきた。
しかしその鎧が裂けてしまった今、彼女の心は生身のまま冷酷な現実の痛みに直接晒されているのである。
自分の信じてきた完璧な正しさが、生身の人間を理不尽な暴力で叩き潰すための凶器にすぎなかったという事実。
その重すぎる罪悪感が、彼女の心臓を冷たい手でぎゅっと締め付けるように激しく絶え間なく責め立てていた。
そこへ執務室の重い扉が静かに開き、ユリウスが数枚の新しい書類を手にゆっくりと入ってきた。
彼は部屋の空気の異様な淀みとエリシアのひどく青ざめた顔色を見て、その場に立ち止まり鋭い視線を向ける。
「少しは休めたのか。ディートハルトの件はお前のせいだけじゃないとはいえ引きずるのも無理はないがな」
ユリウスの声はいつもより少しだけ低く、彼なりの不器用な気遣いが微かに滲み出ているようだった。
しかしその気遣いすらも、今のエリシアにとっては自らを責め立てる針のむしろのように痛く感じられてしまう。
「休んではいました。ですが頭がどうしても上手く働かなくて」
エリシアは自分の声が信じられないほど震えていることに気づき、奥歯を強く噛み締めて必死に平静を装うとする。
ユリウスは彼女の隠した手元をちらりと一瞥したが、それ以上深くは追求しようとはしなかった。
「次の案件だがお前がやれないなら他の者に回すこともできる。無理をして書類を汚されても困るからな」
彼は手にした書類を机の端にことりと置き、それだけを短く冷淡に告げて背を向けた。
「少しだけ時間をください。必ずいつも通りに処理してみせますから」
エリシアは去りゆく彼の広い背中へ向かって、自分自身に言い聞かせるように絞り出すような声で言った。
ユリウスは無言のまま短く頷き、静かに執務室を出て行って重い扉を閉ざす。
再び一人きりになった静寂の中で、エリシアはユリウスの置いていった新しい書類を力なく見つめ続けた。
もしかすると自分はただ整理された正しさという名の暴力を振りかざして、無力な誰かを押し潰してきただけなのではないか。
どうすれば彼のような無残な犠牲者を出さずに、この国に正しい秩序を取り戻すことができるというのだろうか。
そもそも自分に他人を救う資格など、最初から存在しなかったのではないか。
答えの出ない無数の問いが、まるで底なし沼のように彼女の疲弊した心を深く暗い場所へと引きずり込んでいく。
エリシアは机の上に両肘を突き、指の血が滲んだ純白の手袋にゆっくりと額を押し当てた。
窓の外で降り始めた冷たい秋の雨の音が、彼女の孤独な執務室をいつまでも重苦しく包み込んでいる。
ディートハルトの言葉は、エリシアの中の「解決者」を正確に殺した。
そのあとに残ったのは、前にも後ろにも動けぬ沈黙だけだった。




