第8話 潜入した帝国暗殺者が悲鳴をあげました。
俺は隠密魔法を極限まで高め、辺境領ボレアスの白亜の館、その庭の茂みに潜んでいた。
先日の三万の軍勢消失。その謎を解き明かすため、皇帝陛下直々の命を受けて潜入したのだ。
(……見つけた。元王国の公爵令嬢セレスティアと、聖女アリスだ。軍勢を消し飛ばした兵器か何かが、この屋敷に隠されているはず……!)
庭のテラスでは、二人の少女が優雅にティータイムを楽しんでいる。
平和な光景だ。しかし次の瞬間、俺は自分の目を疑った。
「あっ、お姉様。少し風が冷たくなってきましたね。ポットのお茶が冷めてしまいましたわ」
「あら、本当。メイドを呼んできましょうか?」
「いいえ、私が温め直しますから!」
アリスと呼ばれた少女が、ティーポットに指先を向けた。
その指先に集束していく魔力陣の形を見て、俺は声にならない悲鳴を上げそうになった。
(な、なんだあの魔法陣の複雑さは!? あれは帝国魔法省の最高機密、発動に数百人の魔導士の命を代償とする超広域殲滅禁呪『煉獄の息吹』!? ば、馬鹿な! なぜあんなものを無詠唱で!?)
絶望的な破壊のエネルギーが放たれる——俺が死を覚悟して目を閉じた瞬間。
『ぽしゅっ』という可愛らしい音と共に、ティーポットから適温の湯気が上がった。
(……は? 今、禁呪クラスの魔力を、ミリ単位の熱量に圧縮して紅茶を適温(80度)にした、だと!?)
震えが止まらない。
出力を上げるより、暴走必至の膨大な魔力を極小に抑え込む方が何万倍も難しい。アレはもはや、神の御業か、悪魔の所業だ!
だが、俺をさらに絶望の底に叩き落としたのは、隣に座る公爵令嬢セレスティアの反応だった。
「ふふっ、すごいわねアリスさん。お茶の温度一つまで完璧だなんて。よしよし、いい子ですね」
「えへへぇ……お姉様に撫でられちゃいましたぁ♡ 私、お姉様のためなら何でもできますっ!」
セレスティアは、あの『歩く自然災害』の頭を、まるで愛玩犬でも撫でるかのようにポンポンと叩いたのだ。そして聖女も、顔を真っ赤にして尻尾を振るように喜んでいる。
(ヒィッ……!? ま、まさか……あんな化け物を『洗脳』し、手駒として完全に支配しているというのか!? あの公爵令嬢、微笑んでいるが目が一切笑っていない……! 違う、あいつはただの追放された令嬢じゃない。世界の裏側を牛耳る『真の魔王』だ!!)
この事実は、すぐに皇帝陛下に報告しなければ。
あの女の機嫌を損ねれば、帝国など半日で灰にされる!
俺が撤退しようと、一瞬だけセレスティアの顔を注視した、その時だった。
スッ……と。
紅茶を飲んでいた聖女アリスの瞳が、俺の隠れている茂みを正確に捉えた。
距離は50メートル以上ある。隠密魔法も完璧なはずだ。
だが、アリスの口の動きが、俺の脳内に直接死の宣告を叩き込んできた。
『——誰の許可を得て、私の愛するお姉様の美しい顔を、3秒も直視しているの? 汚らわしい豚が』
ズパァァァァンッ!!
茂みの左右の地面が、不可視の光線によって音もなく深さ100メートルまで抉り取られた。
『次は当てる』という明確なメッセージ。
(ヒ、ヒィィィィィィィッ!!)
俺は失禁しながら、転がるようにして転移の魔道具を起動した。
* * *
「あら? 今、茂みの辺りで音がしませんでしたか?」
「気のせいですわ、お姉様! きっと、身の程知らずの野良豚が逃げていっただけです。さあ、私のお口にもクッキーをあーんでお願いしますっ♡」
セレスティアの勘違いと、アリスの過剰防衛によって。
帝国最強の暗殺者は心を完全に破壊され、後日、ガルディア帝国はボレアス領を「絶対不可侵の魔王領」に指定することになるのだが、二人は今日も平和にお茶を楽しんでいた。




