第65話 本当に優しい家族たちだわ。
指先にワイヤーが食い込む。
ルカが磨き上げた大理石の亀裂から噴き出しかけた黒い灰を、俺は天井裏の暗がりから縫い止めようと息を殺した。
だが、事態は俺の予測を遥かに超える速度でぶっ壊れる。
「セレスティア様!?」
ヴィクトリアの悲鳴にも似た声が響く。
眼下を見下ろすと、ヴィクトリアの腕の中で、セレスティアがふらりとよろけていた。
白い頬が不自然に赤い。発熱だ。
「ごめんなさい……少し、働きすぎたみたい。ベッドで横になるわ」
セレスティアが弱々しく微笑む。
「……静かに、寝かせてね?」
ピシリ、と。
屋敷の空気が、物理的に凍りつく。
『お嬢様の安眠を1デシベルたりとも妨げてはならない』
【絶対無音ルール】が、ボレアス領主邸の全域に発令された。
(おい嘘だろ……ッ!)
胃袋がちぎれるような痛みを訴え始める。
アリスたちは倒れた主を抱きかかえ、音もなく寝室へと移動していく。
俺も逃げ出したい。だが、下の大理石の床下には、地雷が敷き詰められている。足を踏み入れた途端に爆発だ。
一歩でもこの埃臭い梁を「ギシッ」と軋ませれば、コンマ一秒で下から光の刃と鋼糸が飛んできて、俺の肉体を音もなくミンチに変える。
退路は絶たれた。
俺は冷や汗を滝のように流しながら、メイドたちの頭上を這い、通気口のダクトを伝って、死に物狂いでお嬢様の寝室の天井裏まで追跡するハメになった。
寝室の天井裏。真鍮の飾り格子の隙間から下を覗き込む。
直後、屋敷の裏庭に通じる窓の鍵が、外から音もなく外された。
黒装束。王都から放たれたプロの暗殺者どもだ。領主が倒れた隙を狙って、五人の影が絨毯の上へ滑り込んでくる。
(バカ野郎ども! 今入るな! 同業者ども、逃げろ。死神の胃袋の中だぞ!)
心の中の絶叫は、当然誰にも届かない。
暗殺者の一人が、短剣を抜こうと鞘を「カチャリ」と鳴らした。
微かな金属音。
次の拍子、暗殺者の首から上が消失した。
血の一滴も、悲鳴のひとカケラも出ない。
アリスが空間ごと頭部を転移させ、崩れ落ちる死体をクロエが鋼糸で絡め取り、ふかふかの絨毯の上へ音もなく着地させる。
フローラルな香りのするゴミ袋が広げられ、ものの数秒で、プロの暗殺者だったモノが次々と手際よく詰め込まれていく。
厨房の方角からは、コトコトという優しいお粥の煮える音だけが響く。
周囲の音は、何一つない。
(……誰か、俺を助けてくれ……っ!)
狂気の無音解体ショーを格子越しに見下ろしながら、俺はただガタガタと震え、奥歯を噛み割り続けることしかできなかった。
***
ふかふかのベッドの中で、ゆっくりとまぶたを開ける。
熱はいくぶん下がったみたい。だけど、体がまだ少しだけだるい。
それにしても。
……お屋敷の中が、静かだわ。
いつもなら、メイドたちがバタバタと走り回る足音が聞こえてくるのに。微かな物音ひとつ、食器の触れ合う音すらしない。
(みな、わたくしが寝込んでいるからって、気遣ってくれているのね……。本当に優しい家族たちだわ)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
コンコン。
木目を叩く、ごく控えめなノックの音。
「セレスお姉様、お加減はいかがですか?」
「お嬢様、特製の薬膳粥をお持ちしましたわ」
アリスとクロエが、湯気を立てるお盆を持って部屋に入ってくる。
二人とも、いつにも増してきらきらとした、笑顔。ただ、ほんの少しだけ、エプロンから除菌魔法の香りが強く漂っている気がするけれど、気のせいかしら。
「ありがとう。……とってもいい匂いね。お肉がすごく柔らかそうだけれど、わざわざ領地の森で魔物さんを狩ってきてくれたの?」
「ええ! とっても『新鮮な獲物』が、お屋敷のすぐ外まで飛び込んできてくれましたの!」
「はい。血抜きも解体も、音を立てずに手早く終わらせましたわ」
(まあ、アリスたちったら。『朝穫れの山鳥』を、下ごしらえして届けていただいたのね。本当に、ボレアス領の連携は文化的で素晴らしいわ)
わたくしは嬉しくなり、ふーふーと息を吹きかけて、木のスプーンで一口いただく。
……美味しい!
辺境の森の魔物とは思えない、王都の超高級店で出される保存食のような、洗練されたスパイスの味。二人の料理の腕がまた上がったのね。
心身に染み渡る温かさに、わたくしはほっこりとお粥を味わう。
――ポツリ。
鼻先に、冷たい水滴が落ちてきた。
「あら?」
見上げると、意匠を凝らした天井の通気口。
真鍮の飾り格子の暗がりの奥から、もう一滴、水滴が落ちてくる。
「立派なお屋敷なのに、雨漏りかしら? あとでルカさんに修理をお願いしないといけないわね」
わたくしが優雅に微笑んで呟いた、直後だった。
ピタリ、と。
アリスとクロエの動きが停止した。
満面の笑顔のまま、
音もない。言葉もない。
ただ、純度百分パーセントの殺意が、二人の足元からドス黒いオーラとなって天井の『雨漏りの発生源』へと真っ直ぐに立ち昇っていく。
『――ヒィッ……!?』
通気口の向こうから、誰かの引き攣ったような、蛙の潰れたような微かな悲鳴が聞こえた気がした。
「あら? 今、何か音が……」
「気のせいですわ、お姉様」
アリスとクロエは、虚無の瞳のまま、最高に美しい笑顔でわたくしにお粥を差し出した。
やっぱり、わたくしの家族は世界一優しいわね。




