第64話 何だ、ルカが磨き上げた廊下は。
ギシッ、と。
埃臭い天井の太い梁が鳴る。
腹ばいでへばりつく俺の眼下には、一階の大廊下。
っていうか、何だ、ルカが磨き上げた廊下は。
メイドどもが狂ったように磨き上げた大理石。
塵ひとつねえ。
光を残らず反射する。一歩踏み入れた途端に首の骨が折れるスケートリンクじゃねえか。
絶対に行きたくねぇ。
そう思って額の冷や汗を拭った、直後だった。
角を曲がってきた金髪の令嬢――ヴィクトリアが無音で足を滑らせやがった。
おい嘘だろ。
宙を舞う、ふくよかな肉体。
顔面から大理石へ、一直線。
考える暇なんかねえ。俺の体が勝手に虚空へ飛んでいた。
視界の端のクレーンフックへロープを回す。
鉄釘に結び目を縛り付け、足に絡めてダイブ。
フックを支点に落下のエネルギーを殺す。
空中でヴィクトリアの腰を抱きとめ、振り子の反動で壁際へ。
着地。
背筋が千切れる。痛え。
だが奥歯を噛み割りながら、太い柱の陰へヴィクトリアを強引に引きずり込んだ。
「……っ、助かりましたわ」
荒い息を吐くヴィクトリアが顔を上げる。
ただ、視線は俺の顔じゃねえ。
手すりに結んだロープの、特殊な結び目をじっと凝視していやがる。
「ただの清掃員ではありませんわね。……裏社会の人間かしら」
さすがはボレアス邸の令嬢、目が利きやがる。
俺は誤魔化すのをやめ、鼻で笑ってやった。
「高貴な令嬢様が、イカれた屋敷で一番まともな目をしてるなんてな」
視線が交差する。身分も、立場も違う。
だけど、ボレアス領主邸の異常空間のヤバさを正確に理解している。
意思疎通の一点だけで、俺たちの間に奇妙な連帯感が生まれていた。
「ヴィクトリア様、お怪我はなくて?」
角から現れたセレスティアが、優雅な足取りで近づいてくる。
冷たい大理石の床に、お嬢様の白い靴底がゆっくりと降り立つ。
光が走る。
漆黒の灰が、音もなく、お日様に干したてシーツのような白い湯気に変わり、見る間に空気中へ溶けていく。
表面上は、塵一つない優雅な廊下。
だが、梁の上の暗がりから見下ろす俺の目は騙せない。
ルカが磨き上げた特製ワックスの半透明な皮膜。そのわずか下、大理石の亀裂の奥底では、ドス黒い魔力がピキピキと歪な音を立てて圧縮されている。
消滅などしていない。
逃げ場を失った何かが、ワックスの下で爆発寸前の圧力を高めて呼吸を繰り返している。
残されたのは、いつ踏めば弾けるか分からない極限の地雷原。
「あ、あふぅ、あ、ありがとうございますセレスティア様……っ! わたくし、感激のあまり、胸が、お胸がいっぱいでしてよーーッ!!」
ヴィクトリアが、お嬢様の細い体に猛然と抱きつく。
お嬢様のやわらかい温もりと甘い香りが脳髄をバーストさせるのか、ヴィクトリアの頬が林檎のように赤く染まる。
「さあ、お茶会の準備に戻りましょう」
お嬢様が優雅に一歩を踏み出そうとする。
お嬢様の靴の圧力に反応して、ピキ、ピキ、と目地から黒い煙が噴き出しかけた。
(マズい、もう一歩踏み出されたらワックスが剥がれる! メイドどもに気づかれず、床の亀裂を、俺のワイヤーだけで縫い合わせるしかねえ……!)
ザックの指先に、ワイヤーが血が滲むほどにギチリと食い込む。




