第62話 ……もうだめだ。寝たい
(……胃が痛い。いや、胃袋ってどこだっけ?)
深夜の執務室。
私の隣のデスクでは、神狼シロと、特級呪物であるぬいぐるみのハミィが並んで座っていた。
二匹とも、妙にキラキラと目を輝かせ、嬉しそうに尻尾を振っている。お嬢様の無自覚で神速すぎる領地開拓が生み出す絶望的な業務量と、裏で暗躍するアリス様たちの理不尽な圧力。
その板挟みから生き残るため、彼らは自衛としてユニークスキル『無我境界決裁』を獲得し、もはや苦痛を喜びに変換する境地へと至ってしまったのだ。
我が領地が誇る、哀しきマスコットたちである。
カチャ、ドン。カチャ、ドン。
深夜の静寂に、二匹が嬉々として領主印を叩きつける音だけが規則正しく響いている。
楽しそうで何よりだ。
「レイヴン事務官。魔力運用グラフの最新データです!」
書類を抱えた事務官のマルコが、さわやかな笑顔で歩み寄ってきた。
彼はまだボレアス領の深淵を知らない、元気な青年だ。
受け取ったグラフの線には、局地的に巨大な大穴が空いている。
「……やはりな。事前の調査通りだ」
「はい! ボレアス領の魔力供給網を破壊し、明日からのエキスポを混乱させるための大規模な呪術陣ですね! 敵本隊の構築完了は間近で、明朝には発動するみたいですよ!」
マルコはハキハキと元気よく報告すると、爽やかに一礼し、軽快な足取りで退出していった。
(マルコはいつも元気だな………)
国家転覆レベルの危機をピクニック気分で報告する彼にツッコむ余力は私に残っていない。
「レイヴン。みんなも、夜遅くまでお仕事ご苦労様。……あまり無理しないで、休めるときに休むのよ?」
ふわりと花の香りが漂う。
扉が開き、セレスティア様が姿を現した。私たちを心から気遣う、慈愛に満ちた瞳。
(……あなた様の神速すぎる偉業を適切に処理するため、数日徹夜が続いていますが。この偉業を捌くことこそ、筆頭事務官たる私の至上の喜び。我が胃壁など、いくらでもお嬢様の歩む道の薪にしていただきたい)
私は深い忠誠を鉄仮面の下に隠し、静かに一礼した。
お嬢様の背後には聖女アリス様。
彼女のアホ毛が、妙な熱気でチリチリに縮んでいる。
セレスティア様の手には、二つのカップ。
――ボコッ、ゴポゴポッ。
カップの周囲が陽炎のようにぐにゃりと歪んでいる。
ピキッ、と陶器のカップが悲鳴を上げる音が聞こえたが、聞こえなかったことにした。
「夜は冷えるから、からだがあたたまるようにアツアツにしてきたのよ」
「お姉様のためですから、太陽の表面温度をイメージしましたわ!」
胸を張るアリス様。
私はそっと目を逸らした。……飲んだら死ぬな、あれ。
窓の外では、土砂降りの雨がガラスを激しく叩きつけている。呪術陣の影響だ。
「ひどい雨ですね……。明日は、いよいよエキスポの初日だというのに」
セレスティア様が窓の外を見つめた、次の瞬間。
「お姉様のお心に、あんな泥みたいな雨の影が落ちるなんて……いやですわ」
空気が、凍った。
アリス様の瞳から光が消える。私の喉がひゅっと鳴った。純粋に怖い。
「少しだけ、きれいにしてまいりますね。お姉様は気にしないでくださいませ……ね?」
甘ったるい、可憐な少女の声音。
しかし、アリス様の指先には領地ごと消し飛ばす規模の極大魔法が圧縮されていた。雨雲と敵をまとめて『お掃除』する気だ。
「ダメよ、アリス。明日はお茶会なのだから。いくらなんでも、力ずくでなんてお行儀が悪いわ」
ボレアス領において、お嬢様が制定した『おもてなしの法』は絶対だ。
行事期間中の野蛮な振る舞いは、たとえ相手が自然現象であろうと一切禁止されている。
お嬢様のその言葉だけで、アリス様はビクッと肩を震わせた。
「も、申し訳ございません……」
即座に可憐な少女に戻る。
「いいのよ。……天候は、私がなんとかしておくわね」
セレスティア様は私のデスクへ歩み寄り、明日の『行事予定表』を手に取った。
万年筆を走らせる。
『明日の天気:快晴』
「よしっ、と」
ドンッ。
領主印が叩きつけられた。ボレアス領の自然法則に直接干渉する、絶対の権能印章。
――ズガァァァァァァンッ!!!!
分厚い雨雲が、真っ二つに割れた。
雨が止み、星空が覗く。
……あー。
うん。晴れた。
すごいな。
「ほら、明日はいいお天気になりそうね。……ふふっ、魔法を我慢できて偉かったわね、アリス」
私の思考が停止していく中、セレスティア様は沸騰し続けるカップを持ち上げた。
「はい、お利口さんだったご褒美。……ふぅ、ふぅ。あーんして?」
「…………っ!?」
アリス様の顔が朱色に染まる。
お嬢様の吐息。そして、差し出されるマグマ。
「お、お姉様直々の、あーん……ッ! あひぃぃ……ッ!」
アリス様は一切の躊躇なく、それを迎えに入れた。
ジュッ、と嫌な音がした。
絶対痛い。しかし、アリス様は滝のような涙を流していた。
「あぁぁ……ッ! お姉様のアツアツの愛が、私の中の口内を……ッ! 痛い……けど、しあわせぇ……ッ!」
プシューーーッ!
両耳からヤカンのような蒸気が噴出した直後。
シュボッ、という間抜けな音とともに、アリス様の肉体が真っ白なシーツのような謎の膜に包み込まれ、ぽっかりと。執務室の空中に、まん丸の「てるてる坊主」が浮かび上がった。
「あらあら。明日の晴れが嬉しくて、てるてる坊主になっちゃったのね」
空中に浮かぶ正体不明の塊を優しく撫で、お嬢様は微笑んでいる。
私はそっと椅子に沈み込んだ。
震える手で、冷めたコーヒーを飲まねばやってられないと思い、……こぼした。
ピチャッ。
コーヒーの飛沫が、てるてる坊主の裾を少しだけ汚す。
「ひゃっ」
布の内部から、くぐもった声が響いた。ゆらゆらと、てるてる坊主が揺れる。
「あら、アリス。コーヒーのシミがついちゃったわよ?」
「お姉様の、声が……反響するぅ……」
てるてる坊主の内部が、恍惚としたピンク色に発光している。
……何が起きているんだ。いや、もう考えるのはやめよう。
ガチャ。
そこへ、モップを抱えた清掃員の少年ルカが、太陽のように元気な笑顔で入ってきた。
「お疲れ様っす! 明日のエキスポに向けた廊下の清掃、ピッカピカに完了しました! ……おや?」
ルカの視線が、空中に浮かぶ巨大なてるてる坊主(アリス様)でピタリと止まる。
途端に、その人懐っこい瞳の奥に、お掃除のプロとしてのクリーン・バーサーカーがギラリと宿った。
「なんすか?ゴミが浮いてるっすね。よーし!俺の特製聖水モップで跡形もなくおそうじ――」
「ルカ、それはアリスよ。明日の晴れをお祈りしてくれているから、お掃除しちゃダメよ」
「あっ、アリス様だったんすね! 了解っす!」
ルカは満面の笑みのまま、キュッ、と元気にてるてる坊主に一礼し、軽快な足取りで退出していった。
この領地の人間は、明るく爽やかに狂っている。
「……もうだめだ。寝たい」
うっかり漏れた本音。
だが、心の声を聞き逃さないのが、うちの慈愛に満ちたお嬢様である。
「まあ、レイヴン。疲れて寝たいの? じゃあ、アリスが子守歌を歌ってあげるわ」
「お姉様のためなら……ッ! レイヴンにもぉ……ッ!!」
ピンク色に発光する巨大なてるてる坊主が、ゆらぁ……と空中で首を傾げながら、不気味にこちらへ迫ってくる。
(頼むからやめてくれ。ホラーだ)
私は心を無にし、通信用の魔導具を引き寄せた。
冷徹に暗号を打ち込む。
『――敵本隊の強襲は明朝。お嬢様の「おもてなしの法」に従い、我々の手で、根こそぎ処理しましょう』
明日のエキスポ。お嬢様の視界に、不快感は一切映さない。
……そうすれば、私は早く帰って寝られるのだから。




